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死ぬときは、苦しいのか

「親が死ぬ日が来ると思うと恐怖を感じる」と何人かの方から伺ったことがあります。
「死がわからない。きっと苦しく、恐ろしく、辛いことなのだろうと思う」と。

最近、祖父の死に立ち会ったという若い女性の話を聞きました。
「死ぬって、テレビとかでしか見たことがなかったから、凄く苦しんで、何か一言言って、ガクッて・・、そういうものなんだって思っていたのに、全然違うんですね」

病気などで、人が自然に死ぬとき、人は、ガクッとは死にません。
長い時間をかけて、徐々に弱っていきます。
弱って、食べたり、飲んだり、会話をしたりすることが難しくなります。
やがて意識を保っていることも難しくなります。
その頃には、痛みも苦しみも全く感じなくなると言われます。

やがて呼吸をすることが難しくなり、苦しそうではありませんが、独特の呼吸(下顎呼吸)が始まります。それも徐々に弱まっていきます。
止まったり、また呼吸をしたりを繰り返し、そしてやがて静かに止まります。
旅立ちは、出産と同じように、いえ、それ以上に長い時間をかけて少しづつ進みます。
それは、とても静かで、穏やかで、自然で、苦痛とは遠いものです。
(私の経験ですが、色々な本を読んでも同じように書かれています。)

私の友人は、スキューバダイビング中の事故で臨死体験をしました。
「呼吸ができなくて、パニックになってもがいていた時、急に、ふっと楽になった。
辺り一面に見たこともない美しい光が現われて、それにうっとりと見とれた。
最高に気持ちがよく、言いようのない深い幸せに満たされていた。
『死ぬんだな』と思ったが、まったく構わないと思える程の恍惚感に満たされていた」
それ以来、友人は、死ぬことが少しも怖くなくなったと言います。

科学では、これは、脳の酸欠状態で起こる現象と説明されています。

死ぬとき、人はもう意識がないように見えます。(聴覚は、残っていると言われます。)
でもその体の中では、きっと見たこともない美しいものを見、至福の中に安らいでいるのだと、私は、思っています。(まだ経験したことがないので確証はないのですが・・)
そして自分もいつかそんな体験をすることを楽しみにしています。

私は、私の死後、私の感情が残り続けることもないと考えています。
「さぞかし無念だったろう」という言葉をしばしば聞きますが、私の苦しみ、悲しみ、無念は(もし仮にあったとしても)私の死と同時にきれいさっぱり、見事に消え去り、どこにも残ることはないと思います。
家族には「無事に死ねてよかったねぇ。長い間お疲れさん」と微笑んで欲しいです。

<関連記事>
*「死のイメージ」(ヤゴに例えた美しい寓話)
*カテゴリ「死を受け入れるために
*「米国ホスピス・ボランティア体験記

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No title

本当にそうですね。
5歳の時に父を看取ってはいますが、2時間前まで起きてしゃべっていた人だったので、ただ寝ていると医者が死を告げただけの記憶でした。

でも最近、犬が逝きました。初めての看取りを経験しました。
老衰の死は、ゆっくりと、自然でした。
どうやって苦しみを癒そうかと考えていましたが、ただそばにいれば、それで十分でした。穏やかな表情で、大きくゆっくりと息をして、だんだんそれが少なくなっていく。がくっと力がなくなることもなく、いつが最後の息かも分からないくらい自然でした。既に前日から体が氷のように冷たくなり、瞼も開いたまま。心臓が止まるのが死との認定という理由がよく分かりました。

暮れに慰問演奏した障がい者施設で、前日に練習場所が葬儀会場になっていました。入所者さんが亡くなったそうで、「クリスマスのおめでたい曲を演奏していいんですか?」と尋ねたら、スタッフの方々はニコニコ笑って「やっと楽になったんだよ。みんなで明るく見送ってあげよう」って。そこは本当に重度の施設で、みんな亡くなるまで一緒、大きな家族みたいな雰囲気です。そこでの死は、人の営みの一部として自然に受け入れられていました。

No title

kimiさん コメントありがとうございました。

ペットを看取るのは、本当に貴重で素晴らしい体験だと思います。

私も子供の頃、病気の犬を看取りました。
初めて、人の臨終に立ち会った時、『犬が死ぬ時と同じ過程なんだ』と知りました。
私には、それが大きな救いに感じられました。

人間の死だけが、特別に悲劇的でも悲惨でも苦しいのでもない。
人間も一動物(生き物)として、静かに穏やかに死んでいくのだと知り、死への恐怖感が薄れました。

私の祖父は、晩年、「元気で長生きしてね」と言うと「もうそろそろお迎えが来る頃だ」と、当たり前のように平然と淡々と言いました。
死が怖くはないのかと、当時は、とても驚きました。

でもあれから何十年も経ち、今は、少しわかる気がします。
親も親戚も兄弟も友達も次々と亡くなって、体はどんどん衰えていって、下り坂をおり切った頃、『そろそろ次は自分の番かな。母親にまた会えるかなぁ』と思うのは、自然なことに思えます。

そんな風に本人も死を精神的に受け入れて、静かに穏やかに死んでいくことは、何も悲劇的なことではなく、本当に生き物として自然なことではないかと思いました。

今は、いつまでも若くて元気なスーパー老人も多いですが、(マスメディアにはそんな人しか出ませんが)普通に老いて、体中あちこちガタがきていて、ヨタヨタしていても、ボケていても、それこそ人間らしくて、自然で、いいじゃないかって思うんですよ。
誰もが、最後は、そうなるんですから。

No title

しばさん、こんにちは。
わたしは父の死も兄の死も体験しましたが、
その瞬間には立ち会っていませんでした。
死は私にとってずっと恐ろしいものでした。
今回の記事を読んで、少し、気持ちが楽になりました。

私自身は息が出来なくなるのがとても恐ろしいのです。
ですから、溺れる、ということが一番怖いです。

ダイバーの方の記事を読んで、学びました。
ありがとうございます。


No title

MKさん、ありがとうございます。

私も死ぬことに対する恐怖心が、子供の頃からもの凄く強かったですよ。
あまりにも恐ろしいので、それについて学ぼうと思いました。

私たちは、多分、愛する人と死に別れることの精神的な耐え難い苦痛と死という一種の生理現象をごっちゃにしてしまっているのだと思います。

一種の生理現象としての死は、決して悲惨でも苦痛に満ちたものでもない本当に穏やかに見えるものです。

人は、致命的なケガを負った時も痛みをまったく感じないそうです。
酸欠からか、ショックからか、何からかは、わかりませんが、脳からモルヒネのような物質が出るそうです。

私自身は、ランナーズハイ(走ってではありませんが。)のようなものを1度経験しています。
運動して、苦しくて苦しくて『死ぬ〜!』と思った時、突然、もの凄く気持ち良くなって、疲労感も苦痛もゼロになり、『このままいつまででも続けていたい』と思えるほどの恍惚感があったんです。(普通に意識はありました。)

人間の脳というのは、危機に陥った時には、そういう麻薬のような物質が出て、ちゃんと苦しまないように、いや、それを越えて、もの凄く気持ち良くしてしまう作用があるようです。

昔読んだ「死に方のコツ」という本にも「断末魔の苦しみなんて存在しない。人は、最期の時には、苦痛を感じない」と書いてありました。

死ぬ時、どんなに苦しかっただろう、辛かっただろう、痛かっただろう、寒かっただろう、無念だったろう・・というのは、私たちが死別の苦しみの中で、一方的に想像し、思い込んでいることに過ぎません。

私は、死は、出産と同じだと考えているんです。
どこから来たかわからないけれど、私たちは、この世に生まれてきました。
どこに行くかはわからないけれど、私たちは、いつか、この世を出て行きます。

この世を出て行く時というのは、この世に来たときと似ていると思うんです。
赤ちゃんだって、頭も体も押しつぶされて、危機的な状況の中をこの世に出て来ますよね。
死ぬ時も、やっぱり危機的な状況をくぐり抜けていく・・。

誕生が自然の摂理なら、死もまた自然の摂理ではないでしょうか。

誕生も死も同じように大変なのに、一方は大喜びして、一方は恐がり、忌み嫌い、考えるのも嫌だというのは、感情だけにとらわれ過ぎていると思うんです。
「死別の感情的苦しみ」と「死」というものは、分けて考えた方がいいです。

出産を見守るように、死んでいく人も、無事にこの世から旅立っていけるように、静かにあたたかく見守ってあげたいと思うんです。

No title

しばさん、素晴らしいコメントをありがとうございます。

そうですね、死別の精神的な苦しみと、死に至る生理的・肉体的現象を、混ぜてしまう、ということなんですね。

なるほど!

誕生と死が同じように摂理だ、という考え方も、
本当にそうかもしれないですね。
両方とも、別の世界に行く扉、というふうに解釈できるかもしれませんね。

知人のご主人様が亡くなるまえに、
「心配しないで。扉のあちら側に行くだけだから。」
とおっしゃったそうです。

また、私の尊敬していた先生が最近、亡くなったのですが、いつもおっしゃっていたのは「死別はさびしいけれど、悲しくはない。」ということでした。
「死そのものは悪いことではない。」と。

いろいろと考えさせられます。

しばさんのコメントは、哲学的で、とても興味深いです。
プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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