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見えなくても、聞こえなくても

2010年も今日で終わりです。

このブログを読んで下さった方、
コメントを書いて下さった方、
私たち家族を支えて下さったたくさんの方々、
本当に、本当に、ありがとうございました。
皆さんのお陰で、困難を越えてくることができました。

どうぞ良い年をお迎え下さい・・・。


好きな絵の1つに東山魁夷の「年暮る」があります。
雪の中の町並み(京都)を描いただけの絵なのですが
一軒、一軒の中に息づく一家族一家族、一人一人の喜びや
哀しみや深い想いや祈りが、胸に迫ってきます。
除夜の鐘の音も聞こえてきます。

このブログを訪ねて下さったお一人、お一人は、私からは、見えません。
でも、それぞれの方に大切なご家族がいらっしゃり、そこには、深い想いが、
祈りがあるのだと想像しています。
密かに、お一人、お一人を「同志」のように感じたりもしています。
静寂の中に、応援の声を聞くような気がします。
私も応援の声を送り返したいと思います。
見えないお一人、お一人に・・・。

しば

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東山魁夷「年暮る」




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しば
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「今年はどんな年でした?」

「今年はどんな年でした?」と最近、ふいに知人から訊かれた。
しばらく言葉が、出なかった。
頭の中に、様々なシーンが、駆け巡った。
(死ぬ前に人生のたくさんの出来事が走馬灯のように流れるというが、似た感じか?)

それでも不幸な年だったとは、不思議と思わない。
実家に繰り返し通っている間には、学ぶこともたくさんあった。
ブログ等を通して思いがけない方々とも出会い、その方々から多くの貴重なことを教えて頂いた。
たくさんの方々に支えられた年だったと思う。
感謝の気持ちでいっぱいだ。

日常のなにげない小さなことに幸せを感じるようにもなった。
家族(夫や子供)のほんのちょっとした気使い。
家族揃って食卓を囲むこと。
家族みなが健康でいること。
そんなことに、深い、しみじみとした幸せを感じられるようになった。
『あれもない、これもない』と思ってきたが、今は、『何にもなくていいや』と思う。
何にもなくても、お互いを思いやることのできる家族、友人がいれば、それでいい。
彼らと一緒に過ごせる時間を慈しみたい。

歩けること、一人でトイレに行けること、料理が作れること・・。
1つ1つが、幸せなことだと思う。凄いことだと思う。
いつか私にもそれができなくなる日が来る。
その日以降をしっかり生きていくために、その日までをていねいに生きたい。

認知症という両親の病気は、離れていた家族(自分が育んだ家族ではなく、自分を育ててくれた家族)を強力に結びつけた。
もちろん色々な考えや感情が、直球でぶつかり合うので(義理の親兄弟ではないので、ある種の遠慮はない。)傷付け合うことも当然ある。
でもそうしたことすべてを込みにして、私たちは、一緒に暮らしていた頃よりも強く繋がっていると思う。
お互いを必要とし、助け合い、感謝し合っている。
弱いからこそ。非力だからこそ。

何が良くて、何が悪くて、何が幸せで、何が不幸かなんて、本当にわからないものなんだなと、あらためて思う。





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私と母の間の距離

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自宅で大げんか

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アルツハイマー病発症の原因物質(新説)と嗅覚

嗅覚について書いた翌日(’10.12.26)の日経新聞に「アルツハイマー病に新説。難航する薬開発 打開なるか」という特集記事が出た。(15ページ、サイエンス欄。かなり長い記事)
(以下、青い字は、記事からの抜粋だが、省略したり加えたりして原文通りではない。)

「タウたんぱく質」という神経細胞(ニューロン)の骨格となる物質が壊れて糸くず状にたまると神経細胞が死に、アルツハイマー病を発症することが分かってきた。
病気の発症や進行を防ぐ新しい治療薬につながるとして研究に力が入ってきた。


アルツハイマー病は、これまで「アミロイド仮説」に基づいて治療薬開発が進んできた。
これは、神経細胞の外側にアミロイドベータという物質がたまって老人斑というしみのような状態になり、アルツハイマー病を発症するという説だ。
しかしこの説に基づいた治療薬の開発が思うように進んでいない。

約2千人の患者などを調べたデータを分析した結果。
記憶を担う嗅内野という部位の神経細胞に、早い人は、20代後半から糸くず状のタウたんぱく質がたまりはじめていたという。50歳代でも約半数が蓄積していた。
もちろん記憶障害などは起きる前で、この後、大脳皮質などにアミロイドベータもたまり始め、病気になる可能性が高い。

アルツハイマー病の発症メカニズムは複雑で原因は完全に解明できていない。
ただ新しい標的物質の発見は、患者にとって治療の選択肢が広がる可能性がある。


神経細胞を死滅させるというタウたんぱく質が、早期にたまり始めるという嗅内野。
調べてみると、文字通り嗅覚を担い、かつ海馬の入り口にあって記憶も担っている。
嗅内野の近くには、感情を担うへんとう体もあり、「匂いと記憶と感情が、密接に結びついている」という内容の放送もあった様子。(「サイエンスゼロ」 2010年6月26日放送「こころを動かす嗅覚」
(放送内容については「薔薇と宝塚とキラキラが好き」にとても詳しい。)

12月6日のNHKあさイチでは、アロマセラピーが認知症の症状に効果があるという放送もあった。
アロマオイルの特殊な配合をするのかと思ったら、昼は柑橘系の香りで脳を活性化、夜はラベンダーなどの香りで脳を落ち着かせると言っていた。これは、アロマオイルのごく一般的な使われ方だ。
母にも試してみようと思って、そのままになっていた。

今年は、認知症に関するニュース、報道、特集番組が、驚く程多かった気がする。
自分がこういう状況に置かれたから目が行くのかとも思ったが、他の人に訊いても同じ印象を持っている。
レビー小体型認知症という病名も繰り返し目にし、耳にした。
(ピック病は、格段に少ない。)
(昨日は『ピック病でも臭覚異常が出るのかも』と書いたが、上記の記事を読むと、臭覚異常が出るのは、やはりピック病ではなくアルツハイマーかと思われる。)

脳の研究が早く進み、認知症の新薬やより良い治療法が出てくることを切実に願う。


臭覚異常 母を連れ帰るメリット

先週末の話。
父が母を連れ帰って自宅に泊めた翌日、妹が訪ねると部屋に臭気が充満していた。
見ると防水シートが掛かったシーツ(何枚も重ねてあった。)が、すべてぐっしょり濡れていたという。
父は、濡れていることにも臭いにもまったく気が付かなかった。
妹に指摘されて、ベッドに鼻を近付けて臭いをかいでもわからなかったらしい。

妹「どうして防水シートが敷いてあるのに濡れてるの?」
父、わからず。
妹「お母さんのパジャマだってびっしょりじゃなかったの?」
父、答えず。

初期の認知症を臭覚検査で発見するという研究の記事は、夏頃、新聞で読んだ。
「アルツハイマーなどの認知症には、初期から臭覚異常が出る」と書いてあった。
父は、夏には、母の便や尿の臭いが、わからないようだった。
臭覚異常は、ピック病にも出るのだろうか?(ネットで調べてもわからない。)
ピック病には、臭覚異常は出ないというのなら、父は、ピック病ではなく、アルツハイマーかも知れないと思う。
けれどもピック病のような症状が出るレビー、アルツハイマーのようなレビー、ピック病のようなアルツハイマーなど、認知症の症状の出方は、想像以上に複雑で多様なようだ。
ピック病にも臭覚異常が出る人、出ない人、色々いるのかも知れない。

グループホームの職員は、母が、自宅に泊まることを歓迎していない。
「泊まるのが、よっぽど疲れるようで、戻ると表情が全然違います。延々と眠り続けたり・・・」
表情が明るくなるのならいいのだが、死んだようになるらしい。
妹も母の穏やかな生活のリズムを毎週末、父が滅茶苦茶にしているのではないかと心配している。
食事の関係もあるので、外泊のときは、前日から言って欲しいと何度も父には伝えてあるようだが、相変わらず突然来て、「行くぞ!」と連れ去って行く。
その時の本人の気分も希望も無視。
まるで拉致・・。

それでも母は「お正月は、10日間(自宅に)泊まるの」と言っているらしい。
父は、私の夫にも電話で「もう少ししたら歩けるようになるから、そうしたら家に引き取って、私がずっと面倒を看る」と言ったそうだ。

父が母を家に連れ帰るメリットを私も妹も職員も誰も感じていないが、父と母の2人だけは、違うようだ。

母に葉書

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心を込めて・・・

みなさんへ
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しば

P.S.我が家のサンタです。ブリキで出来ています。





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ホルモン補充療法 No.2 黄体ホルモンを飲む

これは更年期(45~55才)の女性向けの情報。でも男性にも知っておいて欲しい。

治療を始めた経緯を読んでいない方は、こちらから。

2週間エストロゲン(卵胞ホルモンという女性ホルモン)のパッチを貼って、辛かった症状のほとんど全ては、即座に完全に消えた。
あまり変わらずあったのは、耳鳴りのみ。
一度だけ寝付きが悪く、夜中に暑くて起きた夜があった。
変だなと思ったら、パッチの交換を忘れていた。
これを貼らなければ、今も毎晩何時間も寝付けず、夜中に汗をかいて目を覚ましているのかと思った。
悪い副作用は、何も感じなかった。
しばらくすると肌の水分量(しっとり感)と弾力性(張り)が増した。
食欲も増して、1キロ位体重が増えた。

2週間後、予約通り再び産婦人科に行った。
医師「効果があったということは、更年期障害だったということですね。じゃあ続けますね?」
今度は、28日分のパッチに加えて黄体ホルモンの錠剤(朝夕食後1錠づつ)12日分を出された。(診察料と薬代を合わせて1310円。)
黄体ホルモンを12日間飲み終えると生理が始まるという。

医師「これを飲み続ける限り、50才を過ぎても生理はずっと来ます」
私 「どういうタイミングで止めるんですか?」
医師「自分で止めたくなった時です。もう面倒くさいから生理はいらないとか」
私 「徐々に薬を減らしていくんですか?」
医師「いえ。止める時は、その日からスパッと完全に止めます」
私 「それでまた元の症状がぶり返したらどうするんですか?」
医師「辛いようならまた再開します。症状が出なければそのまま止めます」
自分の臓器の手綱(コントロール)を手渡されたのかと思うとちょっと面食らう。

それでも色々な症状が消えて初めて自分は異常だったのだとあらためて思った。
『困ったな、辛いな』とは思っても、それが異常(病的)だとは思わずにずっと我慢してきた。
そんな女性が、世の中にはたくさんいるんだろうと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ホルモン補充療法を始めてからは、快調な毎日が続いていた。
が、黄体ホルモン(プロゲステロン)を飲み始めた途端、なぜか睡眠の問題をぶり返した。
(中々寝付けない。夜中に何度も目が覚め、しばらく眠れない。日によって早朝覚醒。でもストレスが原因ではないと思う。)
医師「眠くなるという副作用が出る人はいますが、眠れなくなったというのは報告されていません。しかし飲み始めたと同時になったと言うなら副作用ではないとも言えません。もう少ししたら体が慣れて治まるかも知れませんし、治まらなければ治療中止も考えましょう。まあ、もうしばらく様子を見て下さい」

黄体ホルモンを飲み始めてから、初めて胸の張りも始まった。
不快なほどではないが、時々胸に違和感(痛みとまでは呼べない。)を感じる。
サイズも若干大きくなった。
眠れないせいもあってか、疲れやすい。
年末でやらなければいけないことはいくらでもあるのに、腰が重い。
10日目からは、肌の乾燥も感じた。
ネットで見ると、全てプロゲステロンに伴う症状のようだ。
(何もしなくても生理前にはそういう症状が起こる人たちがいる。月経前症候群と呼び、その中には不眠も含まれる。)

それでも耐え難かった冷え性や発汗は、相変わらず消えている。
頭痛も異様な肩こりもない。
ホルモン補充療法を始める前と黄体ホルモンを飲み始めてからを比べても今の方がずっと楽だ。
体が慣れるかどうか、もうしばらく様子をみるつもりだ。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
このサイトでホルモン補充療法の詳細が、利点もリスクもよくわかる。

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今夜は月がきれいです

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母の新しい処方

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今日は母の診察の日

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認知症テーマのオペラ

今日(2010年12月19日)の日経新聞の社会面「窓」(小さなコラム)の記事の紹介。
「レビー小体型認知症家族を支える会」が企画した認知症をテーマにしたオペラ「醒めない夢のオペラ」公演を紹介する内容だった。
私は、オペラもちょっと見てみたいが、それ以上に「認知症患者がつけた日記」を読みたい。

「醒めない夢のオペラ」公式HP

以下が、新聞の記事。

認知症患者や介護者の思いをオペラで表現するコンサートが24日、横浜市で開かれる。
「病気を広く知ってもらおう」と、「レビー小体型認知症家族を支える会」(横浜市)が企画した。
上演するのは「醒めない夢のオペラ」。
徘徊(はいかい)や物忘れ、幻覚などをテーマにした歌を、プロの声楽家らが患者本人や介護する家族の役になり歌う。
歌詞は、ある認知症患者が6年間つけた日記を基にした。
全国各地の介護施設や公民館での上演も可能。
問い合わせは、アリア ミュージックオフィス(電話03-6766-6773)。





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母、法事に行く

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母の調子の良い時、悪い時  法事に出られるか

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仲の良い夫婦

「ご両親、仲が良いねぇ!」と言われることが時々ある。
否定はしないが、そう言われると小さな違和感を覚える。
おとぎ話のように、一本調子に仲の良い夫婦などいないと思う。

私が子供の頃、両親は店を営んでいたので、父と母は、いつでも一緒に過ごし、一緒に働いた。毎日朝早くから、夜遅くまで。定休日はなかった。紅白歌合戦も子供だけで見た。

父は、私が幼い頃から常に母を愛していた。そう私は感じていた。
けれども父は、母を毎日怒鳴っていた。少しでも意に添わないことがあれば、次の瞬間に出てくる声は、大きな怒鳴り声だった。

母は、父と比べるとずいぶん気持ちが冷めていたように感じる。
母は、父よりも子供を愛していた。
父に怒鳴られるたびに怒って言い返した。
「お父さんは、本当に困った人だね」と父の居ない所でよくため息をついていた。
「お父さんは、怒鳴ってるけど、全然怒ってはいないよ。お母さんが言い返した瞬間から怒り出すんだよ」
中学生の頃から母に何度も言ったが、派手な怒鳴り合いは、頻繁だった。
母は、そのまま家出もよくした。お財布1つを持って家を飛び出し、夕方頃になると戻って来る。
二十歳で親の勧めるままに見合い結婚をした母には、どこか子供っぽい所があった。

父「(母が橋本病になった時)○○病院の医者が、”癌だ”ってまともに言ってなぁ。お母さん、しばらく精神的におかしくなった時があったなぁ」
母を自宅介護した夏に、初めて父から聞いた。
昔、母から聞いた話では、大病院への紹介状を母が開封して読み、癌と知った。
(実際には、癌ではなく橋本病だった。甲状腺を摘出した。声を失う可能性があると言われたそうだ。)
小学生の3人の子供を置いて、34才の母は、名古屋(実家からは距離がある。)の癌センターに半年間入院していた。
検査しても検査しても正しい診断は中々付かず、10キロむくんで別人のような容姿になった。
入院する前、母は、私にお米の研ぎ方を教えながら泣いた。
母「お母さんが死んだら、新しいもっと優しいお母さんが来るよ」
あの時は、夫である父も苦しかったろうと、大人になってからずっと思っていたが、訊く機会がなかった。

「少し別居したいから、出て行ってくれないか」と父が言った時があったと、去年、初めて母から聞いた。
母の病気(橋本病)を機に店をたたんで、父が一人で新しい商売を始めたが軌道に乗らなかった時期だ。
「子供たちを置いて、私が出て行く訳にはいかない。出て行くならお父さんが出て行って欲しい」と母は答えたというが、結局別居はしなかった。
当時、父の表情が暗かったことは覚えているが、そんな夫婦の危機は、まったく知らなかった。

その後、養護学校を卒業した兄の就職先がないので、両親は、親戚の勧めもあり3人でできる仕事を自宅で始めた。
2月3月は、毎日夜中まで働いても間に合わないという、持病持ちの母には、過酷な仕事だった。

体力の限界を感じた母は、50才位で「定年退職」宣言をした。
仕事だけが趣味の父は、まったく未知の分野の特殊技術を数年の修行で身に付け、今もその仕事を続けている。
父は、常に勉強と創意工夫の必要なその仕事を心から楽しみ、仕事から解放された母は、かいがいしく孫の世話をする優しいおばあちゃんになった。51才だった。

母は、私と同じ重症の野球音痴だったが、ある時、帰省すると父と並んで野球を見、一緒に大きな声で巨人を応援していてびっくりしたことがあった。10年位前だろうか。
母「普段、お父さんと一緒に楽しめるものが1つもないんだもん。何かあった方がいいと思って、一生懸命勉強したの。最初はつまらなかったけど、見てる内に段々面白くなってきたよ」

夫婦の歩く道には、数え切れない山や谷がある。
母「離婚しようと思ったのは、1度や2度じゃないよ」
晩年になって仲が良いということは、そうした無数の山と谷を残らず越えたということだろう。
どんなに困難でも辛くても時間がかかっても、越え続ける努力を放棄しなかった。
ささやかな「偉業」と言えば、確かに「偉業」だろう。
母は、私が結婚する時、言った。
「幸せになろうなんて思っちゃいけない。人生は苦労の連続。二人で一緒に苦労しようと思いなさい」

私も両親のように金婚式を迎えられる日が来るだろうか。(そんなに長生きできるとは思えないが・・)
両親のように写真館で写真を撮り、「お母さん、素敵だったぞ」「お父さんこそカッコ良かったよ~」と言い合えるだろうか。
『そうなるように頑張るよ。ねぇ…』

「お前とは一緒に暮らせない」

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ETV特集「胃ろうの功と罪」

2010年11月28日NHK教育で「食べなくても生きられる 胃ろうの功と罪」の再放送を見た。
胃ろうは、口から食べ物を食べられなくなった人の胃にチューブを取り付け、外から胃に直接、流動食を流し込んで栄養管理をする手段。
チューブ(胃ろうカテーテル)の取り付け手術にかかる時間は、わずか10分。
それまで満足に食べられなかった人に十分な栄養を送れるようになる。
風呂にも入れるし、外出もできる。
口から食べることもできるし、回復したら胃ろうを止めることもできる。
その劇的効果から広く普及し、全国で40万人の人が、その恩恵にあずかっている。

しかし番組では、胃ろうの普及に尽力した医師自身が問いかける。
ほとんど意識もなく寝たきりの重症認知症患者が、胃ろうによって、その状態のまま5年も6年も生きていくことが、本人の幸せだろうかと。
本人を助けるためと医師は胃ろうを勧めるが、胃ろうは一度始めたら途中で止めることは難しいという。
止める=延命治療を打ち切ることになるからだ。
海外では慎重な扱いをされ、簡単には始めないという胃ろうを日本でどんどん普及させていくことが本当に正しいのかと。

私と妹と父が、その選択を迫られる日は、やがて来るだろう。
その日が来る前に、話し合っておかなければいけないと思った。
それがどんなに困難な、苦しく辛いことだとしても。
母とも(調子が良い時を選んで)話し合っておく必要があると思う。
胃ろうに限らず、延命治療全般について。

実際に胃ろうを始めるのは、まだ元気で意識もしっかりあるが、誤嚥性肺炎を繰り返す患者なのかも知れない。
(何パーセンの人が、本人の意思で胃ろうにするかは知らない。)
(注:レビー小体型認知症の患者は、将来そうなる可能性がとても高い。)
私も母が、そういう状態になれば、胃ろうでも何でもして母を苦しめる要因を取り除こうと思うだろう。
胃ろうをしないという選択の方が、よほど難しく思える。

けれども私が、特別養護老人ホームで働いた短い期間、そこに居た6人の胃ろうを受ける方々は、一人も意識がなかった。(もしかしたらあったのかも知れない。私はいつも話しかけたが、反応は一度もなかった。)
コミュニケーションの手段もなく、表情もなく、体は石のように硬直し動かなかった。
ほとんどの職員は、彼らに一言も話しかけることがなかった。

私は、最初、末期状態の彼らが長く生きることはないのだろうと思っていた。
けれども彼らは、半年経っても1年経ってもまったく痩せることもなく、そのままの状態で存在していた。
(番組では、それが5年も6年も続いていくと伝えていた。)

私は、彼らと接する度(入浴の補助をした。)に考えずにはいられなかった。
『この人たちは、生きていて幸せだと感じる瞬間が、一度でもあるだろうか?
家族が面会に来たらわかる時があるだろうか?喜ぶだろうか?心の中で何かを語るだろうか?
この人たちは、こういう状態で生かされていることを望んでいるだろうか?』

私なら望まない。決して望まない。そうとしか思えなかった。
けれどもこれが父や母だったら?「止めて下さい」と言えるだろうか?
それは「どんな姿になっても生きていて欲しい」と言うよりも遥かに難しいことだろう。

そんな難しい厳しい選択が、私たちの未来には、待っている。

(このブログの他の胃ろうの記事は、左下のカテゴリの「胃ろう」をご覧下さい。)






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「私たちに任せて下さい」

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抑うつ症状の原因は?

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母「タクシーに乗って死にに行く」

母が入所したグループホーム職員の話。
4~5日程夕方から夜中にかけて抑うつ状態でよく涙を流す。
「死にたい」
「仏壇から数珠を出して」
「大おばあちゃん(母の祖母)からもらった大切な数珠を返して」
などと言う。嫌いな職員に暴言を吐く。

母が家族に訴えたこと。
「(夜中に)”外に出たい。タクシーが来る所へ連れてって”って言ったのに(職員に)無視された」
その時のことを職員に詳しく訊ねる。
「外に行ってどうするの?」と訊くと「死にに行く」と答えたそうだ。

しかし日中は、普段と変わりなく落ち着いているという。
職員「お母さん、(頭、意識が)クリアーな時は、普通の人と全然変わらないから、なんで家ではなくて、こんな所に居るのかなって考えて、辛くなっちゃうんでしょうね」

「先が見えない不安がある」と母は家族に言う。
家族が、他に言葉がなく励ますと
「そうだね。ここしか置いてもらえないもんね。○○病院(骨折入院した総合病院)だけは二度と行きたくないしね」

その翌日には
母 「じゃあ、私、”コロコロ”に行くからね」
(8月まで通っていたデイサービスに母が付けた名前。託児所と併設)
家族「子供がうるさいんじゃなかったの?」
母 「そのくらいは、我慢できるよ」

母は、自分の行き先を自分で一生懸命考えたようだ。グループホームを出て、デイサービスに行くという。
ショートステイを利用していた○○(母がもうじき入れるはずの特別養護老人ホーム。母は、京都と呼んでいた。)ではなく。
「介護保険の関係でそんなに簡単には移れないんだよ」
と家族が言うと、母は、黙っていたそうだ。

なぜ母は、死にたいと思うようになったのだろう。
家に帰りたいという母の希望を私が11月の帰省時に否定してしまったからか。
『なぜ?』『どうすればいい?』頭の中が疑問符で溢れていく。

家族は、母の望み通り「歩けるようになれば、家に帰れる」と言えば、希望を持って元気を取り戻すのだろうかと言う。
そうだろう。
そして絶望は、先送りになる。
それとも徐々に自分で諦めが付いていくのだろうか。
また頭がぼんやりすれば、自分の置かれた状況がよくわからなくなっていき、平穏に戻るのだろうか。

父、介護ベッドを買う 

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兄の口腔ケア 薬の管理 施設入所

妹が、兄の通所施設(ショートステイも同系列)から連絡をもらった。
11月の帰省を終えて、私が自宅に戻ってすぐだ。

通所施設で行う毎年の歯科検診でもやはり口腔ケアの必要性を強調されたので、ショートステイ先で夜は、ポリデントを使うよう指導していくという。
以前、歯科医から言われて就寝時の口腔ケアをお願いしたが、「そこまではできません」と断られていた。
妹が、ポリデントと容器を買って施設まで持って行ってくれた。
ほっとした。
どうしようもないので放置状態だったが、これで少しでも兄の歯の寿命が延びれば良いと願っていた。

兄は、ショートステイが週6日になった秋、施設職員から「頑固になって、色々言い張るので大変なことが多い」と言われていた。
汚れたパジャマを洗濯すると「ダメ!」と言って、洗濯機の前で洗濯が終わるまで待っていたそうだ。
しかし最近は、すっかり落ち着き、職員を困らせることもないという。
帰省中に会った兄も落ち着いて穏やかだった。
私はすっかり安心していた。

しかし最近の妹からの連絡で、口腔ケアを兄が拒否していると知った。
「イタイ」とか「イヤ」と言って、入れ歯を外さないそうだ。
兄の”NO”は、絶対の”NO”で、説得して変わるものではない。
「ご自宅では、どうやって外させていますか?」
と訊かれたというが、父は、兄の入れ歯の手入れなど1度もしたことはない。

父は、兄が、食後必ず飲まなければいけないてんかん等の薬ですら飲ませない。
飲ませたかどうか確認の電話を入れる度に、いまだに父は言う。
「知らん(「何だ、それは」というニュアンス)」
もう何回聞いたか忘れたが、今でも聞く度に、軽いショックを受ける。
兄は、自分では薬の管理はできない。
飲み過ぎたり、飲み忘れたりして、2回倒れ、最初は歯を、次は鼻の骨を折って救急車で運ばれている。
次は頭蓋骨を折るかも知れない。
「知らない」で済むことではない。
忘れるのは仕方がないが、事の重要性、自分の責任を自覚して欲しい。

兄のショートステイの長期利用には、限界がある。
「他にも利用したい人は沢山いますから、半年も1年もという訳にはいきません」
と言われている。
先月の帰省の時も兄の行く末のことを考えていた。
父がこれだけ落ち着いているなら、自宅での父との生活も可能だろうかと。
しかし薬のことを考えると、途端に自信がなくなる。

妹も「(薬のことを父に)何度言っても全然だめ。どうしてあんな簡単なことが出来ないの?!」と言う。
毎月兄を病院(精神科)に連れて行っている妹も施設で薬の管理をしてくれるようになってから兄がとても落ち着いたと言う。
妹「やっぱり薬をちゃんと飲みさえすれば、何の問題もなくなるんですね」
兄の主治医は、目を丸くして言った。「当然です!!」

父は、兄がショートステイを止め、施設に入所することを納得するだろうか。
ショートステイを週6日にしたのは、父が認知症とわかったからだが、父には「お母さんがいなくて世話が大変だから」と伝えてある。
施設に入所しても毎週金曜日に歯科医院に通うために帰宅するという同じ生活が続くのなら何も変わりはないのかも知れない。
しかし兄がやっと慣れて楽しんでいるショートステイを離れ、また新しい環境に上手く適応できるのかという大きな問題はある。
この施設への入所は、早ければ春までに迫られることになる。




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11月の帰省10 母の哀しみ

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11月の帰省9 父、診察に行く

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11月の帰省8 兄の成長

朝、兄が訊く。(兄は7時頃には就寝するので、母を見送らなかった。)
「オカアサンワ?」
「夕べ、帰ったよ」
「ビョウイン?」
「うん」
「オカアサン、ビョウキ。カワイソウ。オカアサン、ビョウイン、カワイソウ」

兄の剃り残しの髭を剃る。
自分でシェーバーを使って剃るのだが、どうしても剃り残しが出て、それが限りなく伸びていくので、ちょっとギョッとするような長さになる。
時間をかけて、きれいに剃り終えると見違えるようにさっぱりする。

夕べは何度か「髪、切ろうか?」と言ったが拒否された。
今朝も何度か言ってみると、やっと頷く。
「お父さん、すき鋏はどこ?」
「知らん。どっかにあったな。どっか行った」
訊くだけムダだった。自分で探し出す。

すぐ伸びるのでかなり短く切った。
兄は、ちょっと自分のスタイルではないと思ったようで、難しい顔をして長い間洗面所の鏡を見つめていた。
(兄は、服でもカバンでも何でもこだわりがとても強い。)
「ダメ!」と言われたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていた。
「ダメ」(=「元通りに戻せ」)と言われてもどうしようもない。
やがて兄は、困ったように笑ってつぶやいた。
「ショウガナイ・・ショウガナイ・・」
しょうがない?!兄の新しい語彙、新しい思考だ。
長期のショートステイという集団生活の中で妥協することを学んだのか。
兄は、自分で服も着替えた。
「オナジ。ズット、オナジ(だからダメ)」
以前は、どれだけ汚れてもずっと同じ服を着続けていた。
兄の成長に驚く。

一度帰宅すると土曜には、通所施設(土曜は隔週)にもショートステイにも行きたがらないと妹から聞いていたが、この日は、機嫌良く時計を見つめていた。
立ったままじっと時計を見つめ、父と約束した時間に秒針が合うと荷物を持って出掛けて行く。
長年決まった場所に行くと、迎えのバスが来る。
兄は、もう何年も2時間位早く行って待っていたが、父に怒鳴られてから父の言った時間までは待つようになった。
「お兄ちゃん、私、今日、○○に帰るから、またね。元気でね。仕事、頑張ってね」
「○○(私)カエル。○○(私)、サヨウナラ、サヨウナラ」
兄は、嬉しそうに出掛けて行った。
兄は、幸せに暮らしている。良かった。





試しに始めてみました。ランキングというのは、ちょっと抵抗があるのですが
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今後書く記事の参考にしたいと思っています。
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しば

11月の帰省7 兄帰宅 母の笑顔 父診察付き添い拒否

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11月の帰省6 この世は美しい 会計士の言葉

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11月の帰省5 実家でランチ

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11月の帰省4 帰りたい母 帰したい父

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プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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