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10月の帰省(2)レビー2回目の診察 薬の調整 妄想

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10月の帰省(1)母の余命 父の症状 郵便局での手続き

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帰宅しました

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25日~29日まで帰省します

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父、再び母を連れ帰る 眠らない人と眠るコツ モンチッチ人に食べられる

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絵手紙仲間 帰省の土産 薬の調整

母は、随分調子の良い日が、続いている。
父が訪ねると、ホールで冗談を言って皆を笑わせていることもあるという。
そんな姿を想像すると、心の底からほっとする。

前回の帰省('10年9月28日~10月2日)の時は、とてもそんな状態ではなかった。普通に会話することすら難しかった。驚くと共に、とても嬉しい。
調子が悪い時が続くと『進行性の病気なのだから、悪くなっていく一方なのだ』と悲観的になりやすい。
しかしそれは間違っているのだということがわかる。

次回の帰省(10月25日~29日)が楽しみだ。
調子が良ければ楽しめそうな写真集(「富士」内容はここで閲覧可能。富士山には家族の思い出が色々ある。)折り紙(認知症に良いと小阪憲司氏が書いている)、塗り絵(「片マヒ・認知症の人も楽しめるリハビリぬり絵」)色鉛筆、回想法(認知症症状を改善したり進行を遅らせる方法)に使えそうな本(「昭和こども図鑑」)なども用意した。

父の話では、先日は、絵手紙サークルの仲間6人が訪ねてくれたそうだ。話が盛り上がり、とても楽しかったと母は、嬉しそうに話していたらしい。
母は、今年の2月頃まで数年間、絵手紙サークルに入っていた。思うように描けないといつもぼやいていたが、1枚(半紙の大きさ)は、私が額に入れて実家に飾ってある。
グループホームの母の部屋にも1枚飾った。ブドウの絵に添えられた文は、「せっかく痩せたのに秋になっちゃった」。母らしい1枚だと思う。
9月の初め頃、絵手紙サークルの仲間の1人から「お元気ですか?○○さんがサークルから居なくなって寂しいです」という絵手紙が母に届いた。その日の内に、「母は、グループホームに入りました。皆さんで訪ねてやって下さい。日により状態は大きく違いますが、記憶は残っています。皆さんのこともわかると思います」と返事を書いてポストに入れた。
それから初めてなのか、何度目なのか・・、とにかく母が、友達と楽しく過ごせて良かったと思う。

母は、10月2日に再び主治医を変え(名古屋から市内に。)、以前の主治医から処方されたサアミオン(脳の血流を良く、頭の働きを活発にさせる薬)とフェルガード(サプリメント)は、止めてみた。ニコリン(脳循環改善剤)の注射も打たなくなった。
それから3週間、妹が母を観察しているが、落ち着いていて、良い状態が続いている。理解力は落ちた気がするが、家族が困ることはないと妹はいう。
前の主治医の時は、頭はとてもはっきりしたが、はっきりし過ぎて、自分の今の状態を深く嘆き悲しんだり、家に連れて帰れと家族をなじったり泣いたりして、対応するのが大変だった。
こうして状況を観察しながら、少しづつ良い方向に薬の処方を変えていければ良いと思う。
もう今までのように医師に処方のすべてを任せるのではなく、自分でも良く勉強した上で、医師と話し合ったり、提案していきたいと、今は、考えている。(今の主治医なら真摯に応じてくれると思う。)

<追記> 
先日紹介した本「レビー小体型認知症の介護がわかるガイドブック」(小阪憲司・羽田野政治著)には、薬の処方に付いても具体的に詳しく書かれている。

著者は、レビー小体型認知症の世界で最初の発見者である小阪氏(横浜市立大学名誉教授ほか)。

1例を取ると<パーキンソン病を専門とする神経内科医のなかには、ドネペジル塩酸塩(アリセプト)によってパーキンソン症状が悪化する(理由部分省略。)と考えている人もいますが、必ずしも正しくありません。>
母も最初の市立総合病院神経内科では、アリセプトを処方されなかった一人だ。パーキンソンやレビーの患者にアリセプトを飲ませてはいけないと思い込んでいる施設職員も多い。

<さらに追記>
今日、レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会発行の「ゆるりん通信Vol.4」が届いた。
その中にアリセプトが引き金になって徘徊が始まったケースが載っていた。
レビーは、決して十把一絡げにはできないのだなと心を引き締めた。
(年4回発行の「ゆるりん通信」(無料)は、とても内容が濃く、参考になる情報の宝庫とも言えるほど。是非お勧めします!)

美智子皇后の物忘れ

10月20日に美智子皇后が、76才になられたと新聞で読んだ。
私は、皇室に対して特別な思いはないけれども、誕生日に寄せて発表された文書の中で、気になった部分があった。

「この数年仕事をするのがとてものろくなり、また、探し物がなかなか見つからなかったりなど、加齢によるものらしい現象もよくあり、自分でもおかしがったり、少し心細がったりしています」(原文のまま)

なぜ美智子皇后は、わざわざこの文章を発表したのだろうか。
自分自身の飾らない言葉で発表した裏には、深い思いがあるのだろうと思う。
宮内庁のチェックも入ったはずだ。
認知症の専門医に既に診てもらい、「年相応です」と言われたのだろうか。それとも経過観察となったのか・・。

『私でも物忘れがあって心細くなります。ご高齢の皆さん、大丈夫ですよ。認知症ではないかと不安になるのは、あなただけではありませんよ』
という応援のメッセージなのだろうか。

また美智子皇后は、一度会った人のことを忘れないと、皇后に直接仕えた人の口からも聞いたし、週刊誌でも読んだ。

護衛として直接仕えた人は、退職してから長い年月が経ってからでも、「まあ!○○さん、お元気でいらっしゃいました?」と親しげに話しかけて下さったと言っていた。名前まで忘れずにいて下さったと感激した様子で。
(彼は、皇室の裏側も見てきているが、その上で「美智子様ほどの人格者はいない」と常々語っている。)

週刊誌にも、恐るべき記憶力で会った人の名前を覚えていると書かれていた。
会った人の記録を全て付けておいて、その人と再び会う機会(同じ地を訪ねる等)には、相当な時間をかけてそれを読み直すのだろうかと、週刊誌を読んだ時は、考えた。

もしかしたら誕生日の文章は、『今度お会いした時には、もうあなたのお名前を思い出せないかも知れませんが、こんな状態なので許して下さいね』という事前の詫びなのかも知れないと思う。

美智子皇后が、もし認知症になり、かつ病識があったら、それを発表されるだろうか?
して欲しいと思う。
認知症が、どれだけ一般に広まったとは言え、脳の病気や障害に対する偏見や差別は、簡単にはなくならない。
美智子皇后が、もし認知症を発表すれば、多くの人の認知症に対する見方は、少なからず変わるだろう。




レビー小体型認知症の母の初期症状

前回の帰省で引き出しの中を整理していた時、5年前(2005年)の11月に私が母に送ったファックスが出て来た。
病院へ行くように勧めても「何て説明すればいいかわからない」と母が言うので、母の症状をまとめ、これを持って病院に行くようにと伝えたものだ。

今、読み返せば、レビー小体型認知症そのものだが、この時の診断は、パーキンソン病だった。
医師(市立の総合病院の神経内科)は、レビー小体型認知症という病気を知らなかったのだとしか思えない。

これより何年も前からレム睡眠行動障害もあったが、レビー小体型認知症という病気を知らなかった当時の私には、これも症状の1つだとは思わなかった。
<大声の寝言。叫ぶ。隣で寝ている父に殴り掛かる。座ったり、立ったり、ベッドから転げ落ちたりする。>
母には、それらの記憶はまったくなく、父は、ただの寝ぼけだと信じて疑わなかった。
その後、兄の精神科の受診のついでにちらっと訊いてみると「ストレスによるもの」と言われた。

以下が、5年前にまとめた母の初期症状。< >で囲った部分は、今日、入れた。

1。日によって違うが、動き、反応、頭の回転が極端に遅くなる。<パーキンソン症状と認知の変動>
 (特にストレスがかかった時がひどい。)
  食事の支度、掃除、着替え等に今までの倍の時間がかかる。

2。歩幅が非常に小さくなり、腰、膝を曲げてヨタヨタ歩く。<パーキンソン症状>

3。夕方、庭に、動物や人の顔が見える。<幻視(幻覚)>

4。気が滅入って、何をするのもおっくうになる時がある。<抑うつ症状>

<以下は、ファックスの余白に母自身が書き足したメモ>

めまい、こむら返り(毎日)、物忘れ、気力低下を訴え、脳のMRIを撮ったが、異常なし。
血液検査でも異常なし。
自分では単なる老化ではないかと考えている。
困っていること:
歩いたり、動いたりすることが不自由。手足に力が入らない。
物忘れがひどく、大切なことを忘れているようで動悸がしたり、不安になる。認知症?


母自身が、5年前から認知症を疑っていたことは、初めて知った。母は、「物忘れがひどくなった」と訴えることがなかった。
めまい、動悸は、この病気に特徴的な自律神経症状だ。
他にも母にあった自律神経症状は、起立性低血圧、便秘、倦怠感(だるさ)、頭痛、耳鳴り、肩こり、むくみ、頻尿。
「レビー小体型認知症の介護がわかるガイドブック 小阪憲司・羽田野政治著」に書かれたほぼ全てが当てはまる。当てはまらないのは、多汗、寝汗のみ)

それから、今まで書かなかった不思議なことを1つ。

母は、この頃(5年前)から難聴がひどくなっていった。今年の初め頃には、もう電話での会話が困難だった。耳も遠いし、とんでもない聞き間違いが頻繁にあった。
(祖母も曾祖母も早くから難聴が始まったので、母も私たちも遺伝だと思い、検査もしなかったと思う。)
私は、補聴器の調整をしてくれる耳鼻科医をネットで調べてファックスを送り、病院で検査をして補聴器を作るように強く勧めたが、その日の内に、父が勝手に小型の補聴器を買ってきた。案の定、母は、「使いづらい」と全く使わず、それきりになった。

しかし3月に身体症状、認知症症状が一気に悪化すると同時に、なぜか難聴だけは消えてしまった。
もうそれ以前のように大声で同じ事を繰り返し言う必要はなくなった。
妹と不思議がっていたが、こちらとしては、とても助かるのであまり気にも留めずそのまま忘れていた。
どういう仕組みか分かる方は、コメントで是非教えて下さい。





このブログを初めて読む方へ

訪ねて頂いて、本当にありがとうございます。

このブログが、何かのお役に立てたらとても嬉しいです。

是非、お気軽にコメント(感想でも質問でも何でも。)もどうぞ。
一行でも結構ですよ。お待ちしています。

左上のプロフィールの欄を読んで頂けますと、現在までの大まかな状況がわかると思います。
母にレビー小体型認知症の症状が出たのは、もう5年以上前のことですが、今年(2010年)5月までパーキンソン病と誤診されていました。
このブログを書き始めた今年6月には、まだ父の認知症(ピック病)には気が付いていませんでした。

レビー小体型認知症、ピック病、うつ病については、カテゴリーの中にあり、詳しい症状などが、書いてあります。
レビー小体型認知症は、日本の3大認知症の1つです。
ピック病は、若年性認知症の代表と言われます。
どちらもアルツハイマーとは、症状が全く違います。

左下のリンク集からも、レビー、ピック病について詳しいことがわかる良質サイト、家族を支えてくれる会などにつながりますのでどうぞご利用下さい。

参考になるコメントも沢山ありますので、クリックして、是非読んでみて下さいね。

しば

P1010719.jpg


兄の入れ歯 食い違う父の説明 森林公園トイレ事件

兄の通所施設から電話があり、妹が呼ばれた。
理由は不明だが、入れ歯が壊れ、兄が「歯、ナイ!」とパニックになったからだ。
妹が、歯科医院に連れて行き、何時間かかけて何とか直った。

兄は、自分で歯を磨くことも、口をゆすぐこともできない。もちろん入れ歯の手入れも。
(磨く真似はできるが、磨けていない。水を口に入れることはできるが、そのまま出してしまう。)
母が元気な頃は、母が磨いていたが、今は、放置状態だ。
毎週1回歯科医院に行って口腔ケアをしてもらっているが、週1回ではどうしようもないので、ショートステイを利用しているのなら、そこで口腔ケアもしてもらうように頼めないかと医師から言われたという。
妹は、兄を通所施設に送り届け、その相談もした。
しかしショートステイ先では、そこまではできないし、通所施設でもできないと言われた。
兄は、歯磨きのことなどを言われるのをとても嫌がるのだ。私が言っても怒るくらいだ。通所施設でも「とても嫌がるので(無理です)」と言われたらしい。

歯科医院では、「お兄さんもですが、それよりお父さんが・・」
医師の話では、父も何年来治療をしているのだが、予約の日に来ない時が多く、悪化する一方だという。
もう入れ歯にしなくてはダメなところまで来ているそうだ。
妹「そういえば、お父さんが、歯を磨いてるところって見た事ないよね?!」
言われてみれば、そうだ。しかし口臭がひどいとか、歯が汚れていたという記憶もない。
父へは、私から電話をする。父は、ちゃんと通院していると主張する。
私「そうなの?でも予約の日に来ない時があるって言ってたみたいよ」
父「何をバカなことを言ってるんだ!俺は、いつもちゃんと行ってるぞ!いい加減なこと、言うな!」

ここしばらく、父の話と人から聞く話は、全く違っていることが多い。
父が「怒鳴っていない」と言ったリハビリの先生への電話も、「大変お怒りになってお電話を頂き・・」となる。

父は、今日、2枚目の毛布をグループホームに持って行ったようだ。
職員「毛布ならもうありますよとは、言えませんでした。お父さん、お母さんのために何かしたくてどうしようもないんですもんね」

父、待望のリハビリ・マッサージも遂に今日始まったが、母は、その時間うつらうつらしていたようで、あまり記憶にないらしい。「良かった~!」という言葉を期待していた父は、随分がっかりしていた。

昨日は、母を連れて、グループホームからかなり距離のある森林公園までドライブしたようだ。
しかしそこで母は、トイレ(オシッコ)に行きたくなった。
障害者用のトイレはなく、和式トイレだったが、母は「自分でできるから」と言い、父は、それを鵜呑みにしてトイレに母を一人で放置したらしい。(母の話)
母「大変なことになっちゃったの。辛かった・・・」
妹が、何がどうなったのか訊いても母は、「辛かった」を繰り返すだけだったという。
母は、一人で立つ事すらできないのだから、トイレでひっくり返って起き上がれずにいたはずだ。

その後、自宅に帰り、また入浴してからグループホームに戻った。(母の話)
妹「よく戻ったねぇ。家に泊まるって、よく言わなかったねぇ」
母「だって、お父さん、”お前が泊まると、俺は(睡眠不足で)死んじゃう”って言うんだもん。戻るしかないよ」

この「森林公園トイレ事件」も父に訊くと、全く違う事を言う。
「(トイレに行くのに)50センチもある段差(?)を上るのに大変だっただけだ。後は、問題ない」
「自分からグループホームに送ってくれって言うから送ってやった。何にもぐずらなかったぞ」

最近、妹が気になったのが、数日前、初めて母の体が小刻みに震えているのを見たことだ。そんな症状は、初めての事だ。

そして父の変化は、ものの名前が出ないことが多くなったことだ。
「タマネギ」という言葉が出ずに「あー、ほら、あの、○○(産地)で穫れる・・」と説明する。言い慣れた一般名詞が出て来ない。
「グループホーム」という言葉も言えない。(これは父には新しい言葉だが・・。)
「病院」と言い間違えてみたり、「お母さんの居る、ホ・・何とかっていう所」と繰り返し言う。
以前と比べて増えているので、症状の現れだと考えている。

ピック病の症状とは (2冊の本とネットから)

母の「レビー小体型認知症」もそうだが、父の「ピック病」も一般に広く知られている病気ではない。
どちらの症状もアルツハイマーとはかなり異なり、介護は、アルツハイマーより大変だと言われている。
どちらも脳の神経細胞が変化(変性)することで起こる認知症だが、原因もわからず、根本的な治療法もない。
(対処療法としての薬は色々あるし、研究も進みつつある。)

ピック病は、64才以下で発症する若年性認知症の代表と言われている病気だ。(少ないが高齢者でもなる。)
前頭側頭葉変性症と呼ばれ、3つの型に分かれる。(冒される脳の部位によって症状が違う。)

ネットや本で症状を調べると、患者とその家族は、ひどいショックを受ける。
そこに書かれた反社会的な行為(万引き、窃盗、中には、放火などもっとひどいことが書いてある本もあった。)がすべて必ず症状として出てくるかと思うからだ。
けれども新しい主治医は、人により症状の出方は全く異なると言った。初期、中期、末期でも症状は違う。
絶望してはいけない。

最初にピック病と診断された病院で渡されたサイトからのコピーは、これだった。

人格障害(強さは、ピック病>アルツハイマー病>脳血管性認知症)・情緒障害などが初発症状です。
病期前半にはアルツハイマー病でよくみられる記憶障害・見当識障害はまずみられません。進行に伴い自制力低下(粗暴、短絡、相手の話は聞かずに一方的にしゃべる)、感情鈍麻、異常行動(浪費、過食・異食、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがる)などがはっきりし、人格変化(無欲・無関心)、感情の荒廃が高度になります。

健康長寿ネットより抜粋)

集英社新書の「知っておきたい認知症の基本」(川畑信也著)では、以下のように書かれている。
<病識がないこと、反省しないこと、攻撃的、他人の迷惑を考えない>以外は、父には出ていない。

人を無視・馬鹿にした態度、診察に対して非協力・不真面目、ひねくれた態度など対人的態度の特異さも目立ちます。その他、意味もなく同じ内容の言葉を繰り返したり同じ行動を繰り返したりします。 病識はありません。
他人を馬鹿にする、無視する、自己中心的で反省に乏しい、うそをつく、攻撃的、他人の迷惑を考えない。
徘徊、放浪、無銭飲食、窃盗など反社会的行為。


中公新書の「認知症」(池田学著)では、もう少し身近に感じられる。

初期には物忘れが目立たず、パターン化した行動に固執する常同行動や過食などの食行動異常が多い。
初期より病識が欠如するため、しばしば受診やデイサービスの利用などが困難になる。
初期より身だしなみを気にしなくなり、お風呂に入らなくても、服が汚れていても平気になる。
周囲への配慮がなくなる。周囲の反応や自分の行為の結果に対して無関心になる。万引きや信号無視につながる。

落ち着きのなさ(昼寝をしていたかと思うと突然散歩に出かける)が目立つ。
病気が進行すると意欲や自発性の低下が顕著になる。
毎日何キロもの同じコースを何度も歩き回る。
同じ物ばかりを好んで食べるようになる。
同じ内容の話や同じ言葉を前後の脈絡に関係なく話し続ける。
時刻表のような時間通りの生活をするようになる。

側頭葉が障害されると物の名前が出なくなる。言葉の意味がわからなくなる。読み間違いも多くなる。

気のおもむくまま、周囲を気にしない「わが道を行く行動」が特徴。
チョコレートや饅頭、アイスクリーム、清涼飲料水などを繰り返し大量に摂取する。
嗜好の変化がある。
周囲からの刺激に影響され、目の前の人のしぐさを真似たり、目に入った看板を一々読み上げたりする。


ネットで調べた中では、「フォーラム 知っていますか、”もの忘れ”のない認知症 ピック病 その診断・症状・介護 妙録(講演:田渕肇)」が一番親切で詳しく分かりやすかった。(画面左下のリンク集参照)
初期症状を書かれているので、父にも当てはまる部分が多いと思う。

ごく初期。本人は「この頃少し忘れっぽいかもしれないが、困っている事はない」
家族は「怒りっぽくなった。自分のやり方を始めると回りが何を言っても聞かない。整理整頓ができない。探し物がみつからない。料理が単調になり、味付けが変わった」
非日常の場面でおかしな行動が目立つ。
し忘れが目立つ。電車が出る直前に突然買い物に行ってしまったりする。
記憶力は良いが、「これは何ですか」と訊くと答えられないことがある。

1年経つと本人「もの忘れなんか全然ないですよ。完全に正常です」
約束事を忘れる。
普段と違う機械(券売機など)が使えない。
同じ服を着る。同じものを食べる。自分の好きなものばかり買い続けて食べる。
片づけをしなくなる。

感情のコントロールができなくなる。
衝動性が高くなる。場違いな行動がみられる。
同じような行動を繰り返す。
自覚がなくなる。
周囲への気使いがなくなる。何かをしていても、別のことが気になると、すっとそちらへ行ってしまう。
進行すると何もせず、動かず、一日中ボーっとテレビを見ている。

し忘れ、ど忘れ、物の名前が出て来ない。


とはいえ、人格が激変すればすぐわかるが(その方が多いらしい。)、父のように元々の性格(我が道を行く。短気)が強化される場合もある(と、ある本に書いてあった)。
そうなると主観で判断するしかない。私は、父が変わったと思うが、妹は、今でも「昔からああだった」と言っている。記憶力・判断力に関しては、妹も「完全におかしい」と言う。

しかし身近で数年かけて変化したりすると、慣れてしまい、変化に気付かないということがあると思う。
5年程前に母のパーキンソン症状に気が付いて病院に行かせたのは、私だった。母に最初に介護認定を受けるよう勧めたのも私だ。
近くに居ると重い症状も当たり前になってしまって、異常だと感じなくなってしまう。
だから滅多に会わない人の何気ない一言(何となく元気がないね。怒りっぽくなったね等)も聞き流さないことが大事だと思う。

*ピック病のカテゴリは、こちらを。

リハビリ開始せず 父要支援2 サルの世話

父から興奮して電話があった。
「今日もリハビリを始めないぞ!誰かが、どこかで邪魔してるんだな!リハビリの所に電話して、月曜にもまだ始まらないようなら、きちんと説明の電話を入れろって言ってやった!あいつら、ふざけてる!」
私「リハビリの先生に電話したの?怒鳴ったの?」(静かに訊く)
父「怒鳴ちゃいない!だけどな、あいつらは、あまりにも非常識だ!月曜にもふざけたことを言ったら、一発雷落として脅してやる!」
(こういう発言が、ピック病らしさだと私は、思っている。以前の父とは違うと思う。)

妹に電話をすると、来ないはずはないと言う。母が、リハビリをしたのに「しなかった」と父に言ったのかと一瞬思ったが、母が、その日にあったことを忘れた事はない。妹もそれはありえないと言う。妹は、父が、リハビリ医院の連絡先を知っているはずもないと言う。

私からグループホームに電話して事情を訊く。
確かに、今日は、リハビリの先生は来なかったという。職員は、父からも質問を受けたので、そう伝えて、リハビリ医院の名前も伝えたという。父が名前から調べて電話をしたようだ。
職員には、最近の母の様子も訊ねた。「夜は、寝る日もあれば、寝ない日もあります。でも叫んだりはしてないですよ。静かにしゃべってます。日中も落ち着いています。困らせることは、ありません。心配いりませんよ」

妹に、私からリハビリ医院に電話で詫びと問い合わせをすると妹に伝える。既に土曜の夜なので、電話できるのは、月曜の朝だ。話が早いようにファックスを送っておいた。


妹からの連絡では、父の介護認定は、要支援2に決まったそうだ。
以前の母のケアマネからは「良くて要支援2、普通は要支援1。非該当も多い」と言われていたので「良かった(?)」というわけだ。妹は、もっと軽いと思っていたので、驚いていた。
(東京都では、認知症患者なら必ず要支援ではなく要介護になると東京都でケアマネをしている友人から聞いていた。地域によって違うとは・・。)

母も今年の3月までは、同じ要支援2で、週2日リハビリ専門のデイ・サービスに通っていた。
ヨロヨロした小刻み歩行(症状)ではあったが、ちゃんと自分で歩いていた。
私は、ヘルパーの家事サービスこそ必要だと考えていたが、現役で仕事をしている人(父)が家に居る場合、提供できないとケアマネから説明された。
母は、自宅では、家事もおぼつかなかったが、デイ・サービスへ行くと急に明るく、元気になり、リーダーシップを発揮して、皆でウノ(カードゲーム)をしようと提案したりした。元気のない人達も笑わせ、励まし、友達の輪を広げることに生き甲斐を感じていた。3月から、突然「体調が悪いから行きたくない」とキャンセルが続き、そのまま2度と行けなくなった。


今日、妹が母を訪ねると、丁度、皆で散歩に出かけるところだった。
街の中心地に近いのに、妹も知らなかった大きな美しい公園があり、とても気持ちが良かったという。
散歩の途中、神社もあったのだろう。
職員「○○さん(母)は、いつもここで手を合わせるんですよ。”早く足が治りますように”って」
行きは、妹が車椅子を押し、帰りは、母と親しくなったという男性入所者が「(私が)押しましょう」と代わってくれたそうだ。
母は、表情こそないが(症状。定着している。)、穏やかな、満足そうな様子だったという。

モンチッチ(私がプレゼントしたサルのぬいぐるみ)をとても可愛がっているようなので、妹が訊いた。
妹「お母さん、もう一人(別のぬいぐるみも)欲しい?」
母「いや、いや~!モンチッチ一人で十分っ!お世話が、大変っ!!」
職員「そうだよね~。夜(一晩中)、ずーっとこの子としゃべりっぱなしだもんね~」

以前は、夜中に父が居ないことを理解できず、よく「お父さ~ん!」と叫んでいた。
(誰かはわからないが、「せんせ~い!」とか「助けて~!」と言う時もあった。)
今は、父が居なくても、代わりにモンチッチが居るという安心感があるようだ。モンチッチは、話すことも食べることもないが、涙を浮かべたり、母を見つめたり、目をキョロキョロさせたりするらしい。
妄想(幻視?)ではあるが、とにかく良かったと思う。妹も「まぁ、良かったよね」と言う。

妹も母が腰椎圧迫骨折の大手術(人工の骨をはめ込んだ。)で入院した夏、母を慰めるために、テディベアを布で作って持って行った。しかし母は、「夢に出て来てうなされるから持って帰って」と言ったそうだ。
モンチッチの場合は、最初の腹話術が功を奏したのだろうか・・。大変だと言うお世話も、世話好きの母には、生活の張りになっているのかも知れない。
モンチッチが、怪我や病気などせず、母を笑わせたり、喜ばせてくれたらもっといいのにと思う。
モンチッチ、頑張れ!

サルの怪我 男性介護者の傾向

昨日、母は、妹にほとんど妄想しか話さなかったらしい。
可愛がっているサルは、「モンチッチ」と名付けられた。いつもユニークな名前を思いつく母らしくない。恐らく職員が、モンチッチと呼んだのだろう。

母「モンチッチともう一人の大きい方(?)が、大きな犬に襲われてね・・。可哀想に・・死んじゃった。
モンチッチも怪我してるでしょ?ガタガタ震えていたから、タオルでくるんだの。モンチッチ、目に涙を浮かべて、私を見るんだよ。何も食べたり飲んだりしてないけど、大丈夫かなぁ・・?」
(文章一番下の写真は、妹が撮ったもの。丁寧にくるまれて、母の介護ベッドに座っている。)

なぜ母の妄想では、皆、怪我をしたり病気になったり死んだりするのだろう?
しばらく前には、亡くなった祖父母(母の両親)や伯父(母の兄)が毎日会いに来ると言っていた。「3人に会えるなんていいねぇ!私も会いたいなぁ!」と私は、言ったが、何となく母を連れて行かれそうで、嫌だった。

母「お父さんが、”お前を連れてくると(夜、眠れないから)こっちがダウンするから出来ないんだ。寝るようになったら、(自宅に)連れてったり、ここに泊まったり出来るからな”って言ったけど、(自宅に帰るのは)もう面倒くさくなっちゃった・・。どうでもいいや・・。
ここの人たちは、みんな優しいよ。いい人だよ」
数少ない妄想ではない話。
母は、自分がどこでお世話になろうかと色々考えるようだ。

「”コロコロ”でお世話になろうと思ったけど、こっちが疲れてる時に、子供らがコロコロ居ると疲れるんだよね。
”京都”はあんたの友達がね・・ちょっとうるさいんだよね。自分の意見を押し付けてくるし・・」
”コロコロ”は、母がグループホームに入所する8月まで利用していたデイサービスに母が付けた名前だ。託児所と併設していた。
”京都”は、ショートステイに利用していた第一希望の特別養護老人ホームに母が付けた名前。”友達”というのは、その施設の比較的若い元気な担当者(責任者)で、実家まで母の面接に来たりしている。とても陽気な感じの人なので、妹は、母を盛り立ててくれるだろうと気に入っているが、母の意見は違うようだ。レビーへの対応の難しさを感じる。

妹が、素早く手配してくれたリハビリは、書類の手続きの遅れで土曜日からになった。妹の所にリハビリの施設から届くはずの書類が、なぜか予定の日に届かなかった。一日遅れで来た書類に妹が記入し、大急ぎで内科の主治医の元に届け、翌日、それを受け取ってグループホームに提出するという手順を踏まなければいけないらしい。しかも毎月。
こんな風に突発的に起こる些細なアクシデントの度に、妹と私は、ヒヤヒヤする。父が、グループホームに怒鳴り込んではいけないからだ。一日くらいの遅れなら、父も何とか我慢してくれるだろう。・・・多分・・。

NHKの「クロースアップ現代」の中で妹が気になったのは、男性の介護者が女性とは違う視点で介護をすると紹介された部分だったそうだ。
男性の介護者は介護をまるで仕事のように考え、目標を定めようとする。そして”自分が良くしてやる!”と意気込み、責任を一人で負おうとし、周囲に援助を求めたりしない傾向があるといった内容だった。

妹「お父さん、まさにその通りだよね。良くなると信じたいのか、思い込んでるのか、本当に現実が理解できていないのか・・・」
私「そのすべてだと思う」

ピック病(認知症)の父は、今、一歩も歩けない母が、リハビリでトイレまで一人で歩いて行けるようになり、隣の○○市の睡眠外来で治療を受ければ一晩ぐっすり眠れるようになると信じている。その2つの問題さえ解決すれば、母を自宅で自分が介護したいと考えている。
母の方が、昨日は、より冷静に現実を見ていたようだった。

介護うつ病(うつ病チェックリスト)

今日、10月14日の「クローズアップ現代」(NHK)は、「介護を担う家族を救え」。

番組で伝えられていた「介護者の4人に1人は、抑うつ状態」というのは、随分前に新聞で報道されて知っていた。
介護者は、常にうつ病になる危険にさらされている。

うつ病は、早期発見、早期治療をすれば、治りも早いが、こじらせると介護もまったくできなるなるし、治るまで何年もかかったりする。

うつ病と一言で言っても認知症と同じで症状は人により大きく違う。だからインターネットで出てくるうつ病自己チェックリスト(「憂うつな気分が続く」など)には、当てはまらない場合もあるし、まったく病識がないこともある。
○○市保健福祉局地域福祉課発行のパンフレットの自己チェックリストが、有効だと思ったので紹介する。

 以下の「うつ病自己チェックリスト」の内、2項目以上が2週間以上、ほとんど毎日続いていて、そのためにつらい気持ちになったり、毎日の生活に支障が出たりしている場合は、うつ病の可能性がありますので医療機関、保健福祉センター、○○市こころの健康センターなどに相談して下さい。この他に、眠れない、食欲がないといった状態が続く場合には、うつ病の可能性も考えてみて下さい。

1.毎日の生活に充実感がない
2.これまで楽しんでやれていたことが、楽しめなくなった
3.以前は楽にできていたことが、今ではおっくうに感じられる
4.自分が役に立つ人間だと思えない
5.わけもなく疲れた感じがする


他にも以下のような症状が出る場合もある。(人によって大きく異なる。)

体調不良(便秘、胃腸の不調などあらゆるもの。)や痛み(頭、首、肩、背中、お腹、腰、股関節などあらゆる部分に起こる可能性がある。激痛の場合も。)が続く。
食べ物の好みが変わる。(鶏肉が食べられなくなった。)
人に会いたくない。
朝や午前中(特に雨の日)が、最も調子が悪い。
物忘れがとてもひどくなり、仕事でもミスを続ける。
運転のミスが増え、擦ったり、事故を起こしたりする。
頭の回転が遅くなり、物事を決めたり、判断するのが難しくなったと感じる。
本や新聞を読めなく(或は、読まなく)なる。
憂うつな気分など全く感じないので、自分はうつ病ではなく、まだまだ頑張らなければと思う。
心配事が、頭から離れず、気分転換もできない。
突然、訳もなく涙が出てくる。
突然、訳もなくイライラして、居ても立っても居られなくなる。

これは、昔、私に出た症状。
けれどもうつ病だなどとは夢にも思わず、ただ「眠れないから眠れる薬を下さい」と病院を訪ねた。
医師からは、「うつ病です。仕事を休んで下さい」と言われたが、『休めるはずがない』と思って、頑張り続けていた。
体調不良と疲労感は、どんどん悪化し、ある日、生まれて初めて過呼吸の発作を起こした。
悪化は止まらず、毎日39度の熱があるような状態(寝たきり。何も食べられない。たまらなく苦しい。)が、しばらく続いた。

自分の脳が、何かに乗っ取られたように、行動も(突然狂ったように歩き回ったり、突然石のように動けなくなったり。)感情も(突然不安感で押しつぶされそうになったり、突然号泣したり。)思考も(2度と思い出したくないありとあらゆる嫌な思い出が襲いかかってきたり、何をどう考えても未来は真っ暗だとしか思えなかったり。)自分でまったくコントロールできなくなる。
あまりの苦しさに死にそうだとは思ったが、死にたいとは、思わなかった。(私の場合)

それでも抗うつ剤、抗不安剤、精神安定剤、睡眠導入剤などを飲み、徐々に回復していった。
しかし電話に出られず、人の顔(目)を見ることができない状態が長く続いた。神経が過敏になっていて、小さな刺激(一言。視線)でひどく傷付くので、人がとても恐かった。

うつ病には、完治という言葉を使わない。寛解(かんかい)という。ストレスがかかれば、いつでも症状をぶり返す可能性があるということだ。
私もそうだ。でも今、これは病気というより「体質」だと考えている。冷え性や頭痛持ちのように、自分で気を付けて対処していれば、ひどくはならない。

ただ医師の言うことを聞いて、仕事を休んでいれば、もっと早く、もっと軽く、後を引くこともなく治っただろうと、今でも思う。
だから介護をしているすべての人に伝えたい。
少しでも当てはまると思う項目があれば、すぐに病院に行って頂きたい。
休めないと思っても、人(ケアマネでも保健師でも)に相談して、何とか休んで頂きたい。
そうすれば、こじらせることはない。
必ずまた元気になれる。

追記:うつ病がひどかった時、力をくれた谷川俊太郎の詩「朝」をご紹介します。





試しに始めてみました。ランキングというのは、ちょっと抵抗があるのですが
これをクリックして頂けるとどの記事に訪問の方が多いか等が分かるようです。
今後書く記事の参考にしたいと思っています。
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しば

グループホームでのトラブル 特別養護老人ホーム

ある一人の職員に対する母の妄想と不機嫌は、ずっと気になっている。
母は、その職員とグループホーム入所当時からずっとそりが合わない。
記憶障害の目立たない母は、その職員が何を言い、何をしたかを詳しく話す。それが余りに詳細なので、私も妹も妄想が混じっているとしても何割か(かなりの部分)は事実だろうと思わずにはいられない。
例えば、入浴時に、「洗面器に熱湯と水を入れて、かき混ぜずに体にかけるの。だから、熱いっ!冷たいっ!熱いっ!冷たいっ!ってなるの」と母は言う。
母は、時々、入浴拒否をするようだが、それが原因ではないかと想像する。

妹は、私が帰省する前、「グループホーム側に話をしてみようか?」と言った。けれども私は、それが良い方向に向かうか、悪い方向に向かうかの予測ができず、とりあえず待つように伝えた。
母は、他の職員にも話をするだろうから、他の職員もきっと知っているはずだ。いずれ様子を見て、伝えるにしても、話す相手とタイミングを見なければならないし、言い方にもかなり気を付けなければいけない。
同時に、大勢の職員の中に1人位この仕事に向かない人がいても当たり前だろうという気持ちもあった。

妹が、先日(私の帰省後)施設長に「家族皆でレストランに行った日は、もの凄く機嫌が悪かったんですが、あんなこと、よくありますか?」と訊いた。
「一人、ちょっと言い方が悪い職員が居ましてね。相性っていうのもあるもんですからね~。何でもないことで、○○さん(母)の機嫌を損ねちゃってね。」
「母がすみません」
「いえいえ。認知症患者さんへの対応は分かってるはずなのに、できない職員が悪いんですよ。他の職員なら何でもないことなんですが・・」

しかし、私が、帰省を終えた後、妹が母の足の爪を切ろうとして、足にひどい水ぶくれが複数あるのを見つけた。
母は、何も訴えず、他の職員は、誰も気がつかなかったらしい。
妹は、火傷と確信した。しかし妹が、グループホームの職員(施設長ではない。)に訊くと、摩擦でできることもあると言う。病院には連れて行かれたようだが、正式な説明は、受けていない。妹もそれ以上は、訊かなかった。

私は、医師の診断結果を聞きたかった。
グループホームを非難する気持ちは全くない。事故はいつでも起こりえる。
素晴らしい職員の方も多く、良い介護に心から感謝している。
むしろ夜眠らないで叫ぶ(今は、あまり叫ばなくなったようだが。)母や暴走するピック病の父の方が、グループホームにとっては、余程大きな負担だろうと思う。

施設というのは、入ってみないとわからないことも色々ある。
<どんな施設にも女番長のような入所者はいて、美人が新しく入所するといじめられたりする>と何かの本にも書いてあった。(書名は忘れた。)母は、美人ではないので、その心配はないのだけれど・・。

このタイミングで、最近、第一希望の特別養護老人ホームから妹に電話が入った。
「次の入所が、○○さん(母)になりました」
母が、何百人という入所待ちリストの一番上になったという。
父が、病院でピック病と診断されたことを妹が、特養に電話連絡した結果だ。(両親の介護関係、兄の福祉関係の連絡先は、電話も郵便もすべて妹になっている。)

しかしこんなに突然、こんなに早く順位が回ってくるとは・・・。
いつかはわからないが、遠からぬ内に、母は、そこに入所できる。かかる費用も今の半額程度(月7万円位)になる予定だ。郊外にあり、実家からは少しかかるが、周囲は、田園風景が美しい。
母が、新しい環境にスムーズに慣れるのかどうか、職員や入居者と上手くやっていけるのか、心配は尽きないのだけれど・・・。

塗り絵 リハビリ開始日決定 孫から見た父

父が、今日、母を訪ねると、母は、ホールで一人で塗り絵をしていたという。
「線からはみ出しもしないで、濃淡まで付けて、見事に描いてたぞ。まったく正常だな!」
父は、喜びで興奮しながら言う。私も塗り絵を送ろうかどうしようか迷っていたところだった。(興味を示すかどうかわからなかった。)てっきり妹が届けてくれたものと思っていたら、妹は違うと言う。誰だろう?

私「じゃあ、今日は、お母さん、調子良かったんだ?」
父「そうでもないな。”家に帰りたい”ってずっとしつこく言ってたな」
私「絵を褒めてあげなかったの?」
父は、返事をしなかった。塗り絵を誰からもらったのかも訊かなかったようだ。

「リハビリも金曜日から始まるぞ!金曜日っていえば、すぐだよなぁ?」と本当に嬉しそうに言う。
これは、今日、妹が、リハビリの先生に事情を説明して一日も早く始めて欲しいと懇願した成果だ。その後、グループホームに連絡し、職員の誰が父に訊かれても「金曜日から始まります」っと言ってもらえるように手配してあった。

父「隣の○○市に、最近、睡眠外来っていうのが出来てなぁ。お母さんを一度連れて行ってみようと思ってるんだ」
認知症の不眠は、脳の障害で、睡眠導入剤(睡眠薬)も効かないし、簡単には治せないのだと説明した。
「治せるか、治せないかは、行ってみなきゃわからないだろ!」

父は、今日、早朝にグループホームを訪ね、「今後、金の管理のことは、全部自分がやるから、私に言ってください」と分厚い財布の中身を見せながら言ったらしい。グループホームから妹に連絡があった。
妹が、先日の喧嘩のことを話すと、「大丈夫ですよ~。”はいはい”って言っといて、ちゃんと娘さんの方に連絡しますから」(グループホームには、勿論、父がピック病であることを伝えてある。)
何も知らない父が可哀想な気もするが、仕方がない。

父に電話をした時、私の子供(大学生)が側に居た。「代わって」というので、受話器を渡した。
早寝の父が起きている時間に子供が家に居ることは、滅多になく、電話で話すのも何ヶ月振りかだ。
以前なら「元気か?学校は面白いか?困ることはないか?体に気をつけろよ」と1分位で一方的に切っていたのに、今回は、随分長く話していた。

内容を訊くと、母は、調子の良い日は8割位正常なので、「あと数年は大丈夫だ!」とか、「色々な病院に連れて行ってみれば、夜、寝ないのも治るかもしれない」とか、母のことばかりをずっと話していたらしい。今までになかったことだ。
子供「じいじ、相当参ってるのかな・・。弱音とか愚痴とか、困ったこととか、全然言わない人だったよね?あんな風にばあばのことを話すなんて・・。じいじも必死なんだろうな・・」

昨日、妹から初めて聞いたが、妹の子供も「じいじ、変わったよね」と言ったそうだ。
私の帰省時、父、母、兄、妹、妹の子供2人と私でビュッフェ(バイキング)のレストランに行った時、洗面所で父と一緒になったという。父が、ゴミ箱を蹴飛ばしたので(恐らく偶然)「じいじ、ゴミ箱、蹴飛ばしてるよ~」と言うと、突然、激怒したという。
あの時、父も妹の子供もそんな素振りは全く見せなかったのでわからなかった。
帰省時、父は、すっかり落ち着いたと思い込んでいたが、そうではなかった。

郵便局や銀行でも相変わらず、訳のわからないことを言って怒鳴り散らしているようだと妹も言っていた。
(妹は、兄の通所施設の一泊旅行の準備などで実家を訪ねた。)
妹「でも、どうしようもないよね。やらせておくしかないよね。見守るしかないんだよね。」
その通りだ。

母の妄想 父の暴走 父母の記憶障害

妹が、グループホームに戻った母を訪ねてくれた。

母は、自分の家に帰って泊まったことを全く覚えていないと妹が驚いていた。
母「忘れるも何も、帰ってないんだもん」(母は、確信している。)
私も驚く。母が、最近の出来事を丸ごと忘れるということは、初めてではないだろうか。
(アルツハイマーとは違い、母の記憶障害は、目立たない。)
妹「楽しくなかったってことかな・・・」
目の前で起こった父と妹の大喧嘩も記憶になく、ただ父が、謝罪のファックスのことを話したという記憶だけがあった。
母「お父さん、寂しそうだったよ」
妹が父の短気について文句を言っても
母「お父さんにそんなこと言っちゃいけないよ。可哀想だからね」

そういう母らしい言葉があったと思うと、ある職員と喧嘩をして、「ひっぱたいてやった。あざになってたよ」と、以前の母の口からは絶対に出なかったような妄想を繰り返し話したりもする。

母「私、歩けるようになったの、知ってる?」と歩いて見せようとする。
一歩も歩けないとわかると「あれ?嫌だ~!本当に~?夢だったのかな?」としょげる。
妹「もうすぐ、あの優しいリハビリの先生が来てくれるよ。楽しみができて良かったね」
母「私、バカになっちゃって・・話、出来るかな・・」(レビーには、病識がある。)

妹は、父が、何度言っても色々な食べ物を大量に持って行くことに手を焼いている。
母が、一言「○○が食べたい」と言えば、すぐさま食べ切れない程買って持って行く。それは大福だったり、母が以前はほとんど食べなかったポテトチップス(しかも”ホルモン味”とかいう訳の分からないもの)だったりする。
そんなことをしていたら母が糖尿病になると私も父を何度も脅かしたが、「たくさんなんて持って行ってないぞ」と言い逃れ、効果はゼロだ。

母は、孫たちとの思い出話をする内に、表情がどんどん変わり、昔の母の顔になったという。
妹「楽しい話を一緒にゆっくりして、じっくり聞いてあげてれば、とても穏やかで良い表情をしてるのにね。そういうことが出来たらいいのにね・・お父さんも」
父は、母の言うことを一々まともに受け取り、真剣に質問し返したりする。幻覚(幻視)には「何を馬鹿なことを言ってる?!そんなもの、居るわけないだろ!」と怒鳴る。何十回注意しても父は、変わらない。
職員も「よく喧嘩してますね。聞いてると、(原因は)お父さんですね。お母さんが認知症ってわかっていないから・・」と言ったのを私も聞いた。

夜、父に電話をする。
「お母さん、家に帰ったこと覚えてないんだって・・?」
父を慰めるつもりで話し始めた。しかし父は、驚き「そんなことない!お風呂だって気持ち良いって言ったぞ!」

父「リハビリなぁ。全く話が進んでないぞ!明日、行ったら怒鳴りつけてやろうと思ってるんだ!あいつら、雷を落とさなきゃ何もわからないんだ!」
穏やかに制止するが、聞く耳を持たない。「来週から始まると聞いている」と言っても、「そんなことはない!」と言い張る。何をどう言ってもダメなので話題を変える。

私「お兄ちゃん、明日から○○(通所施設)に行きそう?」
父「明日行くのか?!明日は旗日だぞ。休みじゃないのか?」
私「今日が旗日だよ。今日は、11日だよ」(できる限り穏やかに、何気なく言う。)
父「そうか?!今日は日曜じゃないのか?!今日は10日じゃないのか?!(間)・・・本当だ・・11日だ・・」
父は、自分の記憶違いに、自分で驚愕していた。兄のショートステイ用のバックにバスタオルを入れてと言うつもりだったが、言う気力が失せた。父が、ショートステイの準備をしてやれないので、着替えもこずかいもまとめて施設に預けてある。タオルも妹に頼んで持って行ってもらおう。

いつか、妹が「○○ちゃん(私)は、お父さんとお兄ちゃんの精神安定剤なんだよ。○○ちゃんさえ居れば、2人共落ち着いてるよ」と言ったのを思い出す。安心できたのは、私の帰省中だけのことだったのだろうか・・。

追記:1つ安心できる話を聞いた。サルのぬいぐるみは、今も毎晩母の話相手になり、母を慰めてくれているようだ。
母「(サルは)話さないけどね・・。夜、側にいると安心するよ。枕元に置いといて」

父の起こした母「誘拐」事件

帰宅してから1週間、妹と成年後見人のこと等について話し合ったりしている。
そうしている間にも毎日あまりにも色々なことが起こるのでブログに書き切れない。
有り得ないようなことばかりが起こる。自分でも信じられない。

今日も夕食を作っていると妹から電話があった。
「お父さん、お母さんを連れて帰っちゃったって!!どうしたらいい?!」
一瞬意味がわからなかった。父が、母を自宅に泊めるために連れ帰ったのだ。
妹は、グループホームからの電話で知ったという。

父が、兄(ショートステイを拒否して家に居た。)を連れてグループホームに母を訪ねた。母は、「家に帰りたい」と泣き出した。それを見て兄は、パニックを起こし、叫び続けた。父が兄を怒鳴り、職員に言わせると「とんでもないこと(状態)になった」。
そしてそのまま父は、母を連れて自宅に帰ってしまった。

妹には、対応を考えて1時間後に電話を掛け直すと伝えた。しばらくすると「放って置こう。困り果てて、懲りれば、もうしなくなる」という内容のメールが、妹から来る。

私は、知らない振りをして実家に電話をしてみた。
「何だ?!何の用だ?!今、お母さんを風呂に入れてるから、後で掛け直す!」
電話は切られた。母を風呂場に放置してまで電話に出るのか・・・。

忘れずにコールバックはあった。
父「今、お母さんがいるんだ。代わるぞ」
いきなり変わったが、母は、今までになく頭が良く回転して普通に会話ができた。
私「お風呂、気持ち良かった?」
母「うん!気持ち良かったよ~!」(生き生きと嬉しそうな声)
私「今、パジャマ着てる?」(父に母のパジャマの在処がわかるはずがないと思った。)
母「着てるよ。赤いの。あんたが買ってくれたのだよね?」
私「トイレも行ったの?」
母「行ったよ。お父さんったら行けるはずがないって言うんだよ。何でもできるはずがないって言うの」
横から父の怒鳴り声が聞こえる。
私「お父さん、ずっとこの調子?」
母「そうだよ。まったくどうしようもないねぇ」(父の怒鳴り声が続く)
私「どうしようもないさ~。怒鳴るのは、お父さんの生まれつきの病気だもん(笑)」
母「ほとんどビョーキ!(笑)」(注:昔の流行語)

私は、何か欲しい物がないか、したいこと、行きたい所はないか、次々と質問をした。
母「私は何も要らないよ。あんたこそ、何か買って欲しい物はないの?」
母「これからどんどん楽しもうと思って。車に乗ってどっか遠くにも行きたいし、また一緒に旅行もしようね」

随分長く話したが、変なことは、ほとんど言わなかった。父に代わった。
父「今日、行ったら、お母さんが”家に帰りたい”って泣いてな。可哀想だから連れて来てやったんだ」
私は、最低限の注意事項だけを穏やかに伝え、最後に言った。
私「転んだら骨折だからね。それだけは十分気を付けてね。今夜は眠れないよ」
父「おぅ。明日は、○○(妹)が、買い物に連れてくって言ってるから、終わったら帰す」

最初は『有り得ない!』と思ったが、『これも有りだ。何でも有りだ』と考えを変えた。
父の後先考えることのない衝動性は、誰にも止められない。(強制入院させる以外、方法はないと思う。)
最悪、母が、骨折したとしても運命だろう。
今は、夫婦水入らずの時間を思う存分楽しんで欲しい。ただそう願った。

追記:後で気が付いたが、自宅には母の薬もない。今夜はなしにしても明日の朝からは飲むように、父に薬を取りに行ってもらおう。

ピック病が起こすトラブルと無自覚(水道メーター編)

(はじめに ― 以前にも書いたが、父はアパートを1つ所有、管理している。しかし水道料金の管理が難しくなり、自動的に請求が行くメーターに取り替えようとしたが、父の説明不足で、間違ったものを取り付けられたといういきさつがある。)

父のアパートの水道メーター取り替えのことで揉めて以来、父が、2回目の取り替え工事の依頼もせず放置してあることは、帰省の時、わかった。
このまま放置し続ければ、また父が、各戸のメーターのチェックと計算と請求をしなければならず(するとも、できるとも思えない。)急ぎ、工事を進めなければならなかった。私は、妹に、話を進めるように頼んだ。
父は、自分から妹の夫に依頼し、いくつかの業者から見積もりを取っていた。妹は、夫(私の義弟)に話を進めるよう頼んだ。

しかし話は、こじれにこじれていた。
父は、妹の夫にも間違ったメーターを取り付けた業者にも怒鳴りつけたようで、両者とも「訳のわからないことを言って怒鳴る人の相手はしたくない」と言って来た。妹は、両者に、父が初期の認知症(ピック病)であることを伝えてある。
妹がなんとか取りなして、業者の社長と父との話し合いに妹が立ち会うという条件で、話は進んだ。
ところが朝、妹が、それを父にさらりと電話で伝えた途端、父が爆発した。

「お父さん、狂ったように怒ってて手がつけられないよ。○○ちゃん(私)何とかしてくれる?!」
父は、私の言うことなら比較的何でも冷静に聞く。しかし父に電話をしてみると
「なんでお前まで出しゃばってくるんだ~!!俺をバカにしてるのか~!!俺は認知症なんかじゃないぞ~!!俺が、今からそこ(業者)へ行って話を付けて来るから引っ込んでろ~!!」
と受話器が壊れそうな勢いで怒鳴る。

妹から業者の社長の電話番号を訊き、しばらくしてから携帯に電話をかける。
社長は、出先にいるので、今、事務所がどうなっているかはわからないと言う。
けれども父に辟易(へきえき)している様子は、ひしひしと伝わって来る。
何とかしたかったが、この日、私は、仕事があり、午前9時半には家を出なければいけなかった。何かあれば、妹の夫ではなく、妹の携帯まで電話をするように依頼して電話を切った。
それから妹に、連絡して、明日まで伸ばせるようなら明日、私が、ゆっくり話をすると伝えて仕事に出た。

仕事が終わって夕方妹に電話すると「恐ろしくて電話してないから、どうなったかわからない」と言う。
父に電話をするとまだ火を噴くように怒っていて怒鳴り散らす。
こんな父は、8月以来だ。落ち着いたと思っていたのに・・。

しかし何がどうなったのかよくわからないが、父は、自分で業者と話を付け、工事は着工されることになった。
妹からはメールが来た。「今朝はごめんね。私が落ち着いて処理すれば良かった。忙しい時に頼んじゃって・・」
そんなことは構わない。妹は、父の怒鳴り声に嫌悪感を持っているが、私は、全く苦にならない。

翌日の父の言い分は、こうだ。(父の怒りは収まっていた。)
自分は、○○(妹の夫)にも業者にも一度も怒鳴りもしなければ、何のトラブルも起こしていない。何の問題もなくきちんと話を進めていた。○○(妹)が、出て来て、おかしな事になった。

私は、○○(妹)が自分から立ち会うなどとは一言も言っていない、業者に頼まれたのだと説明する。前回のような取り付け間違いを再び起こさないために第三者が必要だっただけだと。

しかしそれを聞いた途端にまた父は声を荒げる。
「俺と○○(妹)じゃ、人生経験が全く違うんだ!何でも一人でやってきた(人生経験豊富な)俺が行く所に○○(妹)が来て何になるっていうんだ?!」
私は、父の言い分を肯定し、「とにかく工事が始まるんだから、もういいじゃない」となだめる。
「言っとくがな、俺は、認知症じゃないぞ!お前や○○(妹)や医者が何と言おうと、俺には何一つ当てはまる症状がない!症状のない病気があるか?!俺は、一人でなんだってできるんだ!お前が口出しすることなんか何もない!」

「症状には波がありますから」という(ピック病を告知した)医師の言葉を思い出した。
これから何度でも同じような山を乗り越えていかなければいけないのだと覚悟した。

ピック病の症状(衝動性 買い物ミス 食べ物の好み 甘み)

帰宅後、毎日父とは電話で話しているが、驚かされることが多い。

「お母さん、夜、眠らないって言うだろ。今度なぁ、土曜日にでも家(自宅)に連れて帰って来て、一晩どんな様子か一遍見てみようかと思ってるんだ」
「・・・それは止めた方がいいんじゃないかなぁ。お母さん、家の方が良くなっちゃって、”もう絶対帰らない!ずっと家にいる!”って言い出すと思うよ。それも可哀想でしょ?ずっとは看れないんだから・・」
(「事故が起きるから」という本当の理由は言えない。)
「そうだなぁ。じゃ、俺が、お母さんの所に行って寝るか!」
「施設の人に話してみた?」(父はよく無断で行動する。)
「おぅ。”いつでもどうぞ”って言ったぞ」
「うん。それは喜ぶだろうね。ただ”明日も泊まれ、明後日も泊まれ、毎日泊まれ”って言い出す可能性高いよ。それ覚悟でやってね。」
「そうか?!・・・それも困るな・・・」

しかし父が、実行に移す前に相談してくれたのは、大きな前進だ。
元々思ったらすぐ実行の人だったが、ピック病(認知症)になってから「何も考えずに衝動的に行動する」ことが多くなった。後先考えない。
母のオムツもお尻拭きも着替えも持たず、母の希望も訊かずに突然ドライブに連れて行ったりする。「一昨日”海を見たい”ってお母さんが言ったんだ」と父は言うのだが、今日も行きたいのかどうかはわからない。レビーの特徴で、記憶力は比較的保たれてはいるが、完全に忘れることもある。
車椅子の母は、障害者用トイレでなければ入れないし、名古屋に行った時のように大量の便失禁も有り得る。
母は、手すりにつかまっても一人で立ち続けることができないので、慣れない介護者が一人で対応することは、無理だ。
そんな諸々のことなど一切考えずに、父は、揚々と母を遠出させる。
「お母さん!一緒に海に行ったなぁ!楽しかったなぁ!」と言っている横で、母は「なんで海なんか連れてくのかねぇ」とつぶやいていたらしい。

父は、毎日母を訪ねて足のマッサージもしている。ほとんどしゃべらず、ただ床に座り込んで、車椅子の母の足をさすり続けるようだ。父は、足の浮腫(むくみ)を母の唯一の体調基準にしている。むくんでいれば調子が悪い、むくみがなければ、健康だと。根拠はよくわからない。

最近の父の考えや行動には、意味不明なものが多い。
例えば、食べ物。かつて一度も食べたことがないだろうハンバーガーを3つ買って来たりする。
「これ、何か知ってる?」「パンだろ?」「肉も挟まってるよ。賞味期限、明日だよ」「そうか?!食べ切れんな。まあいい。そういうこと(失敗)もたまにはある」
野菜もエシャロットとかミツバとか、何に使うのかわからないものを買って来る。
帰省した時には、生ハムも買って来た。
父は、長年純和食しか食べず、刺身を何より愛し、見た事のないものは食べない人だった。
父は、刺身を嫌いになり、一度も食べた事のない、食べ方のわからないものを色々大量に買うようになった。(そして多くは、そのまま腐らせてしまう。)

「味覚の好みが変わる」というのは、ピック病の症状の1つにある。
まったく酸味のないドレッシングを「酸っぱくて食べられないぞ」と言い、甘酢だれなど「何だこれは?!」と顔を歪める。

甘い物が異常に好きになるのもピック病の症状だが、父は、元々1日3個位アイスクリームを食べる人なので、変化はよくわからなかった。
夏の間、水を全く飲まず、毎回炭酸飲料(主にダイエットコーラ)を飲んでいたのは、以前にはなかったことだ。
理由を訊くと「水なんか美味くないじゃないか」と答えた。

何でも異常に沢山買って来る父は、1.5リットルの炭酸飲料を一度に10本買って来たり、アイスクリームを特大レジ袋一杯買ってきたりする。絶対に冷凍庫に入り切らないと思ったが、実家の冷蔵庫は大型なので、ギリギリ入った。
父が買い物から帰る度に(そもそも私が居る間は、私が、家事を担当していたので、父は、買い物に行く必要はなかった。)私は、絶句し、『2人でキャベツ2玉、大根2本をいったいどうやって食べよう・・』と頭を抱えていた。

9月3回目の帰省5日目(2)母の初診 薬の処方 膝の硬直

母の初診も検査はなく(次回、頸部エコー、頭部CTなどの検査がある)じっくり問診だけだった。
詳しい症状は、既に手紙と昨日の私一人の受診で話していた。
先生は、話すスピードをぐっと落として母に合わせ、笑顔の「こんにちは!」でスタートした。
母も「こんにちは」と礼儀正しく挨拶した。
先生は優しくゆっくりとしばらく母と会話をするが、調子の良くない母は、トンチンカンな答えが多い。

医師「3月に急激に悪化したのは、どうして?」
私 「最初は、薬の飲み忘れです。体の動きが悪くなって、毎日何度も転んで重症の腰椎圧迫骨折で長く入院しました」
医師「それじゃ、悪くなるよね」

私 「抑肝散を飲み始めた途端、幻覚(幻視)が消えたのに、またたくさん見えるようになっています」
医師「薬は、ずっと効くとは限らないしね・・。どんなものが見えるの?」
妹 「最初は動物で、それから子供。今は、人、動物、物、何でも見えます」
私 「血だらけの私や病気の妹、怪我した家族が見えたりもします。いつも心配しています」
医師「(母に向かって)そうなの?」母は、意味不明な答えをする。

先生は、目の前の母の足を掴んでひょいと持ち上げた。
「あ~!膝が、固まっちゃってるねぇ。これ以上伸びないもん。リハビリをするなら今しかないね」
母が今までかかった医師(私が診察に立ち会ったのは5人目)は、一度も母の手足を動かしたりしなかった。
私自身、母の膝が固まっているなどとは、思いも付かなかった。

薬の処方は、急に大きく変えると問題が起こる(レビーはそれが特徴。)ということで、今回は、ほとんどそのまま。徐々に様子を見ながら加減しましょうと言われる。
脳の血流を良くするというサアミオンだけを止めた。
母は、名古屋フォレストクリニックでは、12種類の薬とフェルガードという健康食品を処方された。
(1つは持病の橋本病の薬。1つも持病の原発性胆汁性肝硬変の薬。
後は、パーキンソン症状のための薬2種類、マドパーとマイラン。アリセプトと抑肝散。むくみを取る薬、アルダクトンA。
寝付きをよくする薬、ベンザリン。不安を取る抗精神薬、セロクエル。セットで夜間せん妄を抑えると説明された。
便秘薬、センノサイドと酸化マグネシウム錠。)

母は、会話の内容がわかっているのかどうか、よくわからない様子で車椅子に座っていたが、突然、話し出す。
「先生は、明るい方ですねぇ!」
「だってここに来る人は、みんな大変な人ばっかりでしょ?僕まで一緒に暗くなってたら、それこそ大変なことになっちゃうでしょ~」
先生は、屈託なく笑い、それにつられるように母も楽しそうに笑った。

診察室を出ると、母は、「いい先生だね」と笑顔で言った。
妹「いい先生でしょ?だからもう名古屋は行かなくていいよね?近くのこの先生に診てもらおうね」
母は、「名古屋に行きたい」とずっと言い続けてきた。
「だって治してくれるって言ったもん!」
母の希望を叶えたい父も名古屋に異常に固執していた。1ヶ月かけて病院を変えるように父を説得し続けてきた。母が、ここで良いと父に言えば、父も初めて納得するだろう。

診察代は、2人合わせても千円も行かなかった。
病院の隣に建つ薬局に妹が行くと、「こんな薬の処方は初めてだ」とパニック状態になったらしい。(私は、両親と駐車場で待っていた。)微量のアリセプトなどを新しく包んだりして1時間近くも待たされた。それでもまだ用意できない薬があり、グループホームまで届けてもらえることになった。

昔から「待つ」ということが全くできなかった父が、文句も言わずに待っていたのが不思議だった。
病気が悪化してから、待てなくなったのは、母の方で、急かす母をなだめ、なだめ時間を潰していた。暇ついでにふと母の耳の中を覗いてみると、耳あかで耳がふさがっていた。気が付かなかった!

「トイレに行きたい」という母(かなり頻繁に言う。実際に出る時も出ない時もある。)を大急ぎでグループホームに送り届け、私は、帰るために駅まで送ってもらう。(本当は、3人に見送ってもらう予定だった。)
父も妹も「本当にありがとう!!」と心の底から言ってくれる。『それは、私のセリフだよ』といつも思う。妹には感謝してもし切れない。
私は、3月以来初めて、心の重さを感じずに帰路に付いた。

9月3回目の帰省5日目(1)心の回復 ピック病の父の初診

夕べから差し迫ってすることがなくなった。遠距離介護を始めてから初めてのことのような気がする。
やるべきことは、みんなやった。
庭に出ると秋らしい清々しい空気に包まれる。トンボが飛んで来る。なんて平和なんだろう・・。
父の生活、兄の生活。何が解決したわけでもない。
それでも断崖絶壁の渕まで追い詰められていた時とは違う。
今は、大地に足を踏みしめている実感がある。
いつどんな突風が吹くかはわらかないが、踏み堪えられる自信を回復した。

両親を連れて妹と○○医院へ行く。
母は、グループホームの職員とトラブルがあったようで、見た事もない程不機嫌だった。食事もほとんど取っていないという。
予約を入れていたが、とても混んでいてしばらく待たされる。母は、あまり話さず不機嫌なまま。父は、待合室にたくさんある認知症の本をめくっていた。

まず父の初診。(○○先生は赤いポロシャツにジーンズという格好だった。)

○○先生は、問診のようなことは、ほとんどせず(私が既に手紙と昨日の診察で話してある。)親しい知人と世間話をするかのように、父とテンポ良く楽しげに会話をする。父も仕事で来たことを覚えていて「先生、先日は、お世話になりました」といつもの大きな声で笑って挨拶をする。

先生は、ピック病と言う病名も「病気」という言葉すら使わない。
検査もしない。(健康診断の詳しい結果のコピーは渡し、ピック病と診断された時の検査結果も詳しく説明してあった。父が「萎縮してるって言うなら正常な人の画像と並べて証明しろ!」と家で息巻いていたことも伝えてある。父の検査は、次回の診察に予定された。)
父は、どんな検査をされようとも文句を付けて、医師をやり込めてやろうと心に決めて来たのだろう。肩透かしを食わされて、困惑したような、照れたような、妙な笑いを浮かべていた。

仕事や生活でミスをして困ったりしたようなことはないかと訊かれた父は、
父 「全然ないですねぇ」
医師「でもここに(仕事で)来た時もちょっとミスしたよねぇ?」
父 「あぁ・・。あんなこと、滅多にないですよ!初めてですかねぇ」

父は、すべてがこの調子だ。自分に都合の悪いことは、100%否定する(忘れる?)。
何もかも巧みに自己正当化してしまう。そういう時だけは、一見もっともらしい理屈が流暢に出てくる。文字通りの「ああ言えば、こう言う」だ。その傾向は、どんどん強くなって来ている気がする。以前の父は、自分の過ちを素直に認めて謝った気がする。

医師「時々は娘さんを隣に乗せて客観的に運転を見てもらってね。それで娘さんが危ないって言ったら、やっぱり運転を止めることも考えてみないとね」
父は、自分の運転がいかに安全か、無事故無違反の実績(事実ではない。)、人は誰でも人の運転をいかに危険に感じるかなどとガンガン反撃を始める。怒ってはいないが、とにかく止まらない。○○先生は、なんとかそこに割り入って笑顔で言う。
「今、止めろなんて誰も言ってないよ。こらからの話ね。事故、起こしてからじゃ遅いでしょう」

医師「薬も色々あることはあるんだけど・・(父の顔を見て)飲まないよね?」
私 「どんな・・・?」
医師「衝動性を抑える薬とか、あまり怒らなくなる薬とか・・」
父 「(私に)衝動性?」
私 「お父さん、夕食食べてる最中に突然外出しちゃったりするでしょ?」
父 「何を言ってる!あれは、用があって出掛けたんじゃないか!意味なく出た訳なじゃない!」(実際にはどうでもいい用だった。)

先生は、2ヶ月ごとに通って様子を診て行こうと言い、父は、なんとなく腑に落ちないようだが「いいですよ」と返事をし、診察室を出た。

昨日の話では、先生は、認知症の自己チェックのようなものをやらせてみようかと言っていたが、父にやらせたところで、「物忘れ?全くなし!物の場所?問題なし!機械の操作?毎日携帯を使って仕事してますよ!」と答えるだろうことが、先生にも予測できたので止めたのだろう。
父に症状を認めさせることは、不可能だ。
「私は、全く正常です。何の異常もありません。物忘れなど1度もありません」と言い切っている。
とはいえ、○○先生に対しては、父も好感を持ったようだった。
父「良い人だが・・医者らしくない医者だなぁ」

9月3回目の帰省4日目(3)母、自宅に帰ってから7人で外食

夕食は、妹とその子供2人も含めて7人でビュッフェ(バイキング)のレストランに行くことになっていた。
妹が、一度は嫌がった子供達を説得してくれたようだ。

私が一人でグループホームに母を迎えに行き、母は、1ヶ月振りに自宅に帰った。
車から車椅子にやっとのことで移ったところで、犬の散歩中の近所の××さんと偶然会う。
「まぁ!○○さん!久しぶりだこと!ご病気はいかが?」と駆け寄って来てくれた。
信じられないことに、母は、5分近く全く正常に会話をした。
「退院するのも、そう遠くはないことだと思いますから」の一言だけがおかしいが、××さんは、また母が入院していると信じただろう。
あの会話を聞いて、誰が、母の認知症に気付くだろう?
あれほど正常に会話ができる母を3月以来初めて見た。

玄関まで車椅子で行き、そのまま車椅子を引っ張り上げて家の中まで入ろうかどうしようか迷う。
父は、「歩行器があれば、お母さんはちゃんと歩ける。大丈夫だ。問題ない」と強く言う。
なんとなく従い、母を歩行器で歩かせてみた。そして知った。
母は、歩けない。母は、もう全く歩けなくなってしまった。
父は、後ろから母を抱き上げるようにし、「歩け!歩け!」と急かす。
母は、操り人形のように、つま先だけを床に付けながらヨロヨロ運ばれて行く。
よくこんなことを繰り返して今まで骨折事故を起こさなかったと思った。

やっとのことで居間のソファーまで辿り着いた直後、母は、「トイレに行きたい」と言う。
トイレまでは狭くて歩行器も使えない。
父は、後ろから母を抱き上げ、倒れそうで怖がる母は、前で支える私の腕に爪を立てる。
その時には気が付かなかったが、後で見るとあちこち皮がむけていた。

レストランに行く時は、私が、さっと運転席に座ると、父は文句も言わずに後部座席に座った。以前は、自分が運転しなくては気が済まない人だったのに・・。

店に入った途端、父は、財布を出し、店員から「お食事後に」と言われるが、無理矢理支払った。
私が母の横に座り、妹が、母の好きなものだけを取ってくるのを待っていると、父が、大量の料理を母に運んで来る。妹がすると説明するが、さらに色々な物を母の前にずらりと並べて「みんなで食べればいい」と言う。

母は、比較的しっかりしていたが、幻覚(幻視)がたくさん見えるようで、
「なんであの子は、水浴びなんてしてるの?」「あの牛の頭の上の赤い猫は何してるの?」
など色々なことを言い続けた。

7人もいると会話も遠くなり、私は、主に母と話し、兄の手伝いをし、父の取り過ぎを注意し、そうしている間に、母がパンを箸で食べようとしたり、お茶をスプーンで飲もうとするので、その度に直していた。
「○○(私)は、うるさい!」と母が言い、妹が爆笑していた。

母は、食欲がないようで、「どれも美味しくない」と言って、ほとんど食べなかった。好物のレアチーズケーキとカプチーノだけを喜んだ。
妹の子供が、小さい時に「じいじとばあばと行った長野旅行」の話をしてくれて、やっと場が和んだ。
しかし、それも束の間。
母「今日は家(自宅)に帰って寝れば(泊まれば)いいよね」
私「・・・ごめんね。それはできないの・・・」
母「私のしたいことをことごとく否定されると、私だって我慢してはいられないよ」
険しい顔で言う。「私は、いったいいつになったら退院できるの?」とも。
妹が助け舟を出してくれた。
帰りもどうなるかと心配したが、グループホームでの職員の対応が良かったので、なんとか機嫌を損ねずに別れることができた。

9月3回目の帰省4日目(2)金庫の鍵 郵便物 民生委員 近所

自宅に帰宅し、父と妹と3人で初めて母の財産について話し合う。
父は、来年の3月をめどに、あちこちに散らばっているお金(保険など含む)を1カ所にまとめたいと言う。
私は、妹に全てを任せ、手伝える部分は、何でも手伝うと言った。(300キロ離れていても電話での問い合わせはできるし、帰省時には、動ける。)
父も妹に任せることに同意し、金庫の鍵を妹に渡した。
私も妹も両親の財産をもらうつもりは、全くはない。両親と兄の3人で使い切って欲しいと父に伝えた。

すべては、夢のようにスムーズに進んだ。8月には考えられないことだった。
9月の父への告知の日には、<仕事も運転もやめる。お金の管理は妹に任せる>という誓約書まで用意してあった。文面に気を使い、命令ではなく「協力へのお願い」として書いたが、結局使わずに済んだ。何よりだ。

その後、父は、来年の電話帳に載せる広告の修正に熱中していた。業者仲間に頼んで、全国の同業者の広告のコピーを取り寄せ、その一番良い部分を集めて作るのだと言っていた。何時間も机にかじりついていたが、出来上がったものは、元の広告とほとんど変わらず、逆に少し質が低下していた。

妹は、母や兄に関わる数多くの介護、福祉関係の事務処理をテキパキとこなしていた。
母の入院時にかかった医療費の何%かを市から補助してもらうための手続きなど、高齢者には到底できない複雑さだ。わずかな補助金のために、なぜこんな面倒臭い手続きをさせるのかと思った。
父もこうした事務処理は、もう全くできなくなっている。
実家に来た郵便物は、全てまとめて箱に入れて置くように目立つ漆の箱を茶箪笥の奥から出してきた。(引き出物としてもらい何十年も眠っていた。)
これからは、妹が、週1度それをチェックして処理することになった。

私は、父の担当ケアマネになる予定の人(母の要支援の時のケアマネ)に電話をし、今までの父の様子をすべて話し、民生委員の連絡先を訊いた。

友人(ケアマネ)には、認知症があれば(東京都では)要支援ではなく必ず要介護になるはずだと言われていた。しかし母の要支援の時のケアマネ、要介護になってからのケアマネ(支援と介護でケアマネが変わるシステム。)2人と話し合ったが、父は、「良くて要支援2、普通は要支援1。非該当(支援も必要ない。)になるケースもあるので、事前に調査員と電話で話をしておくと良い」と9月にアドバイスを受けた。
介護(支援)度が決まるのは、1ヶ月~1ヶ月半位かかると言われている。

民生委員に電話。高齢の男性の声。母のこと、兄のこと、施設の名前や住所など詳しく訊かれた。
父は、誰にでも”何も困っていることなどない。家事も仕事も完璧にこなしている”と言うが、その言葉を鵜呑みにせずに、時々訪ねて欲しいとお願いする。
父は話好きなので、話し相手の訪問は、歓迎するはずだ。
親切なその男性は、「認知症の方は、他人と接する時には、本当に正常になってしまって、何かミスがあっても見事に言い繕ってしまうんですよね。家族にとっては悩みの種ですね。私も経験がありますから、良くわかります。できる限り訪ねるようにしますので・・」と言ってくれる。妹の携帯の番号を伝える。

いつもお世話になっている隣の○○さんにも今日○○医院で言われたことを伝え、時々様子を見て下さいとお願いする。父の認知症のことは、近所の方にもどんどん伝えて下さいとも。
近所の方々向けにも手紙を作って挨拶に回ろうかとも一度は考えたが、○○さん以外のご近所の方の性格や認知症に対する考え方まではわからない。近所でも皆から最も信頼されている○○さんから言ってもらうのが一番安全だろうと思った。
「火事でも起こされたら大変だから引っ越して欲しい」と言い出す人がいないとも限らない。実家の台所は、タイル張りで、火事になることはないと○○さんには、説明しておいた。

9月3回目の帰省4日目(1)新しい主治医との話 認知症の診断 運転 仕事

両親の新しい主治医になってもらうつもりの○○医院へ朝一番で行く。(予約がないと待ち時間が長い―と言っても電話で呼び出しをしてくれるので病院で待つ必要はないと聞いていた。)
明日の両親の受診の前に、両親の前では話せないことをしっかり話し合っておくために。
開院前だが、既に2人、病院の前のベンチに座って待っている。そこを自転車に乗った小柄な男性が、笑顔で挨拶しながら走って来た。医師なのだとわかった。

受け付け開始前、ブラインドの向こうから○○先生が看護士全員をトレーニングする声が聞こえてきた。
症状を言い、看護士を指して考えられる病名を言わせている。
レビー小体型認知症も出て来た。「最近、テレビでしょっちゅう取り上げられている病気です。しっかり覚えて」
母が、重症の腰椎圧迫骨折で入院した時、看護師たちが、レビーという病名を知らなかったと妹が話していたのを思い出した。看護師の教科書には載っていないということか。

ブラインドが開き、父の受診(もちろん父はいない。)の受け付けをしていると目の前にピンクのシャツを着た○○先生(診察室でも白衣は着ない主義。)が通る。声を掛けやすい雰囲気なので、思わず訊いた。
「すみません。○○に住む○○です。先日速達で手紙を出させて頂きましたが、読んで頂けたでしょうか?」
「読みましたよ~。受診は明日ですよね?」と朗らかに答えが返る。
『あぁ、これならきっと大丈夫だ』と思った。

診察室に入る。
父が、8月に異常な怒りっぽさ、猜疑心の強さなどを示したのは、母の自宅介護の過酷さから、9月に急に無口になったのは、母が、グループホームに入所したためではないかという私の想像に、「恐らくそうでしょう」。
今、落ち着いた父を見ていると、病気ではなかったのではないかという思いが強くわいてくると伝えた。
「家族がおかしいと思えば、その人は、認知症ですよ。それは医師より正確です」

<診察室で言われたこと>
脳は、とても複雑で、これはアルツハイマー、これはピックと、クリアーな区別はできない。同じ病気であっても症状の現われ方は、一人ひとり違う
CTやMRIも確実とは言えない。個人差が大きいから。
萎縮していても症状のない人もいれば、萎縮していなくても症状の出る人もいる。
PET(ポジトロン断層法)で脳血流の検査をすれば、お父さんの場合(ピック病は、前頭側頭葉変性症の1つ)は、診断がつく。けれども高価な検査だし、そもそも病名を付けても意味がない

運転を止めさせることは、無理。数多くの人に言ってきたが、言われて止めた人は一人も居ない。事故を起こして、『危ないんだな』と初めて自覚して止める人がいるというくらい。時々でも隣に座ってチェックするしかない。

電話帳の広告を取り消すべきかどうか訊く。
「そうしたら?わざわざ自分で電話帳開いて確認もしないでしょ?」
「いえ。広告がなくなれば仕事が激減してすぐに気が付きます。父と私との間の信頼関係にも影響します」
「それは、まずいよね。お仕事は何されてるの?」

答えると数ヶ月前に病院でも仕事を依頼したと思うと言う。風貌を説明する。
「やっぱりそうだ。いや、あの時も変だなと思ったんだよね。仕事に来たのに道具を忘れたって、取りに戻って、○○を頼んだだけなのに、××までしちゃってね・・。そうか、あれが、お父さんなんだ。元気な人だよね?」
「仕事は、本人がやれると思う限り続けていいんじゃないの?まぁ本人も客も困るだろうけどね」

「あれが困る、これも困る、あれも止めさせたい、これも止めさせたいって、問題点ばかりに目を向けないで、今、お父さん自身が、何に一番困っているのかなって見るようにしてみようよ。そこにそっと手を貸してあげれば、後は、お父さんが、何とか自分でやっていけるんだから。そりゃあ完璧にはできないけど、完璧にやる必要もないでしょ。お父さんなりにやっていければいいんだから」

弱点はつつかずに、あたたかく、注意深く、定期的に見守って、父の心の安定に努めるのが良いのではと言われた。ケアマネや民生委員や色々な人たちに、時々実家を訪ねてもらうようにもアドバイスされた。妹(市内在住)も最低週1度は訪ねるといいと。

私は、今まで背負っていた重い荷物をひょいと下ろされた気がした。
追い詰められ、思い詰めていた自分が、急に、遠い夢の中の人物に思えた。



9月3回目の帰省3日目(2)母の心労 孫の辛さ 

夕食後、父と一緒に再び母のグループホームへ行く。
母は、あまり表情はないが、落ち着いていて、泣いたり、怒ったりはしない。
ただ父が事故を起こして大けがをしたと言っては心配している。父は、上半身裸になり「どこに怪我(けが)がある?」と胸を何度も叩いて見せるが、ほとんど効果はない。

母「高校の友達や色々な人が来たよ」 私「本当?良かったね!楽しかった?」
母「・・・あんまり会いたくないの」 私「どうして?」
母「お世辞を言わないといけないから」私「・・・気を使っちゃうっていうこと?」
母「そうだよ」           私「疲れちゃうの?」
母「うん。もうちょっと治ってから会いたい」

母は、サルにもいつも話しかけてやらなければと思って疲れると言う。
猿「ボクは、お母さんが、話したい時だけ話して欲しいの。お母さんが話したくない時は、一人で大人しく遊んでるから大丈夫だよ!ボク、すご~くお利口さんなんだよ~!」
母「それならいいけど・・・」

母は、毎日「どこかに食べに行こう(外食しよう)」と言うので、妹に電話して都合を訊く。
大学生の子どもが帰省するという。それなら皆一緒に行こうと誘うと、子ども(母の孫)が「ばあばと一緒に食事をするのは辛過ぎる」と言ったという。
私の祖父母(私と一緒に暮らしてはいない。)が、衰えた時、その姿を見るだけで涙が出て来たことを思い出す。
でも今は、なぜオムツを代えてあげなかったのか、なぜもっと介護をしてあげなかったのかと後悔している。

私の子ども達は、悪化する前の母しか知らない。
夏休みに「会いに行きたい」と言ったが、実家は、あまりにも混乱していて受け入れられる状態ではなかった。
今度母を見たら、私の子ども達は、何を思うのだろう・・。

母は、何度か「いつ退院できるの?」と訊いてきた。グループホームを病院だと思っている。
とっさに「もう少し良くなってからかなぁ」と答えたが、残酷な答えだと思った。
私「でも、お母さん、今日は、調子がいいよね。自分でも感じる?」
母「自分では、調子がいいとは思わない」
私「気が沈む?」(母は、このところいつも暗い顔でいる。)
母「沈む時もある。今日はそうでもない。弾むような気持ちにはならないね」
私「気が沈むのもお母さんの病気の症状なの。お母さんが悪い訳じゃないよ」
母「・・・嫌な病気だね・・」

夜、父は、トランクスと肌着という格好で駐車場の車の中で探し物をしている。
仕事の大切なカバンを探していたという。
私「お父さん、最近、物忘れ増えたと思う?」
父「思わない。全く思わない。物忘れなんか全然ないな」

9月3回目の帰省3日目(1)主治医 大量の物 病気ではなかった?!

朝9時にグループホームに行き、職員と車椅子の母を連れて近くの○○内科へ行く。
母は、サルを抱いていた。「今から名古屋に行くの?」と繰り返し言っている。
職員「夕べは、一晩中、お猿さんとお話ししてましたよ」

内科医は、母の名古屋での薬の処方を見てひどく驚いている。
医師「・・アリセプトが10分の1?!そんな処方ができるんですか・・?!」
私「興奮したらマドパーを減らすように。夜、叫んで眠らなかったら、アリセプトは止めるように言われています」
医師「パーキンソン病と認知症が安定しているなら、この通りに処方もできますが、安定していないようなら専門医の所に行って下さい。ここでは、そこまでは診られません。」
(「パーキンソン病と認知症」ではなく、レビー小体型認知症だが、黙っていた。)

結局、内科(甲状腺と肝臓)は、ここを主治医とし、レビーだけ他の病院で診てもらうことでグループホーム側も納得してくれた。風邪などで熱でも出せば、職員が、この内科に連れて来てくれるそうだ。
問題は、自然解決。

お墓参りをし、伯母の家を訪ね、ピック病の資料(ネットから出した田渕肇医師の2009年5月31日の講演と池田学著「認知症」中公新書の抜粋)を置いて来た。

親戚の○○ちゃんに紹介された施設に問い合わせの電話を入れる。資料請求もした。
兄の秋冬物の着替えに全部記名して兄の施設に持って行く。
記名には時間がかかった。量が多過ぎるのだ。母のせいか、父のせいかわからないが、下着も上着も異常な枚数だ。今でもあちこち整理していると買ったまま袋から出すこともなく変色した下着がゾロゾロ出てくる。下着のシャツが100枚程、靴下が200足位あるのは、父の仕業だろう。タンスに入り切らずに特大レジ袋に入れられて放置されている。6畳の日本間は、手の付けられない物置となっている。部屋の真ん中に突っ張り棒があり、冬の上着が何十枚も吊るしてある。どれも皆、同じような形、同じような色だ。
この家にあるものは、何から何まで数が異常に多い。

父は、ずっととても落ち着いている。することもおかしいし、物忘れもひどいが、突然理由なく怒り出すことは、一度もない。運転もそれほど危険ではない。
以前通りに楽しそうによくしゃべり、一時期(9月上旬~中旬)のように無口でもない。
8月は、母の自宅介護が極限状態だったので、父まで異常になったのか・・?
9月は、母がグループホームに入ったので一時的に沈んで無口になったのか・・?
父は、病気ではなかったのか・・?私が病気に仕立ててしまったのか・・?私が?!


午後1時間半ほど昼寝をする。疲れているのだと自覚する。
春以来、こんなに長時間昼寝をしたことは、一度もなかった。1分1秒を惜しんで走り回り、夜ほとんど寝ていない日でも日中横になることは、ほとんどなかった。
昼寝ができるくらい父も母も落ち着いたということか・・。

9月3回目の帰省2日目(4)親戚の意見 兄の行き先

母の腰椎圧迫骨折入院中に見舞ってくれた親戚全員には、帰省前に手紙を出してあった。
母が、自宅での介護が困難になって8月末にグループホームに入所したこと、
私は、淋しがっている母を訪ねて欲しいと思うが、母は「こんな姿を見られたくない」と言うこともあること、
(グループホームの連絡先と住所、行き方も詳しく書いた。)
母は、レビーで、その症状は、刻々と大きく変化するので、状態の善し悪しは予測できないこと、
(一度行って悪かったからと言って次回も悪いとは限らないし、その逆もあると。)
父が、9月にピック病と診断されたこと、
ピック病の症状、病識がないこと、事実と違うことを言うこと、
父と会っても病気の話はせず、何か気付いたことがあれば、妹か私に連絡を欲しいということなどを書いた。

この手紙を読んで、すぐに伯母(母の亡き兄の妻)の所には、3人から電話があったと後から聞いた。
(頼りになる伯母は、親戚の中でも中心人物だ。)
「できることがあれば何でもしてあげたいけど、何をすればいいかわからないし・・。困ったねぇ」と皆、言っていたそうだ。
私も伯母には、帰省の度に会いに行くが、他の親戚の人(殆どが同じ市内に住む。)とは、長年、お葬式で会うだけになっている。(子供の頃は、その家に遊びに行って、その家の子供達と一緒に遊んだりした。)

夜、その手紙を読んだ親しい親戚の○○ちゃん(歳は、私と母の中間。)から電話がある。
「○○ちゃん(私)考え過ぎだよ~!この前もお父さんと会って話したけど、おかしい所なんて全然なかったよ。
自然な老化だよ。あの歳になれば、誰だって記憶力も判断力も鈍るよ。お母さんのことでショックを受けて、一時的にうつ病みたいになってるだけだと思うよ。病気なんかじゃないって!」

いつか誰かからそう言われることは、手紙を出す時点で覚悟していた。
親切心からの言葉なので、有り難いと思い、反論はしない。

私「・・そうだね・・。そうだといいね・・」
「お父さんを責めちゃダメだよ!自信を持たせてあげて!愚痴を言わない人だから、口には全然出さないけど、お母さんのことで相当参ってるはずだから」
・・・自信・・。そうだ。父は、自信を失っている。どんなに辛いだろう・・・。

バランスの取れた食事をしないと本当に健康を損ねるからと、市の外れにある有料老人ホームを勧められる。健康な人用のアパート型施設の隣に特別養護老人ホームがあるので、夫婦で入居すればいいという。いつか父も一人暮らしができなくなったら、優先的に特養に入所でき、将来は、夫婦2人で同じ施設に暮らせるという。
入居時に払う保証金250万円は、退去時には戻るし、家賃も普通のアパート並み。3度の食事(合計1260円)だけが用意されるそうだ。
有料老人ホームといえば「入居時に何千万円」と思っていた私には、驚く値段だった。
情報をくれた○○ちゃんに感謝し「一度見に行ってみるね」と電話を切った。

しかし問題は、それ程単純ではない。
まず父は、健康ではない。認知症だ。一人暮らしは危なっかしい。かと言って特養に入れる程の介護度(通常は、要介護4~5。5は、コミュニケーションが取れない程重度の認知症。母は4。)には遠い。体は健康そのものだ。
特別養護老人ホームは、通常どこも何百人待ち(緊急度によって優先順番は上がる。)で、自宅介護が困難な人ですら中々入所できない。
市の外れでは、妹が(そして私も兄も)頻繁に通えない。

兄に関しては、帰省直前に妹から良い知らせが来ていた。
妹が、兄の通所施設の施設長と話しをしてくれた。
「○○さん(兄)は、もう何十年もここに通っている訳ですし、今更、全く違う所に行って、そこに適応できるかと言えば、そんなことは無理です。それは私たちもよくわかっています。
今もご両親が病気になって、○○(町名)からここまでバスで通って来ている人が一人います。○○さんもここに通い続けられる所にある施設に最優先で入ってもらうつもりでいます。どこにも入れずに何年も待つだなんてことは、ありませんよ。
しかしここに通っている人たちの親が、日に日に高齢化していることも事実です。誰もが、いつどうなるかわからない状態なんですよ。そこは、是非ご理解下さい」

9月3回目の帰省2日目(3)主治医は誰に? レビーという病気

グループホームの職員との間には、この日、ある誤解が発覚した。

母は、リハビリを始めるにあたって、意見書を書いてもらうために、明日、近所の内科にかかることになっていた。
グループホームの入所者は、皆、その内科医を主治医としているという。熱を出したり、何か緊急なことがあれば、いつでも職員がそこへ連れて行ってくれるという話は、妹から聞いていた。だから母もとにかく一度診てもらって、何かあった時に備えるのだと理解していた。
帰省前、妹から確認のメールがあった。母の内科受診(初診)は、職員が連れて行ってくれるが、私自身が連れて行きたいかと。私は、他のことに時間を使いたいので、内科受診は、職員に任せたいと返信した。

「明日行く○○内科を、認知症も含めて、全ての病気の主治医にするということでいいんですよね?」
職員のチーフに念を押されて耳を疑った。
「レビー小体型認知症については、明後日、市内の○○医院にかかるように予約をしてあるんですが・・」
それは、既に伝えてあるはずだった。

施設長が出て来て説明する。もし近所の○○内科をレビーも含めた全ての病気(母は他に甲状腺と肝臓が悪い。)の主治医にしないのであれば、緊急時に職員が病院に連れて行くことはできないので、毎回家族に来てもらうか、救急車を呼ぶことになる。
母が気に入ったリハビリの専門家も近所の○○内科との関係で来てもらうので、医師を変えるならリハビリの専門家もその医師を通して手配するように。
思ってもみない展開に愕然とした。

母の新しい主治医は、私と妹で既に選んであった。これ以上、父の危険な運転で高速道路を使って名古屋の病院まで行くことは断念した。
病院は、妹とネットで調べた。内科、認知症、パーキンソン病などを専門とする市内の個人病院だ。
患者とその家族を幸せにする医療を目指しているとホームページには長文で書かれ、人間味を感じさせられる。
私が1ヶ月程前に病院に電話をして「レビー小体型認知症ですが、診て頂けますか?」と医師に確認した。「大丈夫です。診られます。連れて来て下さい」と言われ、両親の予約を入れた。
帰省前には、その医師宛に速達で手紙を出した。母の病状、名古屋まで通院したこと、そこで処方された薬、名古屋まで行けなくなった理由などを書き、母への薬の処方を考えて頂きたいと書いた。
(ピック病の父に関しては、今までの経過を書き、運転を止めるように言って欲しいと書いた。)
両親の受診の前日となる明後日には、私が一人で行って、事前に医師とじっくり話し合うつもりでいた。

レビーを普通の内科医が診られるとは思わない。市立の総合病院ですら診られなかったのだ。(5月までパーキンソンとして治療されていた。)
けれども熱を出したりする度に、妹が、駆けつけて病院まで運ぶということも非現実的だ。
施設長からは、今、ここで決断するよう迫られた。頭が爆発しそうになる。

「では、○○内科に全てをお任せします」とは、どうしても言えなかった。
「○○内科を主治医にするという方向で、明日の母の初診に私も付き添って、医師と話がしたい」と伝え、受け入れられた。
レビーを診られるのなら、任せるし、診られないのなら、任せる訳にはいかない。その時に、緊急時の対応も考えようと思った。

職員は、私の不安と不信感を和らげようと「大丈夫ですよ。ここの方は、皆、その先生に認知症も見て頂いているんですから」と言ってくれる。

「認知症」と十把一絡げに言うが、認知症を起こす病気は、とても沢山ある。中でもレビー小体型認知症は、診断も難しければ、治療も難しい。介護もアルツハイマーより困難とされている。(余談だが、それよりさらに介護困難と言われているのが、父のピック病だ。)
レビーの「薬に対して過敏に反応する」という特徴(もう1つあるが、ここでは省略。)が、治療を困難にする。総合病院で幻覚(幻視)を減らすためと処方されたリスパダールで、母は、突然歩行困難になった。そんな失敗は2度としたくない。

妹は、母のために多くの施設(グループホーム、特別養護老人ホーム)を訪ねて見学や申し込みをしたが、レビー小体型認知症という病名を知らない施設職員は珍しくなかったという。症状を説明すると誰もが「ああ、入所者にそういう人いますよ!そういう病名があったんですか?!」と言ったという。
都市部ではありえないことかも知れないが、この地方都市では、それが現状だ。

9月3回目の帰省2日目(2)サルのぬいぐるみ 父の苦しみ

母の秋冬物の服(全てに記名。)安全カミソリ(母のひげが伸びていた。)毛抜き(眉毛も乱れていた。)と買い物先で見つけた可愛いサルのぬいぐるみを持って、ショートステイから戻った兄と父と3人で母を訪ねた。

母の調子は悪く、暗い顔でトンチンカンなことを言い続けている。
兄は、膝を怪我して歩けない、父は、事故にあって大けがをして入院したと、本人を目の前にしながら言う。
私「お母さん、見てよ。2人共こんなに元気じゃない。どこもけがなんてしてないじゃない」
母「あぁ、良かった!本当に心配で心配でどうかなるかと思ったよ!」
しかし数分もしない内に、また父も兄もけがをしていると言い始める。

私が、職員に母の様子を訊ねている間に、父が消えた。
しばらくすると特大の湿布の箱3つを買って戻って来る。
父「お母さんが、腰が痛いって言うんだ」
私と職員「・・あるのに・・・」
湿布は、腰椎圧迫骨折入院の時、もらったものが大量にあり、父と一緒にグループホームに持って行ってあった。
毎度のことだが、職員は、困っていた。「置き場所だってないですよね?」と訊くと悲しい顔でうなずくので、そのまま隠して持って帰ることにした。

母は、最初、サルのぬいぐるみに何の興味も示さなかった。
私は、腹話術を真似てサルを使って母に話しかけてみた。
母は、少し柔らかい表情を見せ、返事をした。
猿「ボク、淋しいの。ここにずーっと一緒に居てもいい?いつも一緒に居てもいい?可愛がってくれる?」
母「お前なんか、その辺に座ってればいいよ」
猿「きびしいな~!ボク、泣いちゃうよ~!ウェ~ン!!」
母は、微かに笑った。

しかしすぐに母は、嫉妬妄想を口にし、また険しい顔をする。
母「夜、起きると、お父さん、隣に居ないんだもん。すぐ居なくなる。どこに行ってるの?」
(母は、夜、眠らない。自宅介護の時も、入所してからもずっとだ。)
猿「これからは、ボクがお母さんの隣で眠るよ。いつだってお母さんのそばに居るよ。い~い?」
猿「お母さん、ボクに名前付けてくれるかなぁ?ステキな名前がいいなぁ!」
母「・・・ツンツン?・・変?・・いい。また考えとく」

たくさんサルと話した後、母は、初めて自分からサルを抱きしめた。
「この温もりがいいねぇ」
それから私を見て無表情に、抑揚のない声で言った。
「この子(私)は、親切だね・・」
「お前の子だもの!親切に決まってるだろ!」
終始ほとんど黙っていた父が、大きな声で言った。
母の調子が悪い時、母との会話は、とても難しくなる。母は、妄想の世界に閉じこもり、心配や非難を繰り返し、どんな説明も説得も効果がない。そんな中でサルは、私を随分助けてくれた。サルが、少しでも母の慰めになること、母の孤独を癒すことを心から祈っていた。

帰る時、私は、湿布を隠し持ったが、父は、車の中で見つけてしまった。
私は、なるべく何でもないことのようにサラリと言った。
「まだ(施設に)残ってるから、なくなった時、また持って来て下さいって」
怒るだろうと思ったのに、父は、虚ろな顔で黙って湿布を見つめていた。
父のそんな顔は見たことがなく、私は、胸を締め付けられた。

父は、何度も何度も同じ思いをしているのだろう。
母のために良かれと思って一生懸命することの全てを職員にも妹にも私にもことごとく否定され、なぜ否定されるのかも理解できず、一人で苦しみ続けているのだろう。誰にも何も言わずに・・・。
母ならば抱きしめるという方法がある。けれども父に対しては、抱きしめることもできず、手を握ることもできず、まして言葉をかけることもできず、私は、ただ無力感を感じながら父を見つめていた・・・。

images.jpeg

<母にあげたのは、これに似た、でももう少し可愛いサルです。>
プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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