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運転を止めさせる条件 リハビリに伴う危険を父が理解 28日から帰省

車の運転を止めさせるに関して書き忘れた大切なことを書きます。
(コメントには、既にクリさんから書き込んで頂いたのですが・・)

運転を止めさせる前に、車を運転しなくても困らない状況を周囲が作るということです。
誰かが必要な時にいつでも代わりに運転してあげる・・・。
しかしこれが、難しい!
同居の専業主婦(家に居ることが多いという条件付き)が居れば可能かもしれませんが、父の場合は、タクシー以外、何かあるでしょうか?
基本的に倹約家(病気のために浪費家にもなっていますが)の父は、タクシーなど絶対に使わないと思います。
ヘルパーさんの運転代行?(ありますか?)10人位のボランティア運転手を集めて、必要な時に誰か一人に来てもらうとか?これもメールを一斉送信することができない父には、無理。他に手は・・?
ひとまずタクシーを利用するよう、膨大な時間をかけて説得していくしかないのでしょう。

今朝、父と電話で話し、リハビリに伴う骨折の危険性について初めてしっかり聞いてくれました。
今まで、その話をしようとするだけで「俺が付いていれば骨折なんて絶対しない!」と怒って電話を切ってしまっていたんです。
「歩こうという意欲が高まれば、一人で勝手に立って歩こうとするよ。必ず転んで骨折するよ。それでもリハビリをしていいんですね?って念を押されているんだよ」
父はしばらく絶句していましたが「じゃあ、どうすりゃいいんだ?!」
「歩くことは意識させずに、今ある”人に支えられて立てる力”を保てるだけのリハビリをすればいいと思うよ」
「じゃ、お母さんは、歩けないのか?可哀想じゃないか!・・・まぁ、いい。また考えておく」と電話はいつものように一方的に切られました。
しかし父と久しぶりにかみ合った会話ができた気がします。

明日28日(午後)から10月2日まで帰省します。ついに今月3度目の帰省ですね。
今回は父との話し合いが中心になると思います。




試しに始めてみました。ランキングというのは、ちょっと抵抗があるのですが
これをクリックして頂けるとどの記事に訪問の方が多いか等が分かるようです。
今後書く記事の参考にしたいと思っています。
クリック、どうぞよろしくお願いします。
しば


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グループホームでの歩けない母のリハビリ

実家から自宅に戻った翌日、父から電話があった。
「お母さんが”(リハビリの)マッサージ、いつから始まるの?”って何度も訊くぞ!早くやってもらうように言ってくれ!ぐずぐず言って始めないようなら、俺が、自分でマッサージ師を雇ってやってもらう!」

帰省時に施設長と面談した時には、「リハビリは検討中」との回答。待つしかないと思った。
それでも放っておいたら父がまた何を始めるかわからないと思い、グループホームにファックスを送った。2日後に電話で相談したいと書いた。かなり遠慮がちに書いたつもりだが、それでも嫌がられるだろう。

2日後、施設長と電話で話した。
「健康保険を使う訪問リハビリは、医師の意見書が必要で、名古屋の医師の意見書が○○市で使えるのかどうかは、調べてみないとわからない。体調変化があった時、職員がすぐ連れて行けるように、かかりつけの内科医は市内に変えて欲しい。
リハビリをするスタッフは、認知症に対応できるベテランでなければならず、施設としては、慣れた○○院にお願いしたい。個人が実費で雇うのは構わないが、1回1万円以上と高額になる」などの説明を受ける。
意見書は、市内の整形外科でももらえるそうなので、妹に頼む。

その日に父から電話。嬉しくてたまらない声。
「お母さん、今日、歩行器が欲しいって言うから、買って持って行ってやったら凄く喜んでなぁ!一緒に歩く訓練をしたら10歩位歩けたぞ!お母さん、歩けるぞ!これから毎日俺が訓練してやるんだ!」
施設の許可は取ったのか、施設のスタッフと一緒にやったのか確認すると、どうも一応はそうした様子。
(父の状況説明は、ここ数ヶ月、どんどんわかりにくくなっている。)
マッサージのことは、既に完全に父の頭から抜けていたが、後で「聞いてない」と施設長と喧嘩をしては困るので説明する。理解したのか、しないのか、よくわからないが、話し終わらない内に「あぁ、あぁ、とにかくやってもらってくれ!」

妹の話では、歩行器は、母の体とサイズが合っていない。父の歩行訓練は、父が母を後ろから抱きかかえて無理矢理歩かせるもので、スタッフも止めるに止められず、とにかく苦笑しながら見守っていたという。
母のために懸命になればなるほど、傍目には、滑稽になってしまうピック病という病気を恨み、父を哀れに思う。

昨日、施設御用達の○○院からリハビリの専門家が来て、母を診た。
固まった膝を伸ばすマッサージから始めて、徐々に筋肉を付けて行こうと母と妹に話した。
「歩行訓練は、絶対に止めて下さい。そんな段階ではありませんし、とにかく危険です」
「リハビリを始めると本人の意欲も高まり、勝手に立とうとする可能性がとても高くなります。そうなれば転倒骨折します。リハビリを止めれば、みるみる内に立てなくなり、転倒骨折の危険もなくなります。そういう方法で骨折を防ぐ家族もいます。それでもリハビリを希望されるんですね?」
「はい」と妹が答える。父も母もそれを強く望んでいるから・・。

○○院の専門家(名刺の肩書きは、針灸・マッサージ師、健康運動指導師、看護師、介護支援専門委員、介護予防運動指導員)は、非常に感じの良い人で、母は、すっかりファンになったようだ。リハビリの始まりを心待ちにしている。妹は、来週仕事を休んで医師の意見書をもらいに行くという。(リハビリの費用は週2回で月5千円程度になるそうだ。)

骨折はして欲しくない。(症状を劇的に悪化させ寿命を縮めるだろう。)施設のスタッフに迷惑もかけたくない。けれども両親の強い想いも汲みたい。両親に生きる喜びを持ち続けて欲しい。
・・矛盾している。私は、相反することの両方を望んでいる・・。

運転をやめさせる(その2)

色々な方々からコメント、メールを頂き、本当にありがとうございます。
親身になって考えて下さり、とてもとても心強く思います。
他の方の参考にもなると思いますので、それについて書いてみます。

<鍵を隠す、車を隠す、車を処分する>

これは、自分自身がそうされた時の場合とほとんど同じと考えて良いと思います。
(ただピック病の場合は、普通より激怒し、思いもよらない行動に出る可能性は大きいです。)
もし私が、そうされたら警察に届けるなり、新しく車を買うなりするでしょう。
父もそうすると思います。運転を止めなければならない理由がわからないのです。
自分から車を奪った犯人が、娘とわかれば、恨みや不信感は決して消えないと思います。
(「ためしてガッテン」でも認知症の方は、恨みの気持ちだけは、ずっと忘れずに残ると言っていました。)
 
<免許更新時の認知症検査で気付いてもらう>

免許更新時、「講習予備調査」という認知症のチェック(スクリーニング)があるそうです。内容を調べてみると以下の3つでした。

1。時間の見当識(年月日、曜日及び時間を回答)
2。手がかり再生(一定のイラストを記憶し、採点には関係しない課題を行った後、記憶しているイラストをヒントなしに回答し、さらにヒントをもとに回答)
3。時計描画(時計の文字盤を描き、その文字盤に指定された時刻を表す針を描く)

これができなくても免許更新はできるそうですが、免許更新の前後に交通違反があれば、医師の診断を求められ、認知症とわかると免許が取り消されるということです。

しかしピック病(アルツハイマーとは全く違うタイプの認知症)の父は、おそらくこの3つのテストをクリアーします。9月に受けた長谷川式のテストは28点。私が実施した時計描画テストも完璧にこなしました。
テストをピック病にも対応する形(言語機能検査など)に改良して欲しいと切に願います。

<人身事故の恐ろしさを説き続ける>

これもずっと続けていますが、「うるさい!保険は最高のものに入ってる!心配ない!」で終わりです。


今日、妹と電話で話した時、父が、人に免許証の裏を見せて「これが無事故無違反の証拠だ」と言ったそうです。
父は、事故や違反は、免許証の裏に書かれると言うのです。妹が否定しても「絶対にそうだ!」と言い張ったようです。
その時、やっと父の免許更新が1年後の11月だとわかりました。帰省時に何度も免許証を見せてと言ったのですが、決して見せてくれませんでした。(父は、様々なものごとを私にも妹にも隠そうとします。)
父は、この数年内に何度か事故を起こしているはずです。少なくとも孫(私の子ども)には、バイクで事故を起こしたと話したことがあります。「100%相手が悪かった」と言っていたようです。
ピック病は、交通事故を起こしても相手が悪いと思い、全く反省しない、非を認めずけろりとしているという症状があるようです。

警察で事情を話して、父の過去の交通事故について調べ(個人情報と言って教えてくれないのかも知れませんが)その事実を突きつけて話をしようかと、今日は、考えていました。

それにしても、父に運転を止めさせるということは、仕事も辞めさせることであり、生活の足を奪う(地方では車は必需品)ことであり、父から生き甲斐を根こそぎ奪い取ることは、確実です。
止めさせようと必死で動いていますが、それは、父を廃人にすることを意味しているのだと思っています。
そうならないように手を尽くさなければいけないのですが、元々協調性がなく集団行動が嫌いな父が、デイサービスに行くことは、考えられません。ピック病は、性格が激変するといいますが、良い方方向に変わる可能性は全くないのでしょうか・・?

父の車の運転を止めさせる

今、一番緊急性が高いのは、父の運転を止めさせることだ。
帰省してから毎日電話で父と話している。まず父と母の様子を訊き、それから運転の話を始める。
「俺は、いつだって安全運転だ!無事故無違反の実績がある!お前は何を言ってるんだ!」
父の危険な運転の実例を1つ1つあげる。けれど父はその事実を必ず否定する。
「俺はそんなことは、一度もしてない!」

夫は、危険運転したその瞬間に言わなければダメだろう言う。私は、毎日何度も言っていた。
帰省中、父は、必ず自分で運転しようとするので、私は、いつも助手席に居た。
「お父さん!今、後ろも見ずに、いきなり車線変えたよ!」
「何を言ってるんだ?!ちゃんと見た!うるさい!」
「お父さん、この四つ角は、スピード落とさないと危ないよ!」
「こっちが優先道路だ!向こうが止まるんだ!お前は、何を言ってるんだ?!」
確かに優先の道路だが、いつもそこで徐行して安全確認をしていた父を私は覚えている。
父には、何をどう言おうと通じない。完全に否定し、自己正当化するだけだ。

アドバイスを受けて、実家の○○市の運転免許センターに電話をした。
県警のホームページの中に「運転適性相談(病気)の相談窓口」として紹介されていた。
医師の診断書を持って、本人と免許センターか警察署に行けば、すぐに免許を取り消すことができると言われる。
父を免許取り消しのために連れて行くことなど不可能だ。
万が一、免許を取り消せたとしても、今度は無免許で運転するだろう。
父の車の助手席に乗って、街を試験運転し、「これだけ危険なので、免許は返上して下さい」と通告するようなシステムはないかと訊ねる。そんなものはないと言われる。

何度もお世話になっている保健所の○○さん(保健師)に電話で相談をする。
同じ相談は、今まで何度も受けているが、成功例は、ほとんどないのだと言われる。
軽い事故で車がへこんだのを機に、家族が車を廃車にしてしまい、運転を諦めた例が1つだけあると言われる。

父の診断を受けた時も、私は、医師にどうしたら運転を止めさせられるかと訊いた。
「家族が車を売り払ってしまったら、その日の内に新車を買って来た患者が、実際にいました。ピック病の患者に運転を止めさせることは、困難です」と言われた。

保健師「今は、人権が守られていますから、運転にしても成年後見人にしても、本人の承諾なしに家族が勝手にすることはできないんです。唯一できるとしたら、事故を起こすのを待って、本人が運転に不安を感じた瞬間をとらえて、その日の内に免許取り消しの手続きと車の処分を同時にすることくらいでしょうか・・・。無責任な方法になってしまいますが・・。本当に、ピック病の方の場合、ものすごく難しいんです」

この状況の困難さを理解してくれるだけで有り難い。
ほとんどの人は、ピック病という名前すら知らない。
妹から父が認知症と聞いた親戚の一人は「早く運転を止めさせなきゃダメじゃないの!」と言ったという。
確かに父が事故を起こしても、病気の父に責任能力はない。
責任は、すべて家族、私と妹にあるのだ。

9月2回目の帰省4日目(後半)母の見送り 素直な父

レストランを出て駐車場へ。
妹の車は、座席の位置が高く、母を車椅子から座席に移すのに一苦労する。
この日の母は、支えても立っていられないほどで、私と父が、必死で支えるが、中々座席まで上れない。
運転席から母を引っ張ろうとしている妹は
「さっき職員の人がやった時はすんなりできたのに。お父さん、○○ちゃん(私)、介助、下手過ぎっ!(笑)」
4人でまた笑いながら、なんとか母を車に乗せた。

帰りの車の中でも話が弾む。父はニコニコしながら黙って聞いている。
母「このままずーっと暗くなるまで(車で)走っていようね」
妹「夜、帰りたいの?」
母「だってこんなに楽しい時間が終わっちゃうのは、もったいないもん」
妹「でも○○ちゃん(私)、電車の時間があるから駅まで送らないといけないの」
駅で3人に見送られる。
母を抱きしめ、頬ずりをし、目を合わせて言った。
「またすぐ来るよ。笑顔のお母さんでいてね」
「わかったよ。泣かないよ。あんたも泣いちゃいけないよ」
「お母さんと別れるなんて~泣けちゃうよ~!!」(大げさに泣き真似をしながら言った。)
母は、おかしそうに笑ってから、手を振った。
「ありがとう」と心を込めて父が言い、妹が言った。「頼むね」と妹に言った。

今回の帰省中に解決しようと思っていた問題(父の運転と仕事とお金の管理をやめさせること)は、何1つ解決できなかった。1ヶ月後、半年後、1年後・・それどころか、明日、父に何が起こるのかすらわからない。
今まで以上に大きな問題を抱えて帰路についた。

帰宅して間もなく、グループホームから電話があった。母が不穏(精神的不安定の激しいもの)になっているので言葉をかけて欲しいという電話だった。
その後、妹からも電話。
母は、泣きも怒りもせず、落ち着いてグループホームに帰ったという。(とても珍しいことだ。)
父と2人で実家に戻ってからも、父は、ずっととても機嫌が良かった。
今なら怒鳴らずに話を聞いてくれるかも知れないと妹は、考えた。
「一緒に保険証券を探してみようか?金庫に入れたはずだけど・・」と恐る恐る言ってみると、父は、素直に妹の前で金庫を開けたという。(妹も随分驚いていた。)

「そんなものは、ない!」と営業担当者に怒鳴っていた保険証券は、金庫から出て来た。届け出印は、なかった。
妹が、探していた兄の医療保険の保険証券も引き出しから出て来た。8月に父が整理できなかった郵便物の束から私がいくつも抜き出し「全部重要書類だから、金庫に入れておいてね」と父に言って、入れたものだ。
兄が、薬の飲み過ぎで倒れ、最初は、歯と入れ歯を、2度目は鼻の骨を折った医療費を請求しなければいけない。しかし、それもてんかん発作なら適応されないということで、妹は、やはり兄を脳波の検査に連れて行かなければいけないようだ。

腰椎圧迫骨折で入院中、母を見舞ってお見舞い金をくれた人達(26人。半分は親戚)へのお礼も父が「俺がやるからいい!」と言ってそのまま放置されていた。妹が、代わってすることに父が同意した。
「住所録はどこ?」と訊いても父は「知らん!お母さんにしかわからん!」としか答えない。
先月からずっと探しているが、住所録は、ついに出て来なかった。親戚の住所録は、伯母の所のお嫁さんが用意してくれることになった。私にも送ってもらい、私は、全員に手紙を書くつもりだ。
まだほとんどの人は、母が、グループホームに入ったことすら知らないはずだ。母を訪ねてもらいたい。
父の病気についても説明して理解と協力を得ないといけない。
一人一人協力者を増やしていこう。一歩一歩進んで行こう。それしかないのだから。

9月2度目の帰省4日目(前半)ピック病への疑問 幸せなランチ

夕べは、私も母の主治医(河野和彦氏)が書いた本3冊を読む。父が病院で買った自伝的な本は、ほとんど読んでいなかったが、巻末にコウノメソッド(認知症薬物療法マニュアル。ネットでも公開している。)全文を見つける。
夜、悪夢を見て叫ぶ場合は、アリセプト(認知症の治療薬)を当面中止するようにと書いてある。主治医は、介護者(家族や施設職員)が患者を観察しながら薬の量を調整する事を勧めている。母が悪夢を見るかどうかはわからないが、男に襲われるという妄想はあり、一晩中よく叫んでいると職員から聞いていた。
なぜもっと早く読み返さなかったのかと悔やむ。グループホーム宛に手紙を書き、本のコピーをとった。

朝、妹が、実家に来て、多くの連絡事項を伝え合う。これからやらなければいけない多くの仕事を分担する。
妹は、父の症状は、生まれつきのものが老化で強まっただけではないかと言う。CTの結果も生まれつきそういう傾向があったのではないかと。
私も悩んでいる。私にもわからない。ただ私は、直感で父が変わったと感じる。父は、元々変わった人ではあったが、異常な人ではなかった。意味のないことで激怒することもなかった。思いやりもある人で、反社会的な人ではなかった。(妹は、全て最近始まったことではないと言う。ならば数年かけて進んできたのかも知れない。)
理解できない言動も毎日ある。(後日、詳細を書く予定。)しかしそれがピック病の一言で片付けられるとも思えない。ピック病に関する情報も少な過ぎる。

11時、グループホームに3人で母を迎えに行く。(兄はショートステイ中)
(「私の車で行くからね!」という妹の言葉に、父は、不思議と黙って従った。行き先がわからないからか?)
職員にコピーした資料と手紙を渡し、簡単に説明するが、笑顔で言われる。
「夕べはちゃんと寝ましたよ。毎晩叫んでいる訳ではないですし・・。そんなに心配しないで下さい」
母が、夜、寝たという話を初めて聞いた。

母は昨日のように穏やかな顔をしていた。頭もしっかりしている。良かった。
母は、職員や他の入所者に微かな笑顔で手を振っている。
「こんな風にご飯(外食)に連れ出してもらえる人なんか他にはいないから、みんな”いいねぇ!”って言うよ」
車は妹が運転し、私は、母に、ずっと声を掛け続けた。母は、比較的しっかり受け答えする。

妹がネットで調べてくれたバリアフリー(車椅子で行ける。)のフランス料理店に行く。
母は和食より洋食が好きだが、父が洋食嫌いなので、そんなレストランには行ったことがないと思う。
コース料理を頼む。母は「ステーキが食べたい」と言うので、コース料理の内容を特注で変えてもらった。
母は、きれいに彩(いろど)られた一品が来るごとに目を丸くしている。
黙々と全部平らげて行く。(母は、食べることと話すことの両方を一緒にはできなくなっている。)
父は、黙って、それをとても嬉しそうに見つめている。
4人で40年近く前の家族旅行の話で盛り上がる。父も母も驚く程細かいことまで覚えていて、楽しそうに饒舌に話した。
旅行が生き甲斐の1つだった母も話している間にどんどん笑顔が出てきた。昔の母の笑顔だ。私は、全ての哀しみも疲れも消えて行く気がする。

旅行の話を終え、今度は、母の(病前の)明るい思いやりの深い性格を持ち上げていると母が言う。
母「お父さんだって褒めてあげて」
私「う~ん。お父さんの良い所を見つけるのは、ちょっと難しいかも(笑)」(父を見ながらおどけた。)
妹「支払いは、お父さんだものね~!お父さ~ん、ご馳走さま~!」
父も母も皆で笑った。病気なんてなかった昔のように・・。
私「○○(妹)のお陰で、こんな美味しいお店に来られて良かったね、お母さん!」
母「ほんとだよ。今まで行ったレストランの中で一番美味しかったよ。○○(妹)、ありがとうね!」
皆、それぞれに幸せな気持ちでレストランを出た。

最高に調子が良い母、にこやかな父・・・。
こんな和やかな食事ができるのは、あと何回もないのだろう。これが一生心に残る宝物のような思い出になるのだろうと考えている自分がいた。

9月2回目の帰省3日目(後半)父の自覚 穏やかな母 病院

実家の隣の○○さん(両親共親しい付き合いがある。)の所に診断結果を伝えに行く。
「今朝、お父さん来たよ!最初はお母さんの調子が悪いって話だったんだけど、”○○さんだから言うけど、認知症って診断されてね。自分では全くそうは思わないんだけど、それが症状だって言うんだよ。娘らも揃っておかしいって言うしね。今後、もし私が何か変なことをしたら遠慮なく言ってくれる?”って、自分で言ったよ」
「興奮したり、怒ったりしてませんでしたか?」
「ううん。全然。落ち着いてたよ。だから私も言ったの。”そんなのお互い様じゃない。私の時も言ってよね”って。ほんと、人事じゃないよ」
心底驚いた。父には、まだ冷静な判断力が残っている。光を見い出す。

兄が10月から毎週金曜に帰宅するので、家に入れなかった時は、保護してもらうようにも頼んだ。(玄関に細工をしないと兄は玄関を開けられないが、父は、最近、よくその細工をすることを忘れて仕事に出掛けてしまう。)

父と母の所へ行く。穏やかな顔をして他の入所者と話していた。
母「今日は、もう来ないのかと思ってた~」
頭もしっかりしている。1時間程話すが、1度も泣かず、怒らず、何回か笑顔すら見せてくれる。言うことの半分はおかしいが、半分は正常だ。(職員に訊くと、やはり夜は眠らないという。)
母「明日、帰るんだよね?みんなでご飯食べに行こうか?」(帰る日を母は、正確に覚えていた。)
私「いいねぇ!お母さん、何食べたい?」
父「○○は安くていいぞ。○○も安いぞ」
私「せっかくお母さんと行くんだから美味しい所に行こうよ」
妹に電話すると「ネットで調べておくね」と言う。母は和食より洋食が好きだ。
何の問題もなく穏やかに別れた。いつも通り、私は、頬ずりをし抱きしめた。父は、両頬に音を立ててキスをした。
帰り道、父は「いつも今日くらい落ち着いていてくれたらなぁ!」と何度も言った。

この日は、一日中、市内のある病院(神経内科と内科を併設)に母と行こうと繰り返し父を誘った。
父は、名古屋の病院に固執し、初めは、聞く耳を持たなかった。
しかし父の運転で名古屋まで行くのは、危険過ぎる。本人は、自分が運転すると言ってきかない。
妹は、父の運転で名古屋に行くのは2度と嫌だ、何が何でも病院を変えるように父を説得してくれと、帰省前から言ってきていた。
私には、迷いがあった。正しい処方に行き着くには、時間がかかると思っていた。けれども帰省前に市内にあるその病院に電話し、レビーが治療できること等を医師に直接確認し、両親の予約を入れた。
母には、甲状腺と肝臓の持病があり、父も健康診断で前立腺の経過観察が必要と言われた。毎回2人を連れて行き続ける妹の負担を考えると内科を併設しているその病院が一番良さそうに思えた。
丸一日かかって、やっと父は、母をその病院に一度連れて行ってみてもいいと言うようになり、”ついでに自分も診てもらう”ことにも同意した。

しかし車の運転に関しては、何度、何をどう言おうと怒るのみだ。人をはねたらと思うと頭がおかしくなりそうになるが、強制的に入院でもさせる以外、運転を止める方法はないのではないかと思った。

保険の解約の件も「お父さん、解約したいって言ってたよね。保険証券さえあれば」と言った途端、激怒する。この瞬間、父は、金庫が開けられなくなったのだ・・と思った。

椅子の上に放置されているあまりにも汚いズボン(毎日はいている。)を洗おうとして、ポケットの中の財布を出すと、分厚い札束(全て万札)が入っている。銀行の封筒も入っていて、その中にも札束がある。合わせて百万位はある。
「・・・これ・・何・・?!」
やはり父は、激怒する。狂ったように怒鳴り散らす。使い道は、わかりようがない。

夜、妹と電話で話す。
妹「お父さん、ガードレールにぶつかってくれないかな~。事故起こしたら運転止めるって言ったよね?」
私「反省しないのがピック病だから、”こんな所にガードレールなんか作った奴は、どいつだ~!”って役所に怒鳴り込むんじゃない?」
2人で笑う。笑わなければやっていけない。

夫からも父の携帯に電話があった。私は入浴中だったので、「今、シャンプーしてるから後でかけ直す」と言ったが、父は、「早く出ろ!電話だ!」と風呂の戸を10センチ程開けて携帯電話をぬっと差し出した。異常だ。
後で夫に電話する。夫は、心配はしてくれているものの、父の病気を信じられない。
「電話で話しても、お父さん、全く正常だったよ。全然おかしくないよ。あなたが勝手に病気だと決めつけてるだけなんじゃないの?」

9月2回目の帰省3日目(前半)介護認定調査員来る

初期のピック病に記憶障害はほとんどないという。今も毎日ある父の異常な物忘れは、医師の言う「考える気がない」ためなのか?万引きや徘徊や浪費が始まったらどう対処すればいいのか?ヘルパーも宅配弁当も拒否する父をどうやって支えていけばいいのか?
『今は、もう何も考えずに眠ろう』と思っても無理だった。

朝、父が、落ち着いていて機嫌も良いようなので、反応を見ながら訊いてみた。
「お父さん、時計描いてみてくれる?」(時計描画テスト。アルツハイマーなどを早期に発見できる。)
「そんなものは、簡単だぁ。まず、丸を描くだろ。次に数字だろ。12、3、6、9を書いてから・・」
父は、名古屋の病院で母が受けたこのテストを知っている。
「10時10分って描ける?」父は、正確に描く。
「だから言ってるだろ。俺には何の異常もないって」
私には理解が出来ない。帰宅してから調べなければと思う。(実家にPCはない。)

朝9時、介護保険申請のための調査員が来る。駐車場ででピック病と診断されたことを伝え、症状を書いたメモを渡す。
調査員は、父の身体状況を詳しく調べるが、父の体には、もちろん何の異常もない。
3つの物を覚えさせて5分後に言わせるという認知機能のテストも完璧に答える。
認知症に関する質問項目は、本人に訊くと怒り出すと判断されて、父にはせず、後で私が、電話を受けて答えた。
父は、素直に調査に従いながらも「あの医者は、私に言わせれば、医者失格だね」などと診断を否定する言葉が止まらない。饒舌過ぎる。同じ話を何度も繰り返す。私は、何度も父の話をさえぎり、辛抱強く待っている調査員に次の検査項目に進めるよう促した。
「本当は、”院長出せ~!”って、あの医者と大喧嘩してやろうと思ってたんだけど、何せ3人(娘2人と伯母)も居たからねぇ。しょうがないから我慢して黙ってやってたよ」

「他のピック病の患者と比べてどうですか?同じですか?違いますか?」父のいない駐車場で調査員に訊く。
「・・ちょっと違います。・・ピックはひどいです」調査員は、後で電話をすると言って帰って行った。

伯母の家にお礼と説明に行く。伯母が居たから父は大人しくしていたのだと伝える。ピック病について説明する。
「元々短気で変わった人だったからねぇ。どこまでが生まれつきで、どこからが病気なのか、その線引きがわからないねぇ。本当に病気なのかと思っちゃうよ。車の運転が危なくなったのは、見てて知ってるけど・・」
駐車場から出る時、安全確認をせずに(車が来ているのに)、反対車線に出て方向転換をすると言う。

NTTの電話帳広告担当者から電話がある。既に来年度分も契約済みで近々原稿提出の期限だと言う。
そういう特殊な事情であれば、10月末までに連絡をもらえれば、掲載を取り消すことは可能だと言われる。
その時までに父は、仕事(毎日車を使う。)を辞めると言うだろうか?
父は、ミスを繰り返しながらも、生き生きと楽しそうに仕事をしている。最近、なぜか仕事が減ってきたので、電話帳の広告を改良しようと研究中だとも言っていた。

父が勝手に解約しようとしていた保険の担当者と近所のファミリーレストランで会う。
母が契約者、父と兄が被保険者になっている。この3人が全員正常な判断ができないとなると、あらゆる手続きは、限りなく面倒になるのだと知る。
母は、他に何社も保険に入っている。いくつもの証券会社と契約がある。それらの内容すらよくわからない。
母の頭の回転が遅くなった何年も前から「何がどうなっているのか全て紙に書き出しておいて」と頼み続けていたが、母は、それをしないままだった。今、保険証券や通帳すら行方不明だ。

母の以前のケアマネに電話をして現状を説明する。彼女も時々父に電話をしては「ヘルパーさんを頼むと楽だよ~。宅配弁当は、栄養バランスが取れていいよ~」などと勧めているのだが、あらゆるサービスを拒否し続けていると言う。
兄の通所施設にも電話して、父の病気の症状や現状を説明する。

何度も助けられている保健所の保健師にも電話して相談する。
「ピック病の進行は、本当に個人差が大きいんです。あまり進行しない人もいますし、急激に悪くなっていく人もいます。多くの人は、性格が激変してとても怒りっぽくなります。
お父さんもこれから病気が進んでいくに従って、日常生活に支障をきたすようになると思います。その時がチャンスです。機を逃さず、ケアマネと連携してヘルパーを入れるんです。『何だ、人にやってもらった方が、ずっと楽だ』とわかるはずです。そうすれば、お父さんもきっとヘルパーを受け入れます。
宅配弁当は、持参して行って一緒に食べてみるんです。そうして勧めれば反応も違うはずです。
ピック病は、確かに治療法はない病気ですが、精神科で対処療法をすることは多いです。何も打つ手がないなんてことはありません。大丈夫です」

tag : 介護認定

9月2回目の帰省2日目(後半)診断を否定する父 

私「8月には些細なことで激高していましたが、今回の帰省では落ち着いています。どういうことでしょうか?」
医師「症状には、波がありますから」
私「仕事や運転は続けても良いものでしょうか?」(後で考えれば愚問だ。)
医師「仕事は、出来る範囲で続けても構わないと思います。運転は・・。高速道路を逆走する人のほとんどはピック病と言われています」
退室の時になり、父と伯母が部屋を出てから
「まだ万引き(ピック病の症状)はしていないと思いますが、これからすると思われますか?」
「何とも言えませんが、可能性としては十分あります」。
最後にネットからプリントアウトしたピック病についての資料を渡された。

用意した誓約書も使えない。車の運転を止めさせる方法もお金の管理を代わる方法もない。
自分の中で何かがガラガラと崩れ落ちて行くのを感じる。このまま座り込んでしまいそうだ。

長い時間、待合室で会計を待ちながら、父は立ったまま医師が誤診をしたと言い続ける。
今度、母が、名古屋の病院に行く時、一緒に診てもらって今日の診断が誤診だったことを証明すると言う。
私は、「既に名古屋に電話をしたが、新患の予約はずっと先まで一杯で、母と一緒には診てもらえない」と説明する。(事実だ。)
「何をバカなことを!俺が言えば、あの先生ならすぐその場で診てくれるに決まってるじゃないか!」
父は、元々短気で非常識な所がある人だが、こういう発言が、やはり異常だと思う。
「まぁ、見てろ。俺が、1人で5軒の病院に行って、どの医者が一番腕がいいか、診断してやる!」

帰宅するとショートステイから兄が帰って来る。兄の顔を見て、心から安らぐ自分を感じる。

病識を持ってからと思っていたが、無理なので、明日、介護保健認定の調査員が来ることを初めて父に伝える。
思った通り、そんな必要はない、ヘルパーなど要らないと怒り出す。
父が介護認定を受ければ、母の施設を移す優先順位が上がるのだと説明する。(父は、今のグループホームが気に入らず、他の施設に移せとずっと言っている。)
「そうか?!じゃあ、重病に見えるように演技するか!」と父は、足を引きずって歩いて見せる。

夕食後、母の所へ行く。
夜は寝ず、日中は不穏(精神的に非常に不安定で興奮したりする。)だったと説明を受ける。特に豪雨が降った頃は、手がつけられない状態だったという。
母は、「みんなうそばっかりつく」などと言っては泣き続ける。言っていることのほとんどは、支離滅裂だ。

介護スタッフの責任者がいたので、再びリハビリのことを相談する。
母が立つことすらできなくなったら退所を迫られるのだと思い、気が気でなかった。
全く立つ事ができなくなっても食べられる限りは、居られるので心配しないようにと言われる。
湯船には入れなくなるのでシャワーになるが、だから退所しろと言うことはない。ただ食べられなくなった時には、ここでは対応ができないので、他に移ってもらうと説明される。
心配が1つ減った。

父は、帰宅後、ずっと認知症の本(名古屋の母の主治医が書いた本を3冊)を真剣に読み続けている。病院でもらった資料も。
読み終えた父は、「(症状が)1つも当てはまらない!」と医師を激しく非難し始める。止まらない。
確かに書かれた症状は、<万引き、浪費、異食、徘徊、粗暴>などショッキングな言葉ばかり並んでいる。

父は、精神的ダメージを受けているのだとわかる。肩を抱いて「大丈夫だよ。私が付いてるよ」と言えたら・・と思う。けれども私自身、ダメージが大きい。父が気の毒だと思いながら、何もすることができない。

父に明日(今回の帰省中に連れて行くなら明日しかない。)一緒に他の病院(市内の認知症専門の個人病院を調べ、帰省前に電話をして色々確認してあった。)に行って、違う診断をされるかどうか調べてこようか、と穏やかに促す。
「うるさい!俺が自分で選んだ病院に一人で行くからいい!お前はもうこれ以上口出しするな!」
もう何を言っても怒鳴り散らすばかりで、全く聞く耳を持たなかった。

9月2回目の帰省2日目(前半) 介護認定面接の準備 父の告知

朝、兄の通所施設に着替え一式を届け、入れ歯のことを説明し、10月から毎週金曜日に帰宅できないかとお願いする。今日出る父の診断結果も後で連絡すると伝える。

NTTに電話をし、父のことを説明し、電話帳に載せる父の仕事の広告のことで相談する。担当者はいなかったが、広告掲載をやめられるのは、来年の2月だと言われる。後で担当者から電話をもらうことになった。

明日の介護保険認定面接の調査員に電話して説明。春にも母の認定(要介護4)のために来た人だった。
症状とその頻度(毎日なのか週数回なのか)を書いたメモを用意してくれと言われる。
それがなければ父は、調査員に「私は、100%健康で、家事も仕事も完璧にこなしている。何の問題もない」と言って「非該当(介護保険を利用する必要はないと判断)」で終わりだろう。さっそく症状を書き出し始める。

春まで母の通っていた絵手紙教室の仲間からの葉書をポストに見つける。
<お元気ですか?○○さん(母)が、教室にいなくなってとっても淋しいです。>とある。
母が○○というグループホームに入ったこと、淋しがっているので、教室の皆さんが会いに行って下さったら有り難いなどと返事を書き、投函した。
本当は、母を知る全ての人に「母を訪ねてやって下さい」と手紙を書きたいとずっと思っている。

父の診断結果を聞くために病院に行く時間が迫る。目をつむり何度も深呼吸をする。
運転と仕事をやめる準備を始めること、妹を成年後見人としてお金の管理などを任せることを約束する文書(強制的ではなく、私たち姉妹が全力で父を支えるので一緒に考え協力して欲しいという内容)を作ってあり、告知の後、父にサインをしてもらう計画だ。証人として伯母にもサインをしてもらう欄も作った。

父は「俺一人で行けばいいんだな?」と訊くので、「私も暇だし、○○(妹)も仕事、休みみたいだから、一緒に行くよ。皆で行った方がいいじゃない」と言う。病気のことには一切触れない。言えば病院には行かないだろう。

外は、叩きつけるような激しい雨になってきた。私たちの未来を暗示しているようだと思う。
仕事を早退した妹も来る。妹の車で病院に向かう。
待合室に居ると疲れた顔の伯母も来てくれる。父は、特に驚きもせず不思議にも思わないようだった。

医師は、前回とは随分印象が違い、柔らかく優しい態度で脳のCTの結果から説明を始める。
(これがこの医師の本来の姿なのだろう。)
「脳の萎縮は、”年相応”よりは、若干大きいです」
父を刺激しないよう、言葉を厳選しながら、父と私たちの反応を見ながら話す。
(しばらく脳の状態についての説明や質疑応答があったが、省略する。)

長谷川式では、「30点満点中28点で問題はありません」。父は、嬉しそうにうなずいている。
「しかし、変な絵を見せて何に見えるか訊くテスト(ロールシャッハテスト)で、○○さんの現在の状況をよく示す結果が出ました。はっきり言ってしまいますと、”考えずに思うがままに行動する”という傾向です。これらの検査結果と先日の○○さんとご家族との問診の結果を総合的に判断しますと、どうもよくある病気とは、少し違う病気かと考えられます」
「ピック病ですか・・?!」
私は、無意識につぶやいていた。
認知症の中で最も介護が困難になり、施設入所さえ断られることの多い病気だ。

「ごく初期のピック病かと思われます」
問診の時、「今日が何月何日かわからない」と答えたのに、長谷川式で正確に答えているのは、忘れたのではなく、考えずに答える、考える気がないという病気の症状なのだと説明される。

父は、初め狐につままれたような顔をしていた。
「私自身は、何の異常も感じていませんし、問題も一切ありません」
「自分で病気だと自覚できないのが、この病気の特徴です」
「そんな馬鹿なことがありますか?!自分のことは自分が一番良くわかるでしょう?!私は問題なんてないですよ!」

医師が運転の危険性を指摘しても父は、100%安全だと反論する。妹も私も抑えた声で、どれだけ危険な運転をしているかを父に伝える。
「私は、4年間無事故無違反ですよ!ちゃんと実績がある!十分注意もしている!」
何年か前、運転免許センターで反射能力の検査をしたら20代だと言われたという、いつもの自慢話も始める。
医師「今までのことではなく、これからのことを話しています。ガードレールにぶつかる位ならいいですが、人をひく可能性もあります。だからと言って、私に、運転を止めろとか止めるなという権利はありません。ただ危険性だけは、十分心に留めておいて下さい」

全く納得しない父は、「自分は全く正常だ」と同じ話を延々と繰り返す。
「この病気は、自分が病気であることを自覚できません。これ以上続けても押し問答になるだけですから」
「もし私が病気だと言うなら、3ヶ月後、半年後、1年後は、どうなるって言うんですか?!」
「この病気の進行は、個人差が大きいんです。一般的には、年単位で徐々に進行して行くとしか言えません。
残念ながら治療法も進行を遅らせる薬もないのが現状です」
「わかりました!」と吐き捨てるように言うと父は、それきり押し黙った。怒り心頭だが、出て行こうとはしない。
ピック病の多くの患者は、怒って診察室を出て行くと本に書いてあった。
妹は(おそらく本は読んでいないが)7月から「診断されたって、お父さん、絶対に認めないよね。怒って勝手に出て行っちゃうよね」と言い続けていた。勝手に一人で帰ることを防ぐために妹の車で来ていた。

9月2回目の帰省1日目(3)父の変化 妹の苦しさ

グループホームからの帰りは7時過ぎになっていた。いつもの夕食の時間(実家では5時と早い。)を2時間も過ぎている。
「お父さん、お腹空いたでしょ?」
「あれ?俺、まだ食べてなかったか?」
認知症になるとお腹も空かないのだろうか・・・。

妹(平日はフルタイムで仕事をしている。)と電話で話をする。
平日母を訪ねることは、しばらく止めていると初めて聞く。
「行く度に泣かれるから、辛くなっちゃって・・」
「わかるよ。無理して行く必要はないよ。行きたいと思う時だけ、心に余裕がある時だけ行けばいいよ」
「心に余裕がある時?そんなこと言ってたら、永遠に行けなくなるよ」
妹は、淋しげに笑った。

日中、集金の人が来たので、後を追いかけて行って(父が在宅だった。)父のことを説明し、妹の携帯の番号を渡す。あといったい何人に妹の携帯の番号を伝えなければいけないのだろう・・。妹の負担は増すばかりだ。

帰省前、父が健康診断をした病院に連絡をして結果を私の自宅まで郵送してもらっていた。
父は、結果を取りに行く事を忘れているし、父の受診した病院で、その資料が必要だと前回言われていた。
それを父に渡して結果を説明する。父は、なぜ私が郵送までしてもらったのかを疑問に思わない。
結果は、尿酸値、血糖値、コレステロール値が少し高め。前立腺がんの検査数値の経過観察が必要というものだった。(精密検査は必要ないと医師に確認した。)
父は説明を受けた直後、「薬をもらって来る」とその病院に出掛け、保険証と診察券を忘れて帰ってきた。

父は、目に力がなくなったような気がする。無口にもなった。以前は、みなぎっていた活力を感じられない。
前回の帰省の時、ジャングルのようになっていた庭の木の多くが丸坊主になって、巨大な枝葉の山ができていた。
どちらも父の心の中を表しているようで、しばらく呆然と眺めていた。
兄は、ショートステイで帰らない。兄に会いたいと思う。兄がいない家は淋しい。父も同じだろうか?

夜、「ためしてガッテン」で認知症介護をテーマにやっている。
父は、メモを取りながら見ている。
番組の中で、2人の介護者が、心中を考えたと声を詰まらせながら言う。
目頭がカッと熱くなる。あの自宅介護の日々が、あれ以上続いていたら、私も父も同じ事を考えたのかも知れないと思う。
番組で伝えられた内容のいくつかは、私が母の介護をした短い期間に母から教えられたことだった。
「気持ちに寄り添う」ということは、15年程前に米国でホスピスボランティアになるための訓練を受けた時に教えられたことだった。ボランティアを止めて、もう随分長いが、あの時の経験が役立っているのだと思い出す。

夜遅く、雨が降り、急に涼しくなる。
母を自宅介護(遠距離介護)した時は、毎日35度近い暑さだった。母をトイレに連れて行く度に汗が流れた。
なんだかこの世界全体が、すっかり違うものになってしまったような気がした。

9月2度目の帰省1日目(2)夜間せん妄と薬 嫉妬妄想の母

夕食前、再び母の所へ行くと、泣きながら怒り、職員に「バカ!」と暴言を吐いている。
顔つきが、今までの母とは全く違っていて、ぞっとする。
人に対してそんなことを言う母を初めて見たが、職員に訊くと時々あると言われる。

施設長がいないので、職員にリハビリのことで何か進展があったか訊ねる。
(母のリハビリの必要性について問うファックスを帰省前に送ってあった。)
職員の多くは、残存能力(人に支えられてようやく立てるのみ。)の保持のためのリハビリには賛成していると、職員の連絡ノートを見せてくれる。何人もの人が賛成と書いてある。
施設長が戻ったので話をする。
今、施設の担当ケアマネと看護士と共に検討中と言われる。非常に慎重な態度だ。
言葉には出ないが、転倒骨折の可能性を心配しているのだろうと思う。正常な家族なら事故の可能性を承認できるが、今の父は、どんな騒ぎを起こすかわからない。施設長も困っているのだと感じる。

母が、相変わらず毎晩寝ない(叫び続ける日もあれば、独り言を言い続ける日もあれば、10回もトイレに連れて行けと言う時もある。)ことを私は申し訳なく思うが、施設長は「それが仕事なので、別に構わない」と言う。
薬で眠らせようとするより、昼活動し、夜寝るというリズムを根気良く作っていくのが望ましいと言われる。
まだ入所して1ヶ月も経っていないので、焦ってはいけないと。
施設長自身は、「アリセプトが原因ではないですか?」と言う。
「以前、暴言、暴力がひどい方がいらっしゃって、精神薬を使ったらすぐ大人しくなったんですが、短命になられましたよ」
薬についてしばらく話をした。

母は、自室に連れて行っても職員の悪口を言っては泣いていた。(人の悪口を言うような人ではなかった。)
私は、母の服を半分秋物に入れ替えながら聞いていた。父は、床に座り込んで黙って母のむくんだ足をさすっている。
服を入れ替え終わった私は、母の肩を抱き、手を握り、びっくりしたように言った。
「あれ~?!お母さん、何、この素敵な指輪!きれい!」
「いいでしょ?お父さんがくれたんだよ」母は、嬉しそうに言う。
「みんなきれいだねって言ってくれるよ。お父さん、毎日来てチューもしてくれるよ」
母は、機嫌を直す。車椅子で炭坑節を歌って踊って、皆を笑わせたのだと話す。
「ここも別に楽しくないって訳じゃないの・・」
「お母さん、昔っからそうだよね。いつも回りの人を幸せにしてきたよね」
「そんなことはないけど・・。どうしたら皆を笑顔にできるかなって、いつでも考えているよ」

しかし数分もしない内に、また泣き始める。
「私が、こんななって何もできないもんだから、お父さん、他の女の人の所に通うようになって・・」
母の小さくなった目から大粒の涙がポロポロこぼれて止まらない。
「そんなこと、有り得ると思う~?!お父さん、お母さんにぞっこんだよ~!それはお母さんの病気が思わせる悪い夢なんだよ」
父は、母の足をさすり続けながら泣いている。
父は、部屋に飾ってある金婚式記念の写真を持って来て母の目の前に差し出し言った。
「俺には、お前しかいないぞ!50年間お前一人だぞ!」
「でも、お父さんだって男だから・・・」母は、何を言ってもいつまでも泣き続ける。

おどけて見せたりして、なんとか母の気分を変える。父はそわそわし始める。
母「お父さん、もう帰りたいみたい。ありがとう。もう帰って。またね」
母は、辛さを懸命にこらえながら言う。
私は、母を強く抱きしめ、父は、母のおでこにキスをした。(毎日していると聞いたが、初めて見た。)
妹の話では、しばらくこの「泣く、怒る」状態が続いているのだという。

9月2度目の帰省1日目(1)トラブル 兄のこと

帰省のために自宅を出る寸前、帰省先の役所の長寿保健課から電話がある。
父が受診した病院から”(介護保険用の)意見書は書けない”と連絡があったという。
父に介護保険のことで電話連絡をしたら「そんなものを頼んだ覚えはない!」と怒って電話を切ったからだと言う。医師の意見書がなければ、介護保険の申請はできない。
何が起こったのかよくわからないまま、「今からまた帰省する所なので実家に着いたらまた連絡する」と切る。

実家に着き、まず冷蔵庫の中を見る。野菜を全く買っていない。もちろん肉も魚もない。相変わらず賞味期限の切れたものばかり。何を食べて生きているのだろうか。

まず父の受診した病院に電話し、院長(2度会って信頼している。)と話したいと伝えるが、学会で3日後まで帰らないと言われる。
父を病院に連れて行く前に相談にのってもらった保健所の保健師(とても頼りになる。)に電話をし、相談する。
もう一度、長寿保健課に電話して詳細を訊くか、病院のケアワーカーに詳細を訊くように言われる。本人に電話をすることはないはずだと言う。

長寿保健課に電話すると、病院から電話があり、問題は既に解決したと言われる。身長、体重を訊くために父に電話をしたという。
もうそれ以上追求するのを止める。こんなことにエネルギーを浪費したくない。
それにしても介護や福祉のことは、1つ、ことを進めるのに、一手間で済むことがない。何度も何度も役所に足を運んだり、訳のわからないことが起こる。

兄の通所施設に電話して、前回「ショートステイの延長は、緊急措置であり半年も1年もという訳にはいかない」と言われたが、役所の福祉課に訊くと、どこも入所まで何年待つかわからないという現状を話した。
「半年後、もし父が悪化し、兄の世話が全くできなくなったとしても、兄には、行き場がないということでしょうか?」
確約はできないが、施設入所も優先順位というものがあるので、その時の状況によって優先的に入所できるということがあると説明される。少し安心する。しかし入所申し込みは、これから始まる。
ショートステイ先に兄の着替え一式を置いておきたいので持ってきて欲しいとも言われる。
「これはここで保管するから」と言っても兄は頑として聞かず、全て持って帰るのだという。
夏物秋物を選び、全てに(靴下にも)名前を書く。ズボンが足りないので買ってこないといけない。

伯母(母の亡くなった兄の妻)に電話をし、明日の父への告知に立ち会って欲しいと頼む。(メールでは依頼してあった。)
伯母は、「(姉妹2人で行くなら)私まで行くと大げさになるから行かないつもりでいた」と言う。
伯母が居ることで父が精神的に落ち着くことと、アルツハイマーなら診断されたこと自体を忘れると言われたので、証人になって欲しいと伝える。伯母は、体の調子が悪そうだったが、「それなら行くね」と快く言ってくれた。

兄の長年通っている歯医者にも電話をする。前回の帰省で、入れ歯の具合が悪いことがわかったが、その後の治療で治ったのか訊くと、主治医が電話に出てくれた。
精一杯の努力はしているが、歯のケアを兄自身ができないので、歯は減っていく一方であること。
入れ歯は、自転車と同じで、入れさえすれば噛めるというものではなく、兄には、どんな入れ歯を入れようと使いこなすことが難しいと言われる。インプラント手術が最終手段だが、費用もかかるし、兄が、手術を理解して受けられるかどうかも疑問。
毎週金曜日の5時は、兄のために時間を空けてあるので、週1回でも口腔ケアのために通い続けて欲しいとのことだった。
ショックを受けた。
けれども兄のことを一生懸命考え努力してくれている人達が(通所施設も含め)大勢いるのだと知り、感謝の気持ちで一杯になる。
今度は、兄を毎週金曜日に帰宅させるか、予約の曜日を変えてもらうかのどちらかを手配しないといけない。

前回の帰省で返事を保留していた保険会社の担当者にも電話をして、解約金や満期の受取額などを書いた資料を用意して欲しいと伝える。2日後の午後に会う約束をする。

ここまで済ませて、やっと仕事から帰って来た父と共に母のグループホームに行くと、母は、ベッドで熟睡していた。
入れ歯も外しているせいか、別人のように衰えて見える。
職員「毎晩全然寝ませんからねぇ。今は、寝かせてあげて下さい。疲れていると思いますから」
後でまた来ると伝えて、一旦帰宅する。父の危険な運転で。




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しば

18日帰宅しました(母の物盗られ妄想)

帰宅した途端に、母のグループホームから初めて電話があった。
転倒骨折か、もっと悪い事かと一瞬ギョッとした。
母が、財布を盗まれたと言って精神的に非常に不安定になっているので、落ち着くような言葉をかけて欲しいとのこと。
母は、既に妹とも電話で話したが、納得せず、私にどうしても電話して欲しいと言ったという。

今日日中母と会った時、「財布、私のかばんに入ってる?」と訊かれて「うん。あるよ」と適当な返事をしたことを覚えていたのだと思った。
うそをついたことを母に謝って、財布は、グループホームに持って来てはいけない決まりになっていること、だから最初から財布はなかったことなど、時間をかけて説明した。
母は、泣きながら「わかった。もういいよ。明日、ゆっくり(財布を)探すから。心配しないで。大丈夫だから」
再び職員と代わる。
「認知症ですから、説得することは無理だと思います。でも職員が言うのと、お子さんから言うのとでは、全然違いますから。ご迷惑かと思いましたが、お電話させて頂きました」
私は全く構わないので、いつでも電話して下さいと伝え、迷惑をかけていることを謝る。

今日日中の母は、とても調子が良かった。母らしい笑顔も久しぶりに見られた。
さっき妹とも電話で話した。
私「いつも今日みたいならいいのにね」
妹「無理、無理。そういかないのが、レビーだからね」

9月15日~18日、帰省します

明日(15日)の朝9時前には自宅を出て実家に向かいます。今月2度目の帰省です。
病院での診断結果が父に伝えられる日が16日。翌日が、父の介護認定のための面接の日です。
18日(土)の夕方には、自宅に戻る予定です。
(何度も書いていますが、その間、残念ながらPCに触れる機会はありません。)

私が書いた記事で、誤解をした方々もいらっしゃるようなので訂正します。
私は、母を実家で介護することは、全く考えていません。介護できる家族がいないからです。
(実家に連れ帰って介護したいと考えているのは、父一人です。)
でも家に帰りたがっている母を数時間でも家に一時帰宅させてあげたいという気持ちはあります。
それが母の幸せになるのであれば。

私は、なるべく客観的に文章を書こうと思っているので、父に対する私の姿勢に冷たい印象を持つ方もいらっしゃるようですが、私は、父を愛しています。
元々短気で「変わった人」ではありますが、家族への愛情が深く、人間として裏表がなく、明るく、常に前向きで、チャレンジ精神旺盛な面白い人だと思っています。
両親が、どれほど変貌していこうとも両親への感謝や尊敬や愛情は変わらないだろうと思っています。
長期にわたり厳しい介護を経験されてきた方々にとっては、「甘い考え」と思われるかも知れませんね。

父を「説得する」のではなく、「理解して協力してもらうようお願いする」のだとアドバイスを下さった方もいらっしゃいました。
この視点は、とても大切だと思いました。心します。

皆さん、ご意見、アドバイス、本当にありがとうございます。
これからも遠慮なくどんどん気が付いたことをお伝え下さい。
どうぞよろしくお願いします。

しば

父の問題

父の提案で、妹と妹の子どもと一緒に母を連れ出して外食したという。
母は、何とか普通に会話もできたようだ。
父は、口の回りが汚れていても全く平気でいたと妹が言う。
言われてみれば、私も帰省時に、何度か父に「顔にお弁当付けてるよ」と注意をした。
父は、無口になったとも妹が言う。確かに前回の帰省の時から急に口数が少なくなったと私も感じていた。

帰省時、父は、汚れのひどいズボンをはいていたので、私が洗うと言ったが、「うるさい!」と怒った。
仕事用の上着もどれも汗臭かったので、父が居ない間に全部洗っておいた。
はいた靴下は、家中の床に放置されていた。
洗ったのか洗わないのかよくわからない服が20着以上、常にダイニングの椅子の上に山積みしてあり、片付けようとすると怒った。一度片付けたら、場所がわからなくなるのだろう。
兄のパジャマや枕カバーやシーツなどは、悲惨な状態で、手で何度こすり洗いをしても中々汚れが落ちなかった。

母は、穏やかに夕食を楽しんだようだが、帰り道が、自宅とは方向が違うとすぐにわかり、「どこに行くの?!私は家に帰るんだよ!」と怒り出したと父が言っていた。そのまま手がつけられない状態だったので、グループホームの職員に任せて、自分は帰ってきたという。
父「参ったよ。本当は、家でお母さんを風呂に入れてやるつもりだったんだがなぁ・・」
母は、グループホームでお風呂に入っているのだから、その必要はない。ほとんど歩けない母を風呂に入れることは危険だと父を説得しようとした。けれども父は、危険性をまったく理解しない。
父「お前、知らないのか?お母さんを風呂に入れるのは、俺が一番上手いぞ。プロより上手いぞ」

母は、先日、父に「20万円必要になったから持って来て」と言ったらしい。
妹は、いつか父が実際に持って行くと感じて、グループホームに伝えたようだ。
母にお金を渡してはいけないということは、私も何度も父に言っている。
帰省時に施設長にも相談した。けれどもいつか父は、母にお金を届けるだろう。

父の所有管理しているアパートは、水道メーターを毎月検針して料金を調べ、一軒一軒に請求書を入れなければいけない。それは長年母の仕事だった。
3月初旬にも母は、階段を四つん這いになって登ってメーターを検針して来たと電話で言っていた。(それ以後、母は、急に歩けなくなった。)
検針は、父か妹に代わってもらうよう何度も言ってあった。母が、最後に検針した数字は、滅茶苦茶だった。
妹の話では、この数ヶ月、検針と請求は、滞っている。
(他にも色々面倒な問題があるが、全て放置されている。)
水道メーターを全部取り変えれば市が自動的に請求するようになると、妹が、父に勧めると既に手配してあったという。
しかし父の認知症のせいなのか、業者の不親切のせいなのか(両方なのかもしれない)不適切なメーターを取り付けられて、再び全部取り変えるはめになった。6万円が無駄になった。

6万円で済んでいる内はいい。
妹に、お金のからむことは、父一人に任せてはいけないと伝えた。
妹は、一緒に住んでいる訳ではないのだから、父の行動全てを監視することなど不可能だと言った。
確かにその通りだ。
父は、今まで病気とは全く無縁に生きてきた。足腰も丈夫で、常にエネルギッシュに動き回る人だ。

父への病気の告知は、明後日に迫っている。その時以外、父を説得する機会はないと思っている。
(医師は、病気を告知されたこともやがて忘れると言った。)
運転を止めること。仕事(自営業)を辞めること。妹を成年後見人として、お金の管理を任せること。
父の性格、生き方、判断能力の低下、どんどん強くなっている猜疑心を考えると、どれも受け入れそうにない。
でも説得するしかない。説得するしかないのだ。

母の茶目っ気と記憶力の低下 リハビリ相談

母は、普通に会話が成り立つことが多い状態が続いているという。
(私が帰省した時は、よくわからないことを言うことが多く、普通の会話は、あまりできなかった。)
「家に帰りたい」と泣くことも多いが、グループホームで皆で歌を歌う時間に「踊ったりして皆を笑わせたよ」と妹に言ったそうだ。
母は、元気な頃、いつもおどけては、皆を笑わせ、その場の空気を和ませる人だった。
ショートステイに通っていた頃も時々人を笑わせていたと聞いていた。
母らしい茶目っ気が再び現れたことに、妹も私も心から喜ぶ。

しかし今日は、妹の名前が出て来なかった。
妹を私の名前で呼び、「違うよ」と言ってもわからず、暫くしてから「あっ!○○○○(妹の旧姓と名前)だ!」
妹が、結婚後の名前を言っても理解せず「あんたは、名前が3つあるんだよね」と言ったという。
以前利用していたデイサービスとショートステイの日程も「忘れないように書き出しておいてね」と言う。
自宅で介護していた時、妹が母に頼まれてスケジュールを紙に書いてベッドの正面に貼っていた。しかし母にはよく理解できず、「明日は、どっちに行く日なの?」と常に不安がっていた。

記憶障害があまり目立たずにきた母の頭の中から色々なものが消えていっている・・。
いつかは、家族の名前も顔も完全に忘れる日が来るのだろう・・。

『再び歩けるようになって自宅介護を』という父と母の強い希望(妄想ではあるが。)を少しでも叶えたいと思い、グループホームにリハビリのことを相談するファックスを送った。
母の以前の担当ケアマネは、訪問リハビリのサービスもあるので、グループホーム専属のケアマネと相談するようにアドバイスをくれた。
けれども母にリハビリ自体が可能かどうかも、グループホームの介護方針としてリハビリをさせることに賛成なのかどうかも今の私には、わからない。
(母は、私の帰省時には、支えられて立つのがやっとだった。今は、多少改善しているようだ。
転倒骨折入院を繰り返してきたので、グループホームでは、立たせたり、歩かせたりはしていない様子だった。)
施設長、ケアマネ、看護士、スタッフの皆さんのアドバイスを次回の帰省時(今月15日~18日)に頂きたいと書いた。
グループホームに機械浴(寝たきりでも入浴できる風呂。特養にはある。)はないので、少なくとも母は、人に支えられて立てる能力は保ち続けなければいけない。
車椅子に座ったままの生活でそれが可能なのかどうかも私は知りたかった。

妹が、母を訪ねると、さっそくグループホーム専属のケアマネが母の運動能力のチェックに来ていたという。
ケアマネが、母の意思を訊ねると「歩けるようになりたいです!」とはっきりと答えたそうだ。
(リハビリの効果の有無は、本人の気持ちが大きいと妹は、説明された。)
ケアマネは、骨折の可能性を家族が承知するならと「施設長と相談してからですが、まず機能改善訓練のマッサージから始めてみましょうか」と言ったという。
それを聞いた妹も、妹から電話を受けた父も心から喜んでいた。

社会的支援を使って父と兄が実家で生活を続ける可能性

ケアマネをしている友人が、心配して電話をくれた。
以下は彼女からのアドバイス。(他にもあった気がするが・・)

ケアマネだけでなく保健所の保健師(精神保健福祉士という資格を持った人もいる。)も支援してくれるので、なるべく多くの色々な人とチームを組んで父と兄を支えていけると理想的。

家族の言うことは聞かなくても、第三者の言うことは、以外とすんなり聞くということもある。

ヘルパーも最初は拒絶していても、実際に、利用してみて「あぁ、これは、楽でいいな」と実感すれば、徐々に受け入れていく場合がある。

父のみでなく、兄の世話のためにヘルパーを入れることもできる。

兄の将来の施設は、市内に限らず、近隣の市や私の住んでいる街で探すという手もある。


彼女の経験からアルツハイマーでも一人で暮らし続けている人は大勢いると言う。
新しいことは覚えられなくても長年してきたことは、何とかできるので、『こんなに病気が進んだ人が?!』と思うような人でもかろうじて生活している場合が多々あるらしい。
認認介護の夫婦(2人とも認知症)も決して少なくなく、その中には、子どもがいない夫婦もよく居るという。
それでも人間は、どうにかこうにか生きていけるのだと、彼らから教えられたという。
独居老人で、認知症になり、福祉とまったく無縁に生きている人も世の中には、数え切れないほどいるだろうともいう。

私は、父の変貌(記憶力はもちろん、判断力、思考力などの著しい低下)を見てショックを受け、こんな状態で生活を続けていくことなど不可能だと思い込んでいた。
まして兄の世話などできるはずがないと・・。
でもそれは正しくないのだとわかった。
社会的支援を上手く使っていけば、まだ父と兄が、あの家で一緒に生活していく手段はあるのだ。
病識があろうが、なかろうが、生活していける可能性はあるのだ。
希望が見える。

妹にも何度も言われ、私自身自覚しているが、私は、少し焦り過ぎている。
冷静にならなければいけない。悲観してはいけない。
楽観もできないけれど、希望を捨ててはいけない。
「必ず道はあるわよ。きっと何とかなるわよ」と彼女は言ってくれた。

兄の今後 薬の処方

(初めての方へ*兄は重度の知的障害と言語障害などがある。ひどい難産の末、仮死状態で生まれたことが原因と思われる。日中は通所授産施設に通い、近年、ショートステイも利用するようになった。十数年前から突然の激怒や大声の独語などが始まり、それ以来、精神科に通っている。)

兄の今後のことについて、妹が、再び役所の障害者福祉課に行って相談する。
(私も含めて何度目だろう。6回目?もっとか?)
ショートステイの延長は、緊急措置でしかなく、半年以上続けることは無理だと施設長から言われたからだ。
特養と同様に、まず各施設(どこも僻地にある。)に見学に行き、それから障害者福祉課に申し込みをするように言われる。
どの施設も20人以上待ちで、何年も待つことになるという。
病気で入る訳ではないので特養よりも空きが出にくいのだそうだ。
「5~6カ所に申し込みをして、とにかく空きが出るまで待って下さい」
目の前が暗くなる。半年後、兄の行き先は、なくなるのか・・。妹の家から通所施設に通う?私が引き取る?
通所施設の担当者とまた話し合わないといけない。

ショートステイを延ばした書類上の手続き、兄の年金管理者を母から妹にする手続き、有効期限切れになっていた兄の医療保険(調べてみると継続中)の手続きなども妹が済ませてくれる。
兄のことだけでも毎月様々な手続きや支払いがある。
私が、父のことを相談に行った時に勧められた介護保険関係書類の妹への転送手続きも済ませてくれた。
郵便局に届ければ全ての郵便物を妹に転送できるとも言われたが、父に病識がないので、今はまだできない。

父が行く予定だった兄の精神科の受診。(足りなくなった薬をもらうため。)
ヘルパーに頼もうとしたが、契約者が母ではなく兄となるので、新たな契約料が必要とのこと。
妹が、仕事を抜けて行ってくれた。(兄は連れて行かなかった。)
父を連れて行った病院の院長先生が、兄の長年の主治医。一緒にいるだけでほっとするような珍しい医師だ。
兄もとても信頼していて、受診に行くと止めない限りしゃべり続けるらしい。
重度の言語障害のある兄の言葉の何%を主治医が理解できるのかはわからないが、じっと聞いてくれるそうだ。
(初めての人は1割も理解できない。私でも日常会話で9割、話題によっては、半分もわからない。救急車で運ばれた時は、救急隊員が妹に「筆談ならわかりますか?」と訊いたそうだ。)

7月に1度、座りながら白目をむいて口を開け、見た事もない異様な顔をした兄を父と私で見た。
「変な顔をするな」と父は言った。
それを主治医に伝えるように妹に頼んでおいたが、母のことで紛れて言い忘れ、それきり私も忘れていた。
妹が思い出して主治医に伝えると、「間違いなくてんかん発作」と言われたそうだ。
兄には、典型的なてんかん発作(痙攣など)の経験はないが、何年かに一度動けなくなる。おそらくてんかんと言われて、てんかんの薬を飲み続けている。
何年もなかった発作が、忘れた頃に出てくることもあるそうで、またあるようならやはり精密検査が必要だと言われる。

「薬は、ちょと乱暴だけど(通所施設で)ちゃんと飲ませてくれるなら、夜の分を昼に入れてみましょう」
深い安堵感。これで兄の薬の飲み過ぎ、飲み忘れはなくなり、失神して歯や鼻の骨を折ることもなくなる。
ここまでたどり着くのに随分時間がかかってしまった。兄に申し訳ない。

主治医は、父のことでも妹の相談にのってくれた。
「お父さんのことは、”認知症です”って言っても駄目だろうから、上手く言って薬飲ませたいね」
「(高速道路のミスの話から。)それが認知症だよね。名古屋まで行くのは危険だなぁ。市内でもレビーを診てくれるとこは、あるんだけどな・・。お父さんから車、取り上げるのは、難しいよね・・。
本当に大変なことになっちゃったね。お姉さんと頑張っていくしかないね・・」
優しく人を包み込むような主治医に話を聞いてもらえただけで妹は、心が軽くなったようだった。




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しば


家に帰りたい母 帰したい父

名古屋フォレストクリニックに行って、処方が変わり(或は、注射の影響か?)母は、以前より急に認知能力が上がった。
しかしそれが良いことなのか、どうか、妹も私もわからないでいる。
母は先日まで自分がどこにいるのかも、なぜいるのかも理解できない(考えない)様子で淡々としていた。
笑うこともほとんどないが、グループホームに居ることを悲しむこともなかった。
それが、今は、自宅を離れて施設にいることを深く悲しみ、何とかして家族に迷惑を掛けない形で帰りたいと考えている。
(少し前までのように泣いたり、怒ったり、「一生恨んでやる!」などと家族を責め立てることはない。)

妄想(幻視?)は、変わらずある。
母「夜、男の人が入ってくるの。お父さんが横で寝てると思ったのにいないから一人で戦ったよ。助けてって叫ぶの。夕べは2回叫んだよ。だって、男の人がいきなり私の服を脱がして襲ってくるんだよ。みんな信じてくれなくて、助けてって言っても、最初は飛んで来てくれたけど、今じゃ”はい、はい”って言うだけなんだよ。トイレもオムツにしろって言うし・・」
妹「襲われたのは、きっと怖い夢か幻覚を見たんだね」
母「今夜ももし来たら、幻覚だと思って我慢すればいいんだね?お父さんの言うように、夜、助けてって言うの、我慢すればいいんだね。そしたら家に帰れる?」

職員の話では、睡眠導入剤(ベンザリン)1錠だと5時まで眠るが、昼間もウトウトする。半錠だと昼間は起きているが、夜も「助けて!」と叫んで眠らない。調整中との話。(看護師と話し合い)

母は、いつ訪ねても淋しそうで元気がなく涙を浮かべていると妹がいう。
「体も治らないし(歩けるようにならない)背中は痛いし、ただご飯が出るのを待ってるだけの生活なんて・・」
「ちょっとだけ顔を見せられても余計辛いから、もう毎日なんて来なくていいよ」
「お父さんが元気になって、私も元気になったら、家に帰れるよね?」

父には毎日電話をしている。
毎日フェルガード(認知症に効き、予防効果もあるという健康補助食品)を飲むように言うが、
「あんなものに、どういう効果があるっていうんだ?」
「脳を健康にするんだって。もの忘れなんかもなくなるみたいよ」
「じゃあ、俺には全く必要ないじゃないか。もの忘れなんて一度もしないんだから」(真面目に言っている)

昨日は、「お母さんが歩く練習をしたいって言うから乳母車を買って部屋に置いて来てやった」
職員の誰にも何も言わずに置いて帰ってきたと言う。責めるのはやめる。病気のせいで判断力がないのだ。
すぐグループホームに電話をすると、やはり職員が困っている。
「お母さんが、再び歩けるようになる可能性は、ほとんどないと思います。明日、施設長と相談して対応します」

母を歩けるようにして、家に連れて帰り、自分で面倒を見てやりたいと、アルツハイマーの父は、必死で考える。
歩けるようになったら、家に帰れる、家族3人で暮らせるようになると、レビーの母も懸命に思う。
認知症同士(認認)の夫婦が、「頑張って歩けるようになろう!家に帰って一緒に暮らそう!」と励まし合っている・・・。

9月1回目の帰省5日目(後半)レストランの母 父の問題

父は帰りも道に迷い(私自身は元々方向音痴)、高速道路に入るはずが、どこからか出てしまい、ウロウロと走り回る。
父は「今日は、何か変だなぁ!」と言うが、ことの深刻さには、気付いていない。
徘徊(道に迷って家に帰れなくなると医師は言っていた。)もそう遠くはないことなのだと思う。

昼には、実家のある街に帰り着き、母の好物の蟹料理の店に行く。(車椅子でも入れることを電話で確認してあった。)
9月だというのに気温は37度で、駐車場を歩くだけで倒れそうになる。
母は、写真付きのメニューから自分で選ぶ。寿司、天ぷら、うどんなどが付いた豪華版だ。
トイレに行きたいと言うので、私がトイレを見に行くとバリアフリーではなく、とても母を連れて行けそうもない。名古屋を出る前にトイレに連れて行けば良かったと後悔する。母には、狭くて行けない、悪いけどオムツにしてとお願いする。

母は、たくさんの御馳走を無表情のままもくもくと食べた。
(手は動くので、食事だけはほとんど介助が要らない。トイレや着替え、風呂などは、ほぼ全介助)
なぜか父も妹も無口で、私一人が、ずっとしゃべり続けていた。
私「お母さんの誕生日のお陰でこんな御馳走が食べられて嬉しいな~!お母さん、おいしい?」
母「あんたは、何、頼んだの?」
私「蟹雑炊。おいしいよ~!食べてみる?」
母「食べてみたい!半分頂戴!」
母は、食べたことのないものを好んで食べる人だった。元気だった頃、一緒に何かを食べに行くと「それも食べてみたい!一口頂戴!」と必ず言った。その時とまったく同じ口調だったのでハッとした。
そしてそれと同じことを、今、私は、自分の家族に言っている。あれは母譲りだったのか・・。

食後、自宅には戻らず、そのままグループホームに母を送って行く。
職員に薬の説明をする。朝昼晩の仕分けは、妹が、自宅でして明日持って来ると言う。
私は母に、一度自宅に戻って、10日ぐらいしたらまた来ると伝える。
「いいよ。そんなに何度も来なくていいよ。○○(夫)や子どもらの世話してやって。私は大丈夫だから」
しかしその数分後には、「私も帰る!」と泣き出す。職員が『早く帰って』と手で合図をし、私たちは、泣く母を置いて実家に戻る。暗い気持ちになる。

実家で母のズボンを洗い、残っていた仕事を片付ける。
あらゆる所に張り紙をする。<このゴミは月曜と木曜に出す><病院に行く時に必要なもの><この書類を○○に渡す>等々
けれども張り紙すらほとんど効果がないことは、既にわかっている。

父の運転が危険なので、仕事(常時車を使う。)を辞めさせる手段も考えた。取引先に片っ端から電話をして説明すればいい。できないことはない。
けれども仕事が趣味で生き甲斐の父から急に仕事を取り上げたらどうなるだろう?
病識のない父は、「なぜ?!」と取引先に迫るだろう。

父は、アパートも所有管理している。既に支障が出ている。
母の入院見舞いのお返しも「俺がやる」と言ったきり、何も進んでいない。
封も開けないまま紛失していく郵便物は?遅れたままの支払いの数々は?
「俺は100%正常だ!仕事も家事も何でも1人で全部できる!余計な口を出すな!」と言い切る父をいったいどう支えていけばいいのだろう?
病院での告知(16日)の後、自分が認知症と理解している間に一気にすべてを片付けるか?
その時、父は、平静でいられるのか?
仕事を辞め、すべてを私たち姉妹に任せるという判断力は残っているのか?

積み木を積み上げていくゲームで、最後の1つが、今まで積み上げた全てを崩してしまうように、父の生活にも最後の1つが、積まれようとしていると感じる。
何をどうすればいいのか、わからないまま、私は、新幹線で帰路についた。

9月1回目の帰省5日目(前半)名古屋2度目の受診

朝6時半、父と妹と3人で母を迎えに行く。名古屋フォレストクリニックの2度目(1ヶ月振り)の受診だ。
私から父に後部座席に母と座るように言うが、「俺の運転が一番安全だ!」と聞く耳を持たない。
私が助手席に座って、終始安全確認をする。
私「お父さん、右に車居るよ。危ないよ」
父「一々うるさい奴だなぁ!そんなことはわかってる!少し黙ってろ!」

車は高速道路に入る。母は、車の中で私の作ったサンドイッチを食べると「トイレに行きたい」と言い始める。
しかし中々サービスエリアが出て来ない間に、間に合わなかったことがわかる。
妹と2人で障害者用トイレに車椅子の母を連れて行く。
大量の軟便がズボンにまで溢れ出していた。2人で20分位かけて必死で拭いた。市販のおしり拭きが、半パックなくなる。
母は、自力で立っていることもできないので、1人だったらどうにもならなかっただろう。母自身は、終始無表情。最後に「ありがとね」と言った。

父は、インターチェンジを乗り越して、一般道を迷いながら進む。(カーナビを使っていたのに)
(「日本中どこに行こうと絶対に道に迷わない!」というのが、方向感覚に優れた父の長年の自慢だった。)
余裕を持って出発したので受診時間の9時には間に合った。
まだ完成していない新興住宅地の中にある一般的なサイズ(決して大きくはない。)のきれいな病院だった。
待合室に熱帯魚の水槽があり、母と「きれいねぇ!」と見ながら待っていた。
受診前に体重測定。48キロ。軽いショックを受ける。健康だった頃より10キロ近く減っていた。それでもまだ痩せてはいないけれど・・。

4人でこじんまりした診察室に通される。
父が中期のアルツハイマーであろうと初診の後、言われたこと、告知は16日で、本人に病識がまったくないこと等を書いた短いメモを先生に渡す。その場で目が通される。

私は、母が、初診以来、頭がはっきりすると同時に、泣いたり、怒ったり、理路整然とした恨み言を繰り返すようになって家族が困ったこと、眠るために処方された薬(ベンザリン)は、効果がなく、歩行困難になるので止めたこと、グループホームに入り、最初の3日位は大変だったが、今は、感情も思考も低下したような状態で落ち着いていることなど説明する。一時期消えていた幻視(幻覚)と妄想もまた出ている。

先生は、親しみを感じる名古屋弁(だと思う。)で、夜、寝ないこと自体が、せん妄だと言う。
ベンザリン1錠に加えて、精神薬のセロクエルを処方される。副作用はほとんどないとの説明。
それでももし興奮などの症状が出たら、どうすればいいかと訊ねると、その時は、マドパー(パーキンソンの薬)を減らすように指示される。

今、落ち着いているのは、環境が変わったせいか、薬が効いているせいか判断できない、もう少し様子を見ていかないと、と言われる。
父の一番の希望は、歩けるようにすること、そのためにリハビリもさせたいと父は考えていると伝える。
先生は「いいんじゃないですか」と即答し、母に、フェルガード(認知症に効果があるという健康補助食品)を初めて勧める。
「お父さんも一緒に飲んだ方がいいよ」
「いや、私は、別にどこも・・」
「私も毎日飲んでるよ。まだ51(才)だけど、ボケちゃ困るからねぇ。まぁ、お父さんも飲みなさい」

受付でフェルガード2人分(1ヶ月分)を買うが、父は、「なんで俺が飲むんだ?」と言い続けている。
やっと父にも「治療」(医薬品ではないので言葉が不適切か?)ができるという安心と喜びと感謝が半分。本当に忘れずにしっかり飲むのかという不安が半分。

その時、父の携帯が鳴った。仕事だ。外に出て話す父を追い、話を聞く。何か間違いがあったようだ。
「いや、そんな馬鹿なことがあるはずはないんですがねぇ。何度も何度もチェックしましたし・・」
父は、まったく信じられない様子。予想通り、仕事でもミスを繰り返しているのだと確信する。
このまま信用も自信も誇りも崩れていくのをただ見ていて良いのか?
でも信用や自信を失わない限り、父が仕事を辞めることは、考えられない。
父が傷付く前に、仕事を辞めさせる方法はないのか・・・。

9月1回目の帰省4日目(後半)母の誕生日 父の病気の進行

夕方、やっと父と共に母のグループホームに向かう。
途中、バースデーケーキを買うために店の前に車を停めてと言うと、その先の駐車場と道路の間の歩道に駐車する。
グループホームの駐車場での車の停め方も滅茶苦茶だ。

母の部屋に車椅子の母を連れて入り、「お誕生日おめでとう!」とケーキを渡す。
父は、プレゼントの指輪を車に忘れてきて、取りに戻る。
私は、夫と子ども達(母の孫)と兄のボイスメッセージ(”お誕生日おめでとう”で始まる。)を母に聞かせる。
無表情でケーキを食べている母は、カセットテープの声に反応しない。
大きなケーキを1人でペロリと食べた母は、今度は、兄のことをとても心配している。
「あの子は家が、3つもあるから、迷わずに、遅れずに行けるかどうか気が気じゃないの!」
通所施設とショートステイと自宅の3つか?何を言っても心配は治まらない。
しばらく話していると、少しづつ会話がまともになってくる。再びテープを聞かせる。
「あんた達(私と夫)は、うまくいってるんだね」
(以前、妄想で夫が母を訪ねて、「○○(私)が離婚したがっているが、僕は離婚したくない」と言ったと言った。全く根も葉もない話だ。)
「○○(孫)の声は、可愛いねぇ」と無表情のまま言う。

他の入居者は、お茶碗を拭く手伝いをしたり、職員と楽しそうに話しているが、母は、ほとんど会話が成り立っていない。母にも楽しみがあって欲しい。
母は、指輪をはめてもらっても、私が盛り立てても無表情。
それでも「お母さん、何才になったの?」と訊くと「72才」と正確に答えるので驚く。
1時間もすると「もういいよ。帰りな」と言った。

夜、父は、カルピスの原液をコップ一杯入れて、一口飲み「何だ、これは?!」と言う。
アイスを出すと、冷凍庫は、開けっ放し。
風呂に入れば、風呂の戸は、開けっ放し。
お菓子を食べれば、その袋は、机の上に置きっ放しだ。
父は、そんなだらしのない人ではなかった。
「俺、夕飯、食ったよなぁ?」とも言う。初めてだ。
父の認知症は、もの凄いスピードで進んでいる気がして、ぞっとする。

父は何度も「お母さんが一人でトイレに歩いて行ける位までになれば、俺が面倒を見れるんだがなぁ」と言う。
その度に「それは無理だと思うよ。お母さんの病気は進行していくし・・。例え歩けるようになったとしても、もうトイレの使い方がわからないと思うよ」と言うが、忘れるようだ。

父は、明日の名古屋行きに備えてガソリンスタンドに行き、車の整備をする。(父は30代後半まではガソリンスタンドの店主だった。)
何度か「運転は○○(妹)に」と言ったが、「俺が運転するのが一番安全だ!」と言う。
父に運転をさせないのは、病院に連れて行くことよりも難しいだろうと思う。

夜、グループホームに電話をして母の様子を訊く。
日によって大きな違いはあるが、精神的にはずっと落ち着いているという。
夕べは、夜中に5回トイレに行き、オムツを一度も濡らすことがなかったという。
そんな重労働を5回も繰り返してくれたことに非常に驚き、感謝の気持ちで一杯になる。
家族よりも手厚い介護だ。

9月1回目の帰省4日目(前半)介護保険請求 父子を切り離すこと

朝9時、役所へ行き、高齢者福祉課で父のことを相談(保健所で相談に行けと言われた)。

障害者福祉課で兄の相談もする。これから10年、今の所でお世話になったとしても、高齢になり身体障害などが出て来た場合、受け入れてくれる施設があるのか、必要なら今から申し込みをしますと伝える。
「その必要はないです。そうなった時に探して、申し込みをする方が早いでしょう」

父の受ける具体的なサービスについては、包括支援センターへ行けと言われ直行する。(車で15分強)

母の担当ケアマネ、要支援2の時までのケアマネと会って相談をする。(2人とも父母の性格などは良く知っている。)
差し当たって、明日からでも使えるサービス(介護認定前に格安で受けられる市独自のシステムがある。)は、ヘルパーの家事援助だが、それは父が必ず自宅に居るということが条件だと言う。
父は、仕事の電話があれば何時でも飛び出して行くし、何曜日の何時に家に居ろと言っても忘れると思うと伝える。
留守宅に入るヘルパー派遣業者(全額自費)もあるというが、物盗られ妄想を起こしやすいという。留守中に他人が入ることを快く受け入れる男性も少ないと。父は、猜疑心も異様に強くなっている。
いくら話していても解決策が出て来ない。「お父さん、特別頑固な人ですしねぇ」

私「アルツハイマーの方で、自分が病気だと自覚できる方って、いらっしゃるんですか?」
ケアマネ「まぁ、いませんね。皆さん、変だな、変だなと思いながら、段々進んで、わからなくなっていきますね」

介護保険の請求はどうしたかと問われ、妹が「それは、私がやるね」と言うので任せたと言う。
日程を調整するためには、私が、役所に行った方が確実だと言われる。
アルツハイマーの場合は、介護認定の面接で軽く見られやすいので、事前に担当者に説明が必要だと言われる。
妹の職場(たまたま場所を知っていた。)まで行き、妹に説明。
すぐ役所に行き直し、事情を説明。そんな遠くからわざわざ来るならと、その場で父の告知の翌日(17日)に面接を設定し、担当者の名前と電話番号も教えてもらう。

兄の通所施設に行き、施設長と担当の先生と話す。(一度来て欲しいと言われていた。)
薬は、朝食後の分も施設で預かって管理しましょうと言ってくれる。親身に考えくれ、心から有り難いと思う。
ただ10月から月31日にしたショートステイは、緊急措置であって、それが半年も続くようなら、他の施設を紹介することになると言われる。
少なからぬショックを受ける。兄は、今、通っている通所施設もショートステイもとても気に入っている。その全てを断ち切られて、全く新しい環境に放り込まれるということか・・。
「しかし、お父さんとお兄さんを切り離してしまうことが、本当に良いことなんでしょうか?大変ではあってもお兄さんは、お父さんの心の支えになっている部分もあるでしょう。お兄さんにとってもお父さんが必要なんじゃありませんか?」
「・・もちろんそうです。(心が引き裂かれる思いがする。)ただ父が兄の世話をできるかどうか、今は、まだわかりません。また16日には、私が帰省しますから、その時の様子を見て考えます。色々ご心配、ご迷惑をおかけしてすみません」
9月のショートステイのことで、再び役所に電話をして許可の確認を取り、延ばせるだけ延ばしてもらう。それが本当に良いことなのか悪いことなのか、わからないまま・・。

兄の施設で、兄の入れ歯の具合が良くないようだと言われ(私も気が付いてはいた。)歯医者に予約を入れる。
薬がなくなっているので、精神科へ予約の変更の電話をする。主治医は、2週間に1度の土曜しか居ないという。それでは薬が、間に合わない。平日では妹が行けない。横で父が怒鳴る。
「何をグズグズ言ってるんだ!!俺が水曜に行けばいいんだろう!水曜にしろ!」
一応水曜に入れたが、父が忘れずに行くとは思えない。ヘルパーに頼もう・・。

隣の○○さんの所に回覧板の板を持って行って、父(自治会役員)の残りの任期中の回覧配布をお願いする。
父には、「任期が変わったって。お母さんのことで配慮してくれたみたいよ」と嘘をつく。
私は、父に毎日嘘ばかりついている。
「さっきお父さんが来てね。”○○(私)に騙されて健康診断させられちゃったよ”って。”丁度良かったじゃない。私も健康診断受けたいわ~”って言ったの。”お母さんを何とかまた歩けるようにして、家に連れて帰って、俺が面倒をみたい”って言ってたわよ」

先日来た生命保険会社の担当者に電話。父の言うことは、放って置いて欲しいと思っていたが(そうすれば父は忘れる。)、事情を話すと幾つかの選択肢を示され、選んでくれと言われる。被保険者の兄に保険解約なり続行なりの意思を表す方法がないことも重要な問題とされる。
即断はできない、16日以降に返事をすると言う。

やらなければいけないことが多過ぎる。体が1つでは足りない。時間が全然足りない。
母の所に行きたいのに。今日は、母の誕生日だというのに・・・。

9月1回目の帰省3日目(3)兄の着替え(他)母の一時帰宅は?

夕方、隣の家の○○さんの所にお土産を持って報告に行く。
「そう・・。悲しいけど、しょうがないのよね・・。
あなたに言われてから、そういえば、あんなこともあった、こんなこともあったって、次々と思い出したの。去年からよね。おかしかったの。
6月には自治会費の集金があったんだけど(自治会の役員の父が)全部の家を朝の7時前に回ったの。そのお金もずっとお家に置き放しでね。そんな人じゃなかったのになぁって、不思議に思ってたの・・」
これから色々なご迷惑をお掛けすることになるだろうこと、台所の壁は石材なので、火事になることはないということなど説明する。
「私でできることなら何でもするから言ってね。気が付くことがあれば、すぐ妹さんに連絡するからね。」

兄の通所授産施設(ショートステイも同系)の先生からクレームの電話が入る。
お願いしてショートステイを急に増やしてもらい、今朝、兄を送り出した。
(明日は母の誕生日なのでどうしても全員で祝いたかったが、明後日には、母を名古屋フォレストクリニックに連れて行かなくてはいけない。兄を名古屋に連れて行くことも、家に置いていくこともためらわれた。)
3日分の着替えを入れるように言われたので、夕べ、兄に説明し、一緒に服を選び、かばんに入れてと伝えた。
当然入れたものと思っていたが、念のためにチェックしてみると1日分しか入っていなかった。
過信してはいけないんだ・・と思いながら、3日分の着替えを入れ直しておいた。
その着替えが、1日分しか入っていないという電話だった。あの後、また出した?!私の兄への説明不十分だ。
着替えを届けて下さいと言われる。

父が中期のアルツハイマーだと言われたことを伝える。
「そうなんですか?!○○さん(兄)が、(ショートステイから)帰宅して大丈夫なんですか?!」
「・・わかりません。今の所は、何とかかんとか・・。でも先のことはわかりません・・」

兄は、薬ももうわずかしかない。(父も兄も薬の管理ができず、兄は飲み過ぎては倒れ、怪我をする。)次回の受診予約を早めなければいけない。けれども妹が病院に行けるだろうか・・。薬の管理は、いったいどうすればいいのか・・。

妹に電話。妹は泣いていた。
明日は、私が御馳走を作るから、自宅で母の誕生祝いをしようと言うと、自宅に戻れば、せっかく忘れた家のことを思い出して、また「家に帰る!」と泣いたり怒ったりの騒動になるのではないかと言う。
そうかも知れない。そうでないかも知れない。私には、わからない。
自分の家にすら帰れない母が哀れでたまらない。しかし母の感情失禁に対応するのは私ではなく、父や妹だ。
母の好きな蟹料理の店に電話すると、車椅子でも利用できるとの答えだった。

夕方、母の所に行くつもりだったのに、力尽きてしまった。一度も顔を見せられなかった。
同じ街に居ながら・・・。ごめんね。お母さん・・。

夜、また家の中をジョギングする。何も考えないようにする。考えてもわからないことが多過ぎる。
妹は泣いていた。でも私は、何の感情もわかない。何事もなかったかのように。
また例によって麻痺しているのか?後でまとめてどっと襲ってくるのか?それは、いつ?

父は、母への誕生祝いに金の指輪を贈ろうとして6軒も回ったと言う。
母は、今年、結婚指輪をなくして、それをずっと気に病んでいた。
この不況で父の知っていた5軒の宝石店は、全部潰れて(倒産して)いたと言う。
どこもここも、誰もかれも大変なのだ・・と思う。

9月1回目の帰省3日目(2)父、診察を受ける

マスクで目しか見えない医師が、父に向かって話し始める。
「なぜ、ここにいらしたんですか?」
父は(そして私も)、一瞬ギョッとする。
父「・・健康診断で・・」
医師「ここでは、健康診断はしてませんがね」
私「昨日、ケアワーカーさんにお話しさせて頂いたんですが、聞いていらっしゃいませんか?」
(終始黙っているつもりだったが、焦って思わず言ってしまった。長谷川式簡易知能評価スケールの用具一式が机にないこともとても気になっていた。)
医師「聞くも何も・・。ごまかしはいけませんよ!」
(医師は、保健所からの相談を受けた時点で気分を害していたのだと思う。自分が知らない間に「だまし討ち」の共犯者にされるところだったのだ。そしてその気持ちは、もっともなことだった。一番大切なのは、患者との信頼関係なのだから。)
しかしその時、私は、思っていた。『病院を誤った・・すべて水の泡だ・・』

父はその会話の意味を考える風でもなく、医師の当たり障りのない質問に答え始める。
医師は、始めは母の話をじっくり聞き、それから徐々に「夕べ食べた物は何ですか?」(父、覚えていない。)「今日の昼、食べたものは?」(しばらく考えてから「素麺」)「今日が何月何日かわからないことがありますか?」(父、あると正直に答える。)などの質問を会話の間に挟んでいく。
医師「少し、物忘れがあるようですね」
父「まぁ、年相応には、あるかもしれませんね」(父、苦笑いをしている)
医師「では、一応CTと心理テストも受けてもらいますね。別室になりますが」
(ここまでの自然で穏やかな流れを見ると、はやり経験と実力を兼ね備えた認知症の専門医なのだと思う。)

父が、脳のCTと心理検査(長谷川式とロールシャッハ・テスト)を受けている間に、医師から私に問診。

結論は16日(2週間後)まで出ないが、恐らく初期ではなく、中期のアルツハイマーだろうと言われる。
『中期?!』私は、初期だと思っていた。早期発見早期治療で、まだしばらく何とかなると考えていた。
私「徘徊も・・始まるということでしょうか・・・?」
医師「本人は徘徊とは思わないでしょうが。道がわからなくなって、家に帰れないということは、いつ起こってもおかしくありません」
私「・・それに、皆さん、どう対処していらっしゃるんでしょうか・・・」
医師「知りません」
私「・・私は・・どうしたら・・・」(この瞬間、私は、激しく動揺していた。)
医師「それは病院に相談することではありません。福祉や介護関係の機関に相談して下さい。デイサービスやショートステイを利用していくしかないでしょうね」
(100%健康だと、受診すら拒否する父が・・? 私は、再び平静を取り戻す。)
私「16日に先生から説明を受けて、父は、自分が認知症だとわかるんでしょうか?」
医師「恐らく、その時にはわかると思います。ただそれをいつまで覚えているかは、わかりません」

伯母「あの・・やっぱり、お母さんのことがショックでなったんでしょうか?」
医師「いえ、何年も前から症状はあったはずですが、家族が気が付かなかっただけです」
(父が同じ話を何度も楽しそうにするのは、もう何年も前からだった。歳のせいだと思っていた。)

アリセプト(アルツハイマーの進行を遅らせる薬)は、怒りっぽい患者に使うとそれがひどくなるので勧められないと言われる。
私「治療法はないということですか・・」
医師「まぁ、一般的にアルツハイマーは、レビーほど進行は早くないですから・・」

診察室を出て、待合室で父の検査終了を待つ。
伯母「そうかも知れないとは覚悟してても・・はっきり言われるとショックだね・・・」

父は、機嫌良く検査を終え、待合室に来ると、楽しそうにロールシャッハ・テスト(性格分析)の話を始める。
「見た事もないような変な絵を見せられて、何に見えるかって言うんだぞ。”何にも見えない”って言っても、何でもいいから何か言ってくれっていうんだ。まったくヘンテコリンな絵でなぁ。”ミーアキャットの日干しだ”って言ってやった」
長谷川式は、「計算(100引く7。さらに7を引く。)がちょっと難しかったなぁ。あとは完璧だ~」
伯母「私だってそんな難しい計算なんてできやしないわ~。私も早く健康診断受けないとといけないねぇ!」

帰りの車(父の危険な運転)の中でも父はケロリとしている。
「なぁ。俺が病気だっていうウソの診断書を書いてくれって、今度、あの医者に頼んでみてくれないか?」

妹の仕事が終わる5時過ぎ、真っ先に電話をする。
「本当に・・?!」と言ったきり、妹は、言葉が出なかった。

9月1回目の帰省3日目(1)父の初診 診察室に入るまで

<初めて読む方に*父はアルツハイマーが強く疑われるが、本人は「100%健康だ!医者に行く必要などない!」と受診拒否。「物忘れ、ひどくなったと思わない?」などと訊くと「物忘れなど全然ない!」と怒り出し、手がつけられない状態。元々短気だったが、それが激しくなる。理解力、判断力、思考力も極端に落ちている。>

診察日の朝、保健所から電話。緊急のことが起こり(よくあると言う)応援の人員を出せなくなったので受診日を延期して欲しいとのこと。
私は、ことは緊急を要するので、とにかく今日行きますと伝える。

母を訪ねる。やはり感情はないかのよう。言う事は、支離滅裂。
施設の職員に写真の額を飾るために壁に釘を打ったりできるかと訊ねると、思った通りだめだと言われる。
「小さな台を部屋の隅に置いて、その上に飾ったらどうですか?」
母の部屋でサイズを測って、サイドテーブルのようなものを買いに行く。滑り止めのシートも買う。

実家でそれを組み立てていると、父が仕事から帰ってきて、ふと言う。
父「お母さんを○○(ショートステイで利用していた特養)に移すにはどうしたらいいんだ?」
『これで受診させられる!』と思う。
私「うん。ケアマネの○○さんに相談してみるね」

父には、「○○病院(兄が通っている。)の院長先生から私に電話があって、お母さんのことで伝えたい重要なことがあるので、お父さんと9月2日に来て下さいと言われた」と伝えてあった。
思考力の衰えた父は、何も疑わず、すぐに受け入れた。
私が帰省してからは、「何の話だろう?」とか「なんで俺じゃなくてお前に電話したんだ?」などと言ったが、適当な嘘を付くとすぐに信じた。

父は、私が帰省してからは落ち着いているし、母のためだと言えば、きっと成功すると確信する。
でも念のために、運動靴とパンツ(ズボン)で行く。父を取り押さえるために・・。

病院に着き、受付をして一般の待合室で待つ。
少しして伯母が来てくれる。「お母さんのことで大事な話があるなら私も聞きたいと思って・・」
父はそれを不思議とも思わず「悪いねぇ」と言っている。

私は、慎重に話し始める。父の反応を探りながら。

院長先生は、今日は、急用ができたので、昨日、呼ばれて私が会った。レビーは、薬に対して反応が強く出るのが症状の1つだから、処方が変わったらよく観察しなさいと言われた。
それから、寝ずに介護したお父さんのような介護者は、脳にかなりの疲労がたまっているはずだから、必ず脳の健康診断をしなさいと言われた。
丁度今日、ケアマネに電話してお母さんを特養に移す方法はないかと訊いた。お父さんが健康診断をして、疲労度がひどいと診断されれば、優先順位がぐんと上がると言われた。調べてみなければわからないけれど、とにかく一度母のために健康診断を受けてみるようにと言われた。

支離滅裂だが、父さえ理解し、納得すればいい。全エネルギーを込めて話していた。
伯母は、横から上手く間(あい)の手を入れながら、涙を拭いている。

父「要するに、俺がここで今日、健康診断を受けるってことか?」
私「そうだよ」激高して立ち上がっても対応できるよう身構えてから、ゆっくり答える。
父「なんだ。それならそうと何で早く言わないんだ。別に健診くらいいつだって受けてやるよ」(父、平静)

かなり緊張した笑顔の看護士2人が来て、診察室に案内すると言う。
「今日は混んでいるもんですから、空いてる部屋を使います。すみませんね」
父と叔母と共に救急患者が運び込まれる広い部屋に通される。
冷たい空気の満ちた部屋だった。

9月の1回目の帰省2日目(後半)父の混乱

グループホームで母は、相変わらず眠らず、夜通し「お父さ~ん!」と呼び続けていたりすると聞く。
「助けて~!」と言う日もあるという。一晩中そう言い続けた母をなだめた夜を思い出す。

この日、母は、初めてヘルパーに連れられて入院していた病院(整形外科)に受診に行った。
妹は、父からヘルパー代のことで文句を言われることを恐れて私に行って欲しいと言ったが、私は、父の受診の準備を優先した。
母「優しいいい人だったよ」・・良かった。

母は、私の子ども達にお年玉の準備をしたいと言う。お正月はまだまだ先だから心配ないよと伝える。
帰宅して父にその話をすると、父にも「孫におこずかいをあげたいから」と毎回何度もお金を欲しがると言う。
父「どうすればいいんだ?あげていいのか?」
私「それはまずいよ。施設長に相談してみるね」
後日、施設長(母は、知的障がいの兄だと信じている。)に話すと
「私にもよく”千円あげるからね”とか言いますね。”お母さんの財布は、施設長が預かって大切に保管しているので、お金のことは、施設長に訊け”と言うように、お父さんには伝えて下さい」

この日、ケアマネの○○さんに電話して、今までの経過を報告する。
「保健所でそういうことするんですか?!」と驚いている。
「明日のお父さんの受診結果をまた連絡して下さい」
同じことを連絡しなくてはいけないのは、母の要支援の時のケアマネ、今日会った保健師、兄の通う施設の担当者。

夜7時。母が父と兄の個人年金のためにかけていた生命保険の担当者が来る。父と玄関で話をしている。
「ご解約には、保健証券が必要です」
「ない!そんなものはない!」(確認して金庫に入れたはずなのに)
「・・・ご契約者の○○さん(兄)は、ご在宅ですか?」
「いない!」(実際にはいた。)
「では、ここにある電話番号にお電話下さい。そうしますと」
ガシャンと玄関を閉める音。父が、話の途中で閉め出したのだろう。
この担当者とは、私と妹が会って、今後の話はつけてあった。それを父が突然解約すると言い出したようだ。
私「どうしたの?」
父「別に何でもない。口出しするな。俺がやるからいい。」
父は、日中、郵便局にも行って、通帳もハンコもないが、母にどれだけの預金があるか調べろと騒いだようだ。
「まったく融通のきかない奴らだ!俺と顔馴染みのくせに!」と一人で怒っていた。
母の認知症が急激にひどくなった時紛失していた母の通帳とハンコは全て出てきて、これも金庫に入れたはずだった。

母の介護はないので、今回の帰省は、身体的には本当に信じられないほど楽だ。
でも神経が疲れる。夜、突然、家の中で30分スロージョギングを始める。何ヶ月も休んでいたことだ。
頭を空にして、体を動かさないと、頭が処理能力を超えて壊れてしまいそうだ。
父は、不思議そうに見ている。「体にいいんだよ」とジョギングしながら言うと、ちょっと真似してギクシャク走ったりしている。

寝る前、母がお世話になったデイサービスにお礼の手紙を書く。
本当は、お菓子でも持ってお礼に行くつもりでいたが、時間が取れなかった。
そこで見た母の生き生きとした表情や笑顔が忘れられないと書くと涙があふれて来た。
あそこで母は、皆さんから愛されていた。本当に有り難かった。
母の母らしい茶目っ気や笑顔を思い出す。
もう2度と見られないのかも知れない母の笑顔を・・。

9月の1回目の帰省 2日目(前半)父受診の準備

朝、高血圧だと通所施設から言われた兄を連れて病院に行く。
血圧は正常。毎日計って記録をつけるように言われる。
兄には、血圧の計り方の指導もしてくれるが、父にも兄にもそれを実行する力はない。
兄の通う通所施設に血圧計があれば、そこでしてもらおうか・・と思う。

その後、父の受診予約を入れた病院に行き、明日、診察の前にするはずだった30分の問診をしてもらう。
父は、30分も待てず、その間に怒って帰ってしまう可能性が大きい。
男性看護士数人で父を取り囲んでもらえないかと依頼する。(電話でもしてあったが、確認のため)
電話ではOKをもらっていたが、受付で話すと男性スタッフが出て来て言う。
「人権問題になりますので、受診拒否をする方を無理矢理押さえつけて受診させることはできません。保健所にそういう人がいますから、保健所に行って下さい」

帰宅して3人分の昼食の準備をし、保健所に行く。保健師と面談室で2時間半話す。
「大勢で取り囲めば、男性の場合は、大抵大人しくなりますよ」何でもないことのように言う。
私は、父をだまして連れて行き、診察室に入ってから「実は、今日は健康診断をしてもらうために来た」と言うつもりでいた。それ以外に、父を病院に連れて行く方法はないと考えていた。
しかし保健師は、それでは医師によっては怒り出すと言う。「では、待合室で」と言うと、待合室で大声を出されたり、暴れ出されると他の患者の迷惑になると言う。
保健師「だますのはまずいです。2回目の受診を拒否します。自宅か、車の中で説得できませんか?」
私「無理です。父は、自分が100%健康だと信じています。車は父が必ず運転しますから、そのまま自宅に引き返して終わりです。2度と病院には行きません」
保健師は、何度も病院に電話し、通常の診察室ではなく、救急患者が入る裏口から入りましょうと言う。
「急なことなので2人しか出せませんが、とにかく帰らないように最大限の努力と説得をします。
場合によっては、そのまま入院という可能性もあります。その場合、奥様ですと手続きは簡単ですが、娘さんが手続きとなると裁判所に行ったりする必要が出てきます。明日からお兄さん(重度知的障がい)をどうするかという問題も発生します。市役所に行って福祉課に相談して下さい」
明日から入院・・・?!
私が開こうとしている扉は、いったいどこに繋がっているのか・・?! 
急に寒気を感じる。
でもこうするしかない。他に道があるのか?

その足でお墓参りと伯母の家に行き、明日2時に○○病院に来て欲しいと伝える。
詳細は、帰省前にメールで知らせておいた。
伯母「私なんかが行って何か役立つ事なんてあるの?」
私「うん。伯母さんがいてくれるだけで、お父さん、落ち着くと思うの。ごめんね。お願いします!」

次に市役所に行き、障害者福祉課に相談。兄の通所施設とショートステイの施設と連携を取りながら、明日からのことに何とか対応していくよう努力しますと言われる。

夕方、やっと母の所に行ける。本当は1日中付いていてあげたいのに・・・。
母は、昨日と同じ。私の顔を見てもほとんど喜ばない。
話していると「立ちたい」と言うので、職員に声をかけ、車椅子から立たせようとすると「やめて下さい」と言われる。「危険ですから」(母は、4回転倒骨折をしている。)
『これが施設に入るということか・・』と思う。
転倒骨折してまた大手術をするのがいいのか、このまま歩けなくなるのがいいのか・・・。
父も母の歩行訓練をさせようとして断られてから「こんな所にお母さんを置いてはおけない!」と言い出したらしい。

母は、隣に座っている2人の入居者を○○ちゃん(親戚)やその子どもだと思い込んでいて話しかける。
母「○○ちゃん、こんな所で油売ってていいの?○○さん(彼女の夫)のご飯作らなくていいの?」
「私、雅子っていうんですけどねぇ・・・」とそのおばあさんは苦笑いしている。

母が、金婚式記念に撮った写真を見たいというので、部屋から額を持って来て母に見せ、2人にも見せて説明する。
「まぁ、きれい!」「なんて素敵なご夫婦!」と盛んに褒められる。
母は、終始無表情なままだ。
去年の2月に私と妹で金婚式のプレゼントとして写真館で撮影してもらった。
化粧も髪のセットも貸し衣装も込み。決して美人とは言えない母が、どこかの上品な奥様のように写っている。
その写真(アルバムも)を母は、とても気に入り、元気な頃から誰にでも見せては、撮ることを強く勧め、どんなに認知症がひどい状態の時でも常にその写真を見たがった。
撮影の日、実家に電話した時のことを昨日のことのように思い出す。
「お父さん、カッコ良かったよぉ!」と母が言い「お母さんこそ、きれいだったぞ!」と父が言った。
たった1年半前のことだ。
2人が寄り添う写真を無表情に見ていた母は、ふと、納得したようにつぶやく。
「(父と)一緒に死んだら(葬式の遺影には)これを使えばいいね」











9月の1回目の帰省 1日目 認知症の進んだ父

実家に着いてすぐ、実家に来ていた妹と一緒に母のいるグループホームへ行く。
(私は、母が入所してから初めて訪ねた。)
私の顔を見ると『あぁ、来たの』という表情をするが、別に嬉しそうな様子はない。
母の言うことは9割はおかしいが、表情は暗くない。

母「ここは、ご飯も美味しいし、今日は、お風呂も入って気持ちよかったよ。」
母「ねぇ、○○(兄)の顔、変わったと思わない?あんな顔じゃなかったのにねぇ」
(母は、施設長を兄だとずっと信じているのだと妹から説明される。)

ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、まったくわかっていない。
最初の3日間は、「家に帰る!」と泣いて怒って手がつけられなかったというが、今は、泣くことも怒ることも恨み言を言うこともないという。ほっとする。同時に哀しい。

施設長と父(認知症が疑われる。)のことについて話をする。
父が、母を連れて外出する際には、必ず父の外出届けと施設から妹への連絡をすることを約束。
「外出中に事故が起こった場合、どうしても責任問題になりますのでね」

妹は、明日から再就職(フルタイム)なので、今日は、役所の障害者福祉課に行き兄のショートステイを伸ばす手続き、実家の介護ベッドの返却、明日の母の整形外科受診をヘルパーに依頼(新規契約して初めての依頼)、デイサービスの支払い等目一杯動いてくれていた。
妹「少しでも○○ちゃん(私)の負担を減らそうと思って」

実家に戻り、冷蔵庫の中を見て立ち尽くす。
6日前のままだ。私が作った料理の残り、妹が買って来たケーキの残り、野菜もそのまま古くなっていた。
ベシャとした魚の天ぷら6匹が加わっただけだ。

父は、先週よりも落ち着いていた。介護から解放されてゆとりが出たのだろうか。
しかし物忘れは、さらにひどくなり、私が「○時頃帰る」と電話した事自体を忘れている。

介護ベッドの消えた居間は、ガランとしている。
あの混乱の日々がもう何ヶ月も何年も昔のことのような気がする。
たった6日前までのことだというのに・・。

夜になって父がハーゲンダッツ半ダースとペットボトルのコーヒー2本等を買って来る。
私「百円アイスしか買わないお父さんが、よくこんな高いアイス買ってきたね」
父「これ、高いのか?百円じゃないのか?」レシートを見て驚いている。
私「お父さんもお兄ちゃんもコーヒー、全然飲まないのに、どうして?」
父「これ、コーヒーか?」
じゃあ何だと思って買ってきたの・・という言葉は、恐くて口に出せなかった。

プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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