8月31日から9月4日まで再び帰省します

母は、8月27日にグループホームに入所しました。

その日も父が、約束の時間を忘れ、お金を用意することを忘れ、兄が帰宅した時に家に入れるように準備することを忘れました。
お金を取りに家に戻った父は、今度はいつまで経っても戻って来ず、妹が電話をすると「今、夕食を作ってる。待ってろ」と言ったそうです。
始めは落ち着いていた母も父を待っている内に泣いて怒り出し、手がつけられない状態のまま置いて来る形になりました。

その後、父は毎日午前午後夜と母の元に通い、スタッフに一言も声を掛けずに(車で)食事に連れ出したりし、現在、どう対応するか検討中です。(私が帰省した時、施設長と話すことになっています。)
昨日は、「もうあんな所にお母さんを置いてはおけない!俺が違う施設に移してやる!」と興奮して施設のスタッフにも妹にも怒鳴り散らしていたそうです。

母は、父や妹が訪ねるとメソメソ泣いていたり、眠りこけていたり、無表情のまま支離滅裂なことをずっと独り言のように話していたり・・色々です。
環境の変化に弱いタイプと病院で言われていますから、しばらく状態は、良くないかも知れません。

母が入所した日、普段から何かとお世話になっている実家の隣人の○○さんに電話をして、父の認知症のこと、母の入所のことを説明しました。
「何度も同じことを言いに来たり、車のライトを何度も消し忘れていたり・・変だなぁとは、ずっと思ってたんだけど、お母さんがあんなじゃ無理もないのかなって思ってたの。・・そう・・お父さんまで・・。ショックだわ」

帰省の件ですが、私は、元々「9月4日の名古屋フォレストクリニックの診察(2回目)には付いて行く」と父には伝えてありました。
母の病状を正確に伝えて、主治医と話し合いたいことが1つ。もう1つは、父に運転をさせないためです。
「お前が来たいって言うなら来ればいい」と父は言っていました。
それがたまたま31日から4日まで連続で休めることになったので、帰省から戻って6日目にまた帰省ということになりました。
今日、妹に電話をすると兄がまた具合が悪くなったそうで、血圧が異常に高いこともわかり、病院にも連れて行かないといけません。帰省すれば、やることはいくらでもあります。

最後になってしまいましたが、多くのコメント、本当にありがとうございます!
私ももう少しあちこちに相談して、冷静に慎重にことを進めるつもりです。



8月の介護6日目 別れ レンタル介護ベッド

私は、今日の朝に、母をショートステイに送り出し、昼には、自宅に向けて出発する。
グループホーム入居は、できるだけ早く、ショートステイの終わった日(明後日)にしようと妹に伝えた。
準備は全部妹にやってもらうことになる。申し訳ないが、もう一踏ん張り頼む。

明け方、母と話しながら、この住み慣れた家に母が暮らすことはもうないのだと思うと涙が止まらなくなる。
それでもこれが正しい選択だったと私は信じている。母を、そして父を守るために。

朝、母の希望でトイレに連れて行く。
母の歩行能力は、何とか私一人で支えられる程度には回復していた。
それでもほどんど何も出ず、また大汗をかきながらベッドまで戻って3分も経たない時。
「トイレ行きたい。ウンチ出そう」
一瞬迷ったが、せっかく便意があるならトイレでする方がいいだろうと思って連れて行く。

ところがオムツを降ろした瞬間に、また大量の軟便が出始める。
汚れた便座の上に、こらえ切れなくなった母が、腰を下ろす。
どうしようかと思ったが、父を呼べば、また先月のように風呂に連れていくだろう。それは危険だ。
私一人で処理する。母が「もうだめ」と言うまで何度も何度も繰り返し立たせながら・・。
数メートル離れた居間で新聞を読んでいる父は、何も気が付かない。
(臭覚が麻痺しているのではないかと思う時が、時々ある。)
すべてを終えて、母をベッドに寝かせて、私も座り込む。
兄が、私の横に来て座り、じっと私を見ている。兄の顔を見ると心配そうに一言言った。
「ツカレタ?」「大丈夫だよ。ありがとう。お兄ちゃん」

母には、夕べも今朝もグループホームのことを説明した。
私「コロコロ(デイサービス)みたいに楽しくて、京都(ショートステイ)みたいにお泊まりもできる一番良い所が見つかったんだよ。昨日来てくれた人の所だよ。ここからも近いから毎日何度でも会いに行けるし・・」
母は、「いいねぇ」と言ってみたり「そんなとこ絶対に行かないよ!」と言ってみたり。

朝、妹が来て、母の伸びた髪を手際良く上手に切る。
父も私も(以前は母も)切れるが、妹が一番上手い。
母は、相変わらず無表情だが、「素敵になったよ」と褒めると「鏡、ちょうだい」と盛んに言う。

ショートステイの迎えが来ると泣いて拒否。泣き、怒りながら、連れて行かれる。
別れのハグすらできなかった。

母を送り出し、あちこちに電話。入居につなげてくれたグループホームの施設長やケアマネ、等々。
介護ベッドは、妹がネットで調べて(実家にPCはない。)中古を扱う店をプリントアウトして持って来た。しかしケアマネに訊けば、月2500円でレンタルできると言う。
自費で払うなら(介護保険を使わないなら)問題ないそうだ。

妹「やっぱり最初から○○さん(ケアマネ)に訊けば良かったねぇ!お父さん、レンタルできるって」
父は、突然火が付いたように怒り出す。この怒り方は、正常ではないと初めて思った。
父「レンタルなんて嫌いだ!俺が自分で取りに行くから中古屋の住所を電話で訊け!」
落ち着かせるために、とにかく電話をする。千葉市にある業者だという。
私「お父さんが、トラックを借りて、そんな遠くまで取りに行って、たった一人で運んで来るっていうの?」
父「そうだ!そんなことは慣れてる!俺は何だって一人でできるんだ!つべこべ言うな!」

妹に伝えた。「ケアマネに頼んでレンタルして。お父さんには、明日にでも私から説明するから。その前に、もしお父さんが何か言ったら、○○(私)が手配するって資料も持ってったから何もわからない、○○(私)に訊けって言って。でも・・多分、暫くしたら、お父さん、ベッドのこと、忘れると思うよ」
「あれだけ怒って怒鳴ったことを、忘れるなんてこと、有り得る?!」
(妹は最後まで不安がっていたが、父は、翌日には、忘れていた。)

こうして私の6日間(正味5日間)が終わった。
母の安全は確保できた。

次は、父だ。父も同じ位の緊急性を感じる。
(なんとか受診させようと毎日精一杯努力したが、今回はだめだった。)

追記 父に関しては、ここに書いた以外の沢山の重要な出来事(症状)があったが、あえて省略する。



8月の介護5日目 父の変化 特養 グループホームに空き出る

この朝、母は、ふと父のことを話した。
「お父さん、怒りっぽさが異常だよ。あそこまで怒りっぽい人じゃなかったよ。でも自分では、その異常に全く気が付いてないんだよねぇ・・」
その変化は、私も妹も気が付かなかった。
父は、私が人生で出会ったすべての人の中で最も短気な人だ。
その思い込みが観察の目を曇らせていた。
父は、ちょっとしたことですぐ怒鳴る。子どもの頃は恐かったが、その後は、父がどれだけ怒鳴ろうと気にもならない。「あぁ、また始まったか」と思うだけだ。
妹は、父の怒鳴り声に耐えられないと言う。性格の違いか。
父はどれだけ短気で怒鳴り散らしても、母にも私たち子どもにも一度も手をあげたことはない。

妹とまた別の特別養護老人ホーム(特養)の申し込みに行く。
巨大な施設を案内してもらう。目を背けたくなる姿で床を這いずり回っている入居者を見る。個室の中だ。
「大変なのはわかりますが、いつ入れるかは、全くわかりません。」と言われる。
優先順位のことを訊くと「優先順位も施設によって違いますから。ここでは、介護度は低くても独居老人が優先になります」

実家に戻るとキャンセルしたはずの○○証券の担当者が来ている。
朝、父に電話が掛かったのだが、「ライオンが見えるとか言うことはなくなったんだけどねぇ」などと要領を得ない会話をしているので私が代わり、その日に会って説明を受ける約束をした。
しかし他の施設の見学・申し込みを優先してキャンセルした。
「はい。あの後、お父様から2時に来て欲しいとご連絡頂きまして」
父はいなかった。状況を説明すると裁判所に行って成年後見人の手続きを取るよう言われる。
父がいつまで待っても帰ってこないので、妹が携帯に電話をすると「そんな約束はしていない」と言う。
この時になってもまだ父の認知症を信じられずにいた妹が、ショックを受けていた。

その時、妹の携帯に電話が入った。
妹「やった!あのグループホームだよ!1つ空きが出たって!一番近い所だ!」
(「ここは、今は満床ですが、同じ系列の施設が沢山あるので訊いてみますね。もし空きが出たらすぐお知らせします」と言ってくれたグループホーム施設長がいた。)
すぐに二人で駆けつける。

建物は古いが、大勢居るスタッフも皆にこやかでとても感じが良い。入居者も皆、穏やかな顔をしている。人の印象は、今まで行った中で一番良かったかもしれない。
入居者の一人の男性は「へい、らっしゃい!」と私たちに挨拶してくれた。何屋さんだったのだろうか。
街の中心地なので窓からの景色は良くないが、実家から車で10分もかからないほど近い。
施設長は、年配の感じの良い男性。既に2人の申し込みがあるが、優先的に入れてくれると言う。
「本人と面会して受け入れ可能かどうか確認したい」とのことで、5時に実家に来てもらうことになった。

帰りの車の中で、私も妹も沈黙していた。
妹「・・・脱力?・・だよね・・」
私「何か言ったり、喜んだりしたら、その瞬間に消えてしまう夢のような気がする・・・」

帰宅して、妹からケアマネに電話報告。ケアマネも信じられない様子。

5時。施設長と女性が二人で来て、母と話す。
母は、お客と認識していて、礼儀正しく丁寧な言葉でおかしなことを次々と積極的に話す。
施設長は、終始微笑みならが、慣れた様子で上手に会話をつなげている。
しかしその後、「ベッドが問題。ないし・・」と二人でひそひそと話している。
私も妹も気が気でない。「何が問題なんですか?!」

母の介護には、介護ベッドが必需品になるが、グループホームのベッドは介護ベッドではない。
介護保険で借りているレンタルベッドは、規則があり使えない。高額なベッドを買ってもらうしか方法がないという話だった。
「買います!ベッドは買います!」私は、ほとんど叫んでいた。
妹「30万以上もするんだよ」
母の身の安全と確かな介護を確保するためなら30万なんて問題にならないじゃないかと思う。万一父が渋るなら私が出す。
「では保証金20万(退所時に返却)の入金の確認とベッドの搬入が終了し次第、入居して頂けます。」


<このグループホームについて>
1フロアーに入居者9人。3階建てなので合計27人。全個室(6畳)。
月々の費用は、家賃約10万円+介護保険負担分約2万8千円+オムツ代など実費。











8月の介護4日目(後編)父の事務能力 回転寿し 老健

帰宅すると父がダイニングテーブルで何十という郵便物の束を整理をしている。
見ていると、封も切っていない重要書類もダイレクトメールも一緒に分類されている。
分類になっていないのだ。
重要なものだけ(全て未開封)を抜き取って「これは金庫に保管したら」と言うと「余計な口出しをするな!」
母は、沢山の証券会社、保険会社、金融機関に少しづつお金を貯めていたようだ。
その何がどうなっているのかは、全くわからない。父にも。1つ1つ電話をし、確認、整理していくしかないのだろう。
父の意味のわからない分類整理にも意味はあった。その郵便物の束の間から母の通帳が1つ出てきた。

その間にも督促と思われる電話がかかってくる。
「払わないって言ってる訳じゃない!家内が倒れて背骨を折って、今は、それどころじゃないんだ!」と怒鳴って一方的に切ってしまう。「どこから?」と訊くと「市役所だ。放っときゃ取りにくるだろ」
「お父さん、忙し過ぎるから。請求書出してくれたら、私、全部支払いしてくるよ」
「俺が全部やるからいい!今まで俺が一度の間違いもなくきちんとやってきたことだ!問題ない!」
妹に訊くとあちこちから色々な督促が来ているようだと言う。

母が、一泊したデイサービスから帰宅する。夜はやはり頻繁にトイレに起こしたそうだ。
私「夕べ、寝てないのに、一日お仕事だなんて・・。本当にご迷惑お掛けしてすみません。」
職員「迷惑だなんて!私、○○さん大好きですから!いつでも引き受けます。無理しないで下さい」

母は、体の調子も頭の調子も良くないが、父が「お母さんの好きな回転寿司に行こう!」と言う。
せっかく行くのならもっと美味しい寿司屋にと助言したが「回転寿司、旨いぞ!」
私と父と二人で抱え上げるようにして車に乗せたり降ろしたりして、寿司屋には、車椅子のままカウンター席へ。
母は、終始無口無表情。
父「お母さん、何食べたい?」
母「トンカツ」
生まれて初めて見たが、トンカツののった寿司がそこにはあった。店の選択は正しかった訳だ。
父「他には、何食べたい?」
母「アイスクリーム」
父は、はるばる店員の所まで訊きに行き、残念そうに言う。
父「アイスクリームだけないって。他のものなら何でもあるぞ。ケーキ、ゼリー、プリン・・・」
私は、食事用エプロンとお手拭きを持って来るべきだったと後悔した。
店内では子どもの泣き叫ぶ声が響いていて、母は、顔をしかめた。
母は、「ちょっと!」と通りがかりの店員を呼び、何を言うのかと聞いていると「うるさいから静かにさせて」と言う。
店員は、母が認知症だとは気がつかなかっただろう。

帰るとケアマネからの資料がポストにあった。
老人保健施設(老健)を全部当たったが、一番早い所で1ヶ月半待ち。それは、どこもとても遠い所(山の中など)にある。
近い所で4~6ヶ月待ち。そんなに待つ前に、母は、確実に再び骨折で入院するだろう。

夜、突然、伯母(母の兄の妻)が来てくれる。
母の無表情は変わらないが、言うことが突然しっかりしてくる。
アナログ時計まで正確に読んだ。(奇跡!)
優しい伯母は、冗談を言っては、母をうっすら微笑ませてくれる。
別れ際、父が席を外した短い時間に、父も認知症で介護はできないと短く説明する。
伯母は信じられないという表情をするが、「施設を考えないとね」と厳しい顔をして帰って行った。
伯母の心労を増やすことばかりして本当に申し訳ないが、親戚で無理が言えるのは、伯母くらいだ。

寝る前、夫から電話が入る。「どうだい?」
一言も言葉が出て来ない。心は平静なのだが、この状況を短い言葉で何と言えばいいのかわからない。
「声が聞きたいと思ってたけど、電話する余裕なくてね」「まあ、体に気を付けて・・」
短い会話だったが、少しほっとした。
妹が居なかった最初の3日間は、一人ですべて抱え込んでパンクしそうだったけれど、妹に話し、施設の人達に話し、伯母に話している内に、私は、落ち着きを取り戻しつつあった。







8月の介護4日目(前編)兄の仕事 施設回り

朝、食器洗いをしている父を遠くから見ながら兄が
「オトーサン、イソガシイ、カワイソウ」と言って、通所施設に出掛けて行った。
しばらくしてふとゴミ出し表を見ると、「月曜可燃ゴミ」と書いてある。
「お父さん!大変!今日、ゴミの日だよ!」
母のオムツを入れたゴミ袋は、臭いが強過ぎると庭に出されていたが、恐らく近所中の迷惑になっているだろう。
父も私も慌てて庭を見るが、可燃ゴミがなくなっている。兄が出してくれたようだ。
「違うゴミまで持ってってない?」「いや、可燃ゴミだけだなぁ」
父はゴミの日を完全に忘れ、曜日に関係なく出していた兄が、ゴミを日を覚えた?!
兄は激変している。

グループホームの見学と申し込みのために、関西から戻った妹と二人でデイサービスに母を迎えに行く。
母は、6人位のグループの中で生き生きと楽しそうにおしゃべりをしていた。
「会いたかったよ~!!」とふざけた声を上げて抱きしめると「○○(妹)も。○○(妹)も」とせがむ。
「嫌だよ~ん」と妹がふざける。「まぁまぁ!○○さんの娘さん達らしいわ~!」と皆で笑っている。

母を連れてあるグループホームに行く。素晴らしくきれいな施設で驚く。
担当者から時間をかけて詳細を訊かれた後、「ここには歩けない人はいませんから」とはっきり断られる。
次のグループホームに行くと、アルバイトかと思った若い愛想のない施設長が出てくる。
歩けないこと、目が離せないことは、問題ないが、つい最近満床になったばかりと言われる。

妹「まただよ!本当に嫌になるね。・・○○ちゃん(私)疲れてるよ。一旦帰ろうか?もう一カ所行く?」
私「なるべく数当たろう」と私は言い、妹が電話で場所を訊き、次のグループホームに向かった。
母「今度は、どこに行くの~?ご飯食べに行く?○○の蟹は美味しいよ」
私「お母さんが毎日楽しく過ごせて、お泊まりもできる一番良い所を一生懸命探してるところだよ」
母「やっぱりコロコロ(毎朝泣きながら行くデイサービスを母はそう呼ぶ。)が最高じゃない?」

今度は中年の女性の施設長。「客室がないので」と1畳位の事務所に3人で入った。
親身に熱心に話を聞いてくれた。
レビー小形型認知症という病名を知らず、説明すると「勉強しますね」と言っていた。これは妹の行った多くの施設で言われたことらしい。
「本当に心配で、お困りでしょう。ここは、今は、満床なんですが、ここと同じ系列のグループホームが、市内に結構沢山あるんですよ。どこかに空きがないか訊いて、あればすぐにでもご連絡しますよ」

実家に戻って兄の施設に電話をする。
薬の件は了承してくれた。今後のことは、まずショートステイの日数を伸ばすことを勧められる。現在一人、両親共病気の人が、毎週5日のロングステイをしているという。
既に定員は一杯だが、特例として受け入れる。ただ早めに決めてもらわないと、どの親も老いているので、いつどんんな状況になるかはわからない。そこ以外の施設となると、福祉事務所に相談に行って欲しい。等々言われる。

母をデイサービスに戻し(すんなり帰った。)予約してあった時間に第一希望の特別養護老人ホーム(ショートステイで利用中。)に行き、相談をする。
「状況が変わったらいつでも相談に来て下さいって言ってたよ」と妹が言ったので急遽面接予約を入れた。

私は、状況をなるべく正確に、客観的に、簡潔に伝えようと思っていた。
しかし途中、何度も涙で中断してしまった。やはり私は、おかしくなっていると自分で思う。
担当者は、私が黙れば黙り、最後まで静かに聞いた。
「お父さんの診断書も必要になりますが、現時点で緊急度はかなり高いと判断されます。入居の優先順位もかなり上がります。それでもそれが半年後なのか、もっと短いのか、長いのかは、誰にもわかりません。
今、できることは、1つでも多くの特養(特別擁護老人ホーム)に申し込みをし、順番を待つということです。どこでも順位は高くなるはずです。
ただ、順位が来ても、人に迷惑をかけるような問題行動がある場合は、申し訳ありませんがお断りさせて頂く場合があることも覚えていて下さい。」






8月の介護3日目(後編)拒否 伯母 母の居ない夜

母をデイサービスに再び帰す。
「こんな所、嫌だ!なんで私ばっかりが、こんなに我慢させられて、こんなに辛い目にあわなきゃいけないの?!あんた、いったいどういうつもりなの?!」
母の頬に涙がボロボロこぼれている。
退院前のこういう母の様子は、妹から毎日聞かされていたが、私は、初めて見た。
何を言えばいいのか、わからず、私は、ただ呆然と立っていた。
職員が冷静になだめるが、母の怒りは増すばかりだ。
「あんた、なんで黙ってるの?!あんたは、何だって自分一人できちんと決められるじゃないの!」
・・・お母さん、もう私には、どうすればいいかわからないよ。自分が何をしているのかもわからないよ。なんでこんなにお母さんを苦しめているのかもわからないよ・・・。
涙が溢れ出して止まらない。「ごめんね。行くね」としか言えなかった。
(父と兄は、ずっと車で待っていた。)

帰宅して異様な疲れを感じた。夕食の支度までの30分、目覚ましをかけて死んだように眠った。

夕食後、伯母(母の亡き兄の妻)から電話。心配してくれている。
私「夜、(母が)全然寝なくてね。交代だけど、お父さん、辛そうで・・・」
伯母「やっぱりそう?私、一度、泊まりに行って様子を見てみようと思ってるの」
伯母の体を思って、それだけは絶対止めて欲しいと伝えるが、
「一泊だけだよ~。二泊も三泊もじゃ嫌だよ~」とカラカラ笑っている。

母のいない夜は、とても静かだ。
緊張が解け、神経が休まるのを感じる。母が車椅子で放置されているのを見た時から、私の頭は、少しおかしくなっている。

薬の仕分けの続きをする。母は甲状腺と肝臓の持病もあるので全部で10種類以上の薬を飲んでいる。
朝昼夕とに分けて、小さな小袋(百均で売っている。)に入れ、曜日別時間別に区分けされた大きな薬箱に詰める。
いつも妹がやってくれていることだ。妹の負担の重さを思う。
めちゃめちゃになっている引き出しの中も整理する。

先月、ある程度整理したはずなのに、またあらゆるものが混ざっていて何がどこにあるのかわからない。
20年も30年も前に私が出した手紙も最近来た督促状も封も切らずにごっちゃになっている。
保健証券も病院の診察券も何もかも脈絡なく混ざっている。
保険証など重要なものは、皆再発行されて、何枚もある。良く見て、必要のないものは捨てる。
前回の帰省まで、この混乱は、母の頭の混乱を表しているのだと思っていた。
これは、父の頭の中でもあったのだ。
父は、兄がグチャグチャにするのだと言っていたが、どこまでが本当かわからない。

この夜も1時間毎に目が覚めるが、階下に母は居ないので様子を見に行く必要もなく、安心してすぐに再び眠った。






8月の介護3日目(前編)思いやる母 納得の通所 グループホームへ

午前4時前、怒鳴り合う声で目覚め、居間に下りて行くと、母はすっかり目覚めている。
「早く支度して名古屋に行かなきゃ!」と昨日と同じことを言っている。
父「今日は、名古屋なんか行かないって、何回言えばわかるんだ?!」
私が交代するから2階の寝室に行くように父に言うが「もういい!ヤケクソだ!ここで寝るからいい!」
私は、母のベッドに入って隣に横になり、母と話し始める。
話しているうちに、支離滅裂だった母の頭は、徐々に正常だった頃に戻っていった。

母「○○(妹)が良くやってくれてて本当に助かってるよ」
私は、その一言で突然感情を抑えられなくなる。・・・そうだよ。○○は頑張り過ぎて、もう限界・・・
母は、私の頭をゆっくりとなでながら優しい声で言った。
「泣かないで。泣かないで。あんたは小さい時から泣かない子だったじゃないの」
母は、私の頭をなで続ける。昔通りの柔らかい口調。
「あんたは、いつも人のことばっかり心配して・・・。私と性格が似てるんだね。自分のことも大切にしないとね」

母は、朝になっても歩けなかった。もう一人では、支えて立たせることも不可能だ。
父と二人で支えて、やっと昼用パンツ型オムツに代えて、着替えさせる。
ひどい腰痛を感じる。父に「腰は大丈夫?」と訊くと言葉を濁す。痛いのだろう。

この日は、デイサービスに一泊するように退院前から予約してあった。
自宅での5泊連続滞在の真ん中に休憩のために入れてあった。
デイサービスのお迎えが来る5分前、そのことを説明し始める。
母は、ギョッとして「また行くの?!嫌だ!行かないよ!」と大声を出す。
父も私も睡眠不足で辛い。一泊してきてくれる間にゆっくり寝て、また元気を取り戻して笑顔で迎えるからと話すと無表情のままじっと聞いている。
「お母さん、辛いと思うけど、私とお父さんのために行ってくれる?」
「わかった。本当は行きたくないけど、行くね。ゆっくり休んで」
母は、無表情のまま、静かに車椅子で車に乗り込み、無表情のまま手を振った。

母と過ごせる貴重な時間を自ら手放してしまったという後悔の気持ちと、少し心と頭を整理して、あと4日間でできることを考えなければという思いが同じ位強くあった。

母を送り出してすぐ、昨日紹介されたグループホームに電話をする。
見学と申し込みをしたいと伝えると、年金が振り込まれていることを証明するもの(通帳や葉書など)や介護保険の保険証などを持ってくるよう言われる。本人との面接も必要という。

父に伝えると「そんなものはない!」と言う。
「ないって言ったらないんだ!通帳も行方不明だし、葉書もない!保険証もない!」
(父には、何がどこにあるかという記憶がほとんどない。)
デイサービスにならコピーがあるはずだと言われ、デイサービスに電話をしてコピーのコピーを用意してもらい、母を一時的に連れ出すことを伝える。
年金の証明の代わりに、父は、財産証明のようなもの(?)を持った。
私は、父の認知症と介護困難を簡単に説明するメモを書いてカバンに入れた。

とにかく急がなければ。
妹は、あるグループホームで「あと数日早く来て頂ければ入居できたんですが・・」と言われている。
「あんな遠い所に通えるか!問題外だ!」と怒る父を「ほんのしばらくの間だけだから。これ以上徹夜が続いたらお父さん、倒れるでしょう?」と説得しながらまず母を迎えに向かう。
35度近い暑さの中、自力で立てない母を車に乗せたり降ろしたりするのは思ったより大変だった。
でもそんなことを言っている場合ではない。

行く途中、父の運転が、危険極まりないことがよくわかった。

兄も行きたいと言うので4人で押し掛けたが、面接はすぐに終わった。
私だけ接客室から出され、施設長から言われた。
「ここには歩ける方しかいません。グループホームは、共同生活の場であって、介護中心の特養(特別養護老人ホーム)とは違います。お母さんが入るべき所は、特養だと思います。
お母さんのように歩けず、目も離せないというような方を受け入れるグループホームなんて、どこにもないと思いますよ。」
(この発言が正しくない事は、後々わかるが、この瞬間には、死刑宣告のように受け止めていた。)


8月の介護2日目(後半)笑顔のない母 食べさせたがる父

母は、歩行は無理ということで車いすでデイサービスから帰って来た。
職員は、沢山の段差のある玄関などをスイスイと乗り越え、車からベッドまで直行した。
車いすにあんなことができるなんて知らなかった。
(私は、特別養護老人ホームで働いた経験がほんの少しだけあるが、特養に段差は全くない。)

職員「お母さんは、”認知”じゃありません。記憶があります。だから(デイサービスに行くことに関して)嘘はつかないで。”また私をだました”って言いますから」
嘘をついた記憶はないが、「デイサービスに行って」と説得もしていない。明日は、説得するか。
確かに母に「何でも忘れる」という症状はない。それは、初期からずっとそうだった。
忘れた方が楽なこと(自分の言動の問題)も覚えていて悲しがることが多い。

母は、体の動きの悪い時は、大抵頭の動きも悪い。
帰宅した母は、ほとんどしゃべらず、感情など全くないかのような無表情。話しかけてもあまり反応しない。

そんな時、ケアマネが、最近出来たばかりのグループホームで、まだ空きのある所が見つかったとチラシを持って来てくれる。
父に「どう?」と訊くと、「そんな遠い所(車で40分)じゃ話にもならん!」と興味も示さない。
しかし母の安全を守るためには、どんなに遠かろうが入るしかないのだ。
グループホーム間の変更は容易だとケアマネに確認は取ってある。
特別養護老人ホーム(特養)は、一度入ったら変更は、ほとんど無理だそうだ。
より近いグループホームに移り住みながら、希望の特養の空きを待つしかないだろう。

夕食を食べ始めてすぐに父が「お母さん、パン食べるか?」と菓子パンを持って来る。
母は、お菓子やパンが大好きだ。見れば食べたいと言うに決まっている。慌てて隠す。
父は、一日中頻繁に母の手を握っては「○○、大丈夫か?何か食べるか?」と優しく訊く。
母は、大抵甘いものを食べたがり、父は、時間に関係なく際限なく食べさせようとする。
父「食べたい時に食べたいものを食べることのどこが悪い?!」

母は、食後すぐに眠ってしまう。「なるべく遅くまで起こしておかないと大変だよ」と言っても
父「寝かせておけ!お母さんは、あんまり寝てないんだ。疲れてるだろう。休ませてやれ!」

母の笑顔を1度も見ることなく1日が終わろうとしている。
介護で最もキツいのは、抱え上げることでも、ウンチの処理でもなく、笑顔が見られないことではないかと、その時、思った。母の無表情は、こたえる。

9時過ぎに目覚めた母は、訳の分からないことをブツブツ独り言のように話し始める。
ふと「あんた、明日、四谷に帰る?」と目を合わさずに言う。(これも症状。)
先月までは、私の住む街の名前を覚えていたのに・・。
父は、母の独り言に一々真面目に反応する。
父「何だ?!何して欲しい?!」(父の声はいつでも大きい。)
母「そんなに怒鳴らないで!」(ヒステリックな悲痛な声。)
父「何だ!怒鳴ってなんかいないじゃないか!!」(怒鳴っている)

優しく「そうだな」と返事をするか、返事をしないかのどちらかにしてくれと父に言って、私は、2階の寝室に上がった。
この夜から母の睡眠導入剤は止めた。
母は、一晩中、亡くなった祖父(母の父)祖母(母の母)伯父(母の兄)に会いたいと言っていたらしい。
やはり30分毎に起こされたと言うが、それ以上の記憶は父にはなかった。

8月の介護2日目(前半)精神科で3人の相談

朝、母の希望でトイレに連れて行こうとしたが、半メートルで諦めベッドに引き返す。
母の体のバランス、足の動きは、極端に悪く、これでは私一人で支えることなどできない。(父は早朝から仕事に出ていた。私が居ると安心するのかすぐ居なくなる。)
ベンザリン(睡眠導入剤)を2錠近く飲むと母はこうなるのだとはっきりと知る。
ベッドで朝食を取ってもらう。

母を座らせ、夜用オムツを昼用のパンツ型に代えようと脱がせた途端、大量の排便(軟便)が始まる。
母は一人では立てないし、とにかく文字通り必死でお尻を拭く。母はきょとんとしている。
数え切れない程のお尻拭き(市販)でどうにか拭き終わるが、今度は、パンツ型オムツをはかせることがどうしてもできない。母は、立てないのだ。

そこにデイサービスのお迎え(この日は運悪く女性一人)が来た。事情を話し、ベッドのある居間まで来て手伝ってもらう。
母は、スタッフの顔を見た途端「嫌だ!行きたくない!嫌だ!」と抵抗を始める。
泣いて叫んでしゃがみ込む母を女性スタッフと二人で車まで抱えて運ぶ。
50キロの母が100キロに感じた。
スタッフの顔からも汗がポタポタ垂れていたが、私も服が汗でずぶ濡れになった。
母には申し訳ないが、母の気持ちに寄り添っている精神的、肉体的、時間的余裕はなかった。死に物狂いで送り出し、私には、行かなければいけない所がある。

午前中、兄の精神科受診予約をしていた。(帰省前に自分で電話して予約した。)
兄を連れて行って脳波などの精密検査をしてもらうつもりでいたが、事態が変わったので私一人で行く。
(兄と行けば「遅イ!帰ル!」と騒ぎ出して、ゆっくり話すことはできない。)

最初に3人のことを相談しても良いかと訊くと「本当は、規則違反だけどね」と渋々OKが出る。

<兄>2度も倒れたのは、薬の飲み過ぎや飲まな過ぎのため。(以前は母が薬の管理をしていた。その後は父に頼んだがダメだった。)通所施設に行っている昼間に影響の強い薬を飲むように処方が変わる。

<母>睡眠導入剤(睡眠薬/眠剤)は色々あるが、昼夜逆転の生活を直さない限り、効果は出ないだろうと言われる。
「それが簡単でないこともわかるけどね。でも一度薬を止めてみて、2~3週間、生活リズムを作る努力をしてみるというのも1つの手だよね。その方が(副作用の)リスクもないし。」
父の運転で名古屋に通うことは危険なので、もしレビーに詳しいのなら主治医になって欲しいとも伝えるが、「詳しくはないよ」と正直に言われる。

<父>症状を説明。「アルツハイマーだと思われますか?」
「本人と会ってみないことには、何とも言いようがないけど・・進行が早いね。何か他の病気が隠れている可能性も否定はできないし、とにかく一日も早く受診することだね。」
私は、先月、父に「お父さんは認知症だよ」と言って激怒されたことを話した。
「本人も内心は不安が結構あるからね。その弱点を正面から突くというのは、一番まずいやり方で、拒絶は当然出ちゃうよね。」
一番良いのは、母が受診する時に『ついでにちょっと検診してもらう』という形だと言う。
「親戚皆集めてエイヤ!って無理矢理連れてくっていう方法もあるけど、これはこれで難しいし、怪我人も出たりするしね」
「とにかくなるべく早くお父さんを介護サービスに繋げること。お母さんはもちろん、将来のお父さんの行き先、お兄さんの行き先をすぐにでも探し始めないと、あなたたち姉妹の介護負担は、際限なく増えていくよ。すべて早め早めに動いていかないとね。皆、共倒れになる前に」
「それにしても、毎月○○から通ってるんだよね?あなた自身の家庭は大丈夫なの?」
(・・・正面から突かれてしまった・・・。)

帰宅してすぐ、父に伝える。
「院長先生言ってたよ。お父さんみたいな睡眠不足の介護者は、脳の疲労が激しくて、物忘れが出たり、色々な病気になりやすくなるんだって。(ここまでは私の出任せ。)院長先生が、お父さんも一回脳の健康診断をしてもらった方がいいよって。ねぇ。念のために一回やっておこうか。」
「ん」と父は、イエスともノーとも取れる曖昧な返事をして、また仕事に出掛けて行った。
この日から父には毎日言い続けたが、私の帰省中に病院に連れて行くことはできなかった。
名古屋フォレストクリニックには電話で問い合わせたが、母と同日に予約を入れる事は無理と言われた。土曜日の新患予約は、早くて10月だそうだ。

この日、兄がショートステイから帰宅。顔を見てほっとする。
やっと昔のままの「正常な」家族と会えた。(重度の知的障がいと言語障がいは、私たちにとっては「正常」であり、「普通」だ。)
また髪が伸びているので、兄の承諾を得て私が切る。剃り残しのひげ(2センチ以上)や鼻毛も。
見違えるようにさっぱりした兄に「カッコ良くなったねぇ!」と言うと、とても嬉しそうに笑う。・・救われる。

この日の午後も父の記憶違いから様々なトラブルが起こる。
父の言うことをそのまま信じた私は、その後始末に追われた。

兄の通う通所授産施設にも手紙を書いた。倒れた原因、昼の薬を管理して欲しいこと、父がほぼ間違いなく認知症であること(母のことは既に伝えてある)、父が兄の面倒をみれなくなった時、兄の行き先としてどういう選択肢があるのかということ。一度ゆっくり相談したいと書いた。(PCがないので時間がかかった。)

まだまだやらなければいけないことは沢山あったが、もう母が戻って来る時間だ。



8月の介護1日目(後編)ケアマネに相談 母眠らず

母の歩行は、前回の退院時(歩行困難)よりは良かった。
歩行器を使い、一人が支えれば何とか前に進んでいける。
(リハビリスタッフが、優しいイケメンの男性の時は、見違えるように良かったと退院前、妹は言っていた。)
幻視(幻覚)はないが、意味のわからないことをよく言い、表情は暗く、怒りっぽさ、涙もろさが目立つ。
「お兄ちゃんはどこに行っちゃったの?」と何度も不安そうに訊いては、「あっ。さっきも訊いたっけ?私、どうかしてるね。バカになっちゃった。もうダメだね」と顔を歪める。

先月ある程度整理したはずの室内は、またひどく混乱し、先月揃えた介護用品も色々なくなっている。
「お父さん、○○は、どこにやったの?」
「知らん」そんなものがあったかという表情。
何を訊いても、それ以外の答えは返って来ない。父に訊くのは無駄なのだとわかる。

夕方になり担当ケアマネとこれから入る予定のヘルパーさん(主任)が来る。
ケアマネも熱心な人だが、ヘルパーさんも「この人さえ居れば百人力」という感じの人。
二人で盛んに母に話しかけ、盛り立て、母は、初めて母らしい笑顔と茶目っ気を見せる。
「○○さん、また元気になって大好きなお父さんと一緒に旅行に行けるといいねぇ」とケアマネ。
「もう無理・・・」と悲しそうに答える母。
「行けるよ・・!行けるよ・・!」私が母の手を握り、目を見て真剣に言うと、母は目を丸くして見せ、それからとても嬉しそうに笑った。

私は、隣の部屋でウロウロしていた父に用事を頼んで外出してもらい、その間に父の現状を二人に説明した。
二人とも顔色を変える。すぐにそれに対応する応急の策が次々と出てくる。
ケアマネは、一日でも早くどこかに入所できるよう、今度は、老人保健施設(老健)も当たってみると言う。

二人が帰ると母は、また暗い無表情に戻り、アナログ時計を見つめている。(母は時計が読めなくなって久しい。)
母「あぁ、もう3時だ。早く出発しないと」
私「お母さん、今は6時半だよ。(デジタル時計を見せる)」
母「(怒って)それは○○(ある地方の名前)時間!私は、○○(故郷の名前)時間の話をしてるの!」
私「○○と○○は、時間が違ってるの・・?」
母「あんた、何言ってるの?2時間違うじゃないの。・・そんなこと、人に絶対言っちゃダメだよ。笑われるよ」
昔の母のように、真剣に、諭すように母は私に言った。

しばらくすると父が、私に「ポリデント、捨てといたぞ」と言う。
「なんで?」
「お母さんが捨てろって言ったからな」
「・・・お母さん、認知症なんだよ・・・」
父は、すぐゴミ箱を漁り「おぉ、あった、あった。何ともないぞ。」

夜、10種類の薬の仕分け(朝昼夕用)をしながら母に昔の思い出を訊くが、辻褄が合わないことばかり言う。
しかし何十年も前の話をする時は、生き生きとした表情が出てくる。別人のようだ。
(薬の仕分けは、いつも妹が1時間もかけてしてくれている。間違えてはいけないし、手間のかかる仕事だ。)

母がウトウトし始め、その顔を見ながら今後のことを考えるとパニックになりそうになる。
たった6日間で、私に解決できる問題か・・・?!
今は、何も考えまいと思う。『明日落ち着いて考えよう』

前回と同じように父と私と交代で母の横に寝ることにする。初日は、父の希望で私が。
母は、不安が強いと判断してベンザリン(睡眠剤)を4分の3錠飲ませるが、全く効果なし。
母は、一晩中「お母さん、助けて!お義姉さん、助けて!」と言い続けた。
「困った!どうしよう!困っちゃったよ!どうしたらいいの?」と泣く。
落ち着かせようと抱きしめると「暑苦しい」と言い、体をさすると「痛い」と怒る。
「どうやって助けたらいいの?」「わからない」
「何が恐いの?何が困るの?」「わからないよ」
夜中にもう1錠追加で飲ませてみるが、まったく効かない。
朝、4時頃からは、はっきりと覚醒し、「さぁ、早く起こして!名古屋に行く支度をしなきゃ遅れちゃうじゃないの!」などと言い続け、なだめようとすると怒り「あんたを一生恨んでやる!」などと言う。

排尿の量は、7月に介護した時の4分の1くらいになっていた。
汗で減るのか、7月が異常だったのかは、わからない。
腎臓に異常がないか、様子をみなければと思う。

そして朝になり、母が、全く歩けなくなっていることを知る。
(おそらく薬の副作用によって)





8月の介護1日目(前編)父の判断能力

朝、妹(この日から3日間用事があり出掛けている。)から連絡が入り、父の仕事の関係で、急に退院が3時に延びたと聞く。
私は、予定通り昼には故郷に着き、生まれて初めてバスで実家に帰った。今まではいつも母か父が駅まで車で迎えに来てくれていた。それが当たり前かのように・・。

一時でも早く母に会いたかったが、待つということができなくなった母は、私の顔を見れば「今すぐ帰る!」と騒ぐだろうと予想して、先に実家に帰った。
実家の冷蔵庫の中身を見て、やはり愕然とする。新しくない大玉キャベツが2つ、生姜が4袋。他のものは、ほとんど腐っている。肉も魚も何もない。賞味期限の切れたものばかり・・。
どういう食生活をしているのか想像ができない。
スーパーに行って、必要なものを買い揃えた。

仕事から戻った父を見た時、何かが変わったと感じた。生気が弱ったような・・。
父の運転で病院に向かう。ろくな安全確認なしで突然車線変更をする。
駐車禁止の病院の正面玄関前に車を停めて、車の鍵もかけずにさっさと下りて行ってしまう。
慌てて追いかける私が何を言っても「つべこべ言うな!」

病棟に着くと母は、ナースステーション(そこで監視されている。)で泣いていた。
「お母さん!私だよ。どうしたの?」
「だって泣けるんだもん!」母は、子どものように泣き続けている。
父は支払いを済ませると、挨拶もせずに車椅子の母を連れてエレベーターで下に行ってしまう。
(もともとせっかちで常識に欠けるところがある。)

私は、慌てて担当ナースに入院中の様子を訊いた。
尿意、便意はなし。
夜の危険行動はないが、オムツを外して投げることはある。
睡眠導入剤は半錠使用。
だが目を覚まして一人で独り言を言っている時が多い。
日中は、泣いていることが多いが、看護士に対して怒ることは、ほとんどない。(父や妹にはよく怒っていた。)
お礼を言い、慌てて父母を追いかけてエレベーターに乗った。

エレベーターが開いた瞬間、自分が見たものが信じられなかった。
そこには、車椅子の母が、一人で放置されていた。ブレーキもかけられていない。
「・・お父さんは・・?」
「コンビニにおにぎり買いに行ったよ」
何分か経った後、父は、コンビニの袋を下げて平然と戻って来た。
「どうして(転倒骨折の危険性の高い)お母さんを一人にしたの?!」
「お母さんが、おにぎりが食べたいって言ったんだぞ」
父は、不思議そうに言った。

デッドエンド(行き止まり。行き詰まり)だ。
すべて終わりだ・・と思った。
介護能力の高低の問題ではない。父には、既に判断能力がない。
初期の認知症だとは思っていたが、こんなことになっているなんて考えてもみなかった。

帰りの車の中で、私は、何も考えられなかった。
父は、母におにぎり2個を食べさせろと私に言い、私が制すると母が、怒った。
「食べたい時に食べたいものを食べさせればいいんだ!」と父も怒鳴る。
「お母さん、サンドイッチもあるぞ。食べるか?」父は嬉しそうに母に訊いた。


無事戻りました

今日、無事に戻りました。
やはり睡眠不足でフラフラではありますが・・。
(母は、相変わらず夜は、ほとんど寝ません。)

今回の6日間の(遠距離)介護は、どん底の気分からスタートしますが、好転していきますので、あまり心配なさらないで読み進めて下さい。
前回と同じように、やはり時間に沿って書いていこうと思っています。

どん底気分の時は、もうブログを書くのも止めようと思ったのですが、同じような体験、苦労をされていらっしゃる方も大勢いらっしゃるのではないかと思い、まだ続けていこうと思いました。

ただこれから書くことを万一悪用されてはいけないと思い、あえて詳しく書かない部分も出てくると思いますが、ご了承下さい。

酷暑、まだまだ続いています。
皆さんも、皆さんが介護されていらっしゃる方々も、どうぞお元気でいらっしゃいますように・・・!

しば




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しば

自責に良いことなし 帰省時兄の主治医に予約

貴重な体験を綴ったコメント、本当にありがとうございました。
あのコメントは、介護をするどんな方にも励ましになると思います。
お陰様で、私も我に返りました。
自責に良いことは何もありません。止めます。

昨日、実家のある街にある精神科の病院に電話をして21日に兄の予約を入れました。(予約変更)
兄に大声の独り言や感情の爆発が起こるようになって以来(十数年前?)母が連れて通っていた病院です。
主治医の院長先生は、本当に良い方で、兄の相談を受ける形で、母にもカウンセリング(精神的支援)をずっとして下さっていたようです。(受診者は兄。でも母の方が悩みを聞いて頂けて心が軽くなったようでした。)

母に「お母さん、レビーっていう病気じゃないかなぁ」と誰よりも先に仰ったのが、この院長先生でした。
私と妹は、母からその話を聞き、初めてレビー小体型認知症という病名を知りました。
兄が7月に最初に倒れて「大きな病院で精密検査を」と言われ、この病院を訪ねた時、私は、初めて院長先生にお目にかかりました。
兄がごく普通の人であるかのように、自然に親しげに接して下さっている姿がとても新鮮で印象的でした。
(兄に対して普通の人のように接する人というのは、私の記憶の中には、殆ど居ません。家族や親戚を除けば。)

前置きが長くなりました。21日には、この信頼できる先生に、兄のこと、母のこと、父のことを色々伺おうと思っています。兄が倒れた原因も突き止めたいです。
これが、昨日の「嬉しいニュース」です。

私は、今日の朝には自宅を出発して実家に向かいます。
今日、母が、4度目の骨折入院から退院します。
先月の帰省時にも書きましたが、実家にはPCがないので、残念ながら帰省中は、記事を書くことも、コメントを読むこともできません。
(余談ですが、あの好奇心の強い、器用な父 ―普通の人なら業者に頼むようなことを何でも自分でやってしまう― が、PCだけには手を出さなかったのは、今でも不思議です。74才というのは、そういう歳なのでしょうか?)
私は、25日に自宅に戻る予定です。
母と過ごせる一分一分を大切にしたいと思っています。

厳しい暑さは、まだまだ続きます。
皆さん、どうぞお元気でいらして下さい。

では、行ってきます!

しば



施設入所決断の遅れ 

今、妹は、市内中のグループホームに見学に行き、片っ端から申し込みをしてくれている。
あまり良い印象を受けない所も色々あるようだが、「選んでる場合じゃないよね」と言う。
勿論、空きのある所などない。(特別養護老人ホームの何百人待ちとは違い、数人待ちという所が多いが。)

妹は、9月1日には再就職する。
そうなれば朝晩実家に行って母のデイやショートの準備や送り迎えをすることはできなくなる。
(認知症が疑われる父の準備は全くおぼつかないし、送り迎えの時間でも仕事の電話が入れば車で飛び出して行く。
9月からその時間帯は仕事をしないと父は断言しているが、私も妹も信じていない。仕事は、父の生き甲斐であり、仕事のこととなると我を忘れる人なのだ。)

ケアマネは、9月からは朝晩1時間ヘルパーを入れて妹の代わりをさせると決めたが、それでも安心できない妹は、施設探しに焦っている。
9月は、ショートステイも可能な限り増やしたようだが、母の在宅の間、父が眠れない日は続くだろう。
父は、元々夜中に一度も起きることなく朝まで熟睡するタイプで、睡眠不足には、昔からとても弱い。
父が目を離したすきに母が再び転倒骨折する可能性も限りなく高い。

一連の状況を妹から聞きながら、自分の判断ミスを痛切に感じる。
母の言うことが支離滅裂でまともな会話も成立しなかった6月、私は、母を施設に入れるように父と妹を説得した。(それは、私にとっても、今までの人生の中で最も辛い選択だった。)
しかし結局、父も妹も「できる所までは自宅で介護をしてみて、どうしてもダメだったら、その時、施設入所を考える」という方向に変わった。その決意は固かった。
そして私自身、時々認知症ではないかのように普通に会話ができるようになった母を7月に見て、決断が揺らいだ。
父も妹も(多分、兄も)限界だと十分わかっていながら、「どうします?」というケアマネの問いに「施設入所でお願いします」とすぐ答えられなかった。
名古屋フォレストクリニックに行きさえすれば、もしかしたら劇的に良くなるかも知れないという望みもあった。

私の完全な判断ミスだ。
施設入所など必要ないと思っている時期から、あちこちの施設をじっくり見学して回り、予約をしておくべきだった。入所できる順番が来ても、必要なければキャンセルすればいいだけのことではないか。
母を預かってもらう所が、どこでも良いはずがない。絶対に厳選したい。
今になって慌てて探しても、もう遅過ぎる。

とは言え、妹とケアマネで厳選したはずのデイサービスもショートステイも母は行くのを嫌がっている。
母は、どんなグループホームを選ぼうと嫌がるだろう。
ある時は、泣き、ある時は、父や妹をなじるだろう。ある時は「こんな所は私の居るべき所では全くない」と理路整然と言うだろう。
それとも、これも私のただの勝手な推測で、母は、グループホームで穏やかな日々を送れるようになるのだろうか?
わからない。全くわからない。





翌日には発言も激変 振り回される家族

妹が、整形外科の主治医と面接した。
母の骨は、既にボロボロで、転べばもちろん折れるが、何もしなくても重力で徐々に潰れて圧迫骨折になると説明を受ける。
そんな状態になっているなんて全く知らなかった。そうなる前に手は打てなかったのか?
妹「もう治療のしようもないんだって。どんどん寝たきりになっていくってことだよね?」

母は、父に対しては「退院するから、今すぐ連れて帰って!」と言ってきかない毎日。
父「”○○先生の退院許可が出てるから”とか。全く!詐欺師みたいな見事な嘘をつくぞ。」

しかし妹に対しては、数日良い状態が続いていた。
今日も良いだろうと期待して行った妹を待っていたのは、昨日とは180度違うことを言う母だった。

母「私、今度、家に帰ったら、もう2度とコロコロも京都も行かないの。(デイサービスとショートステイに付けた母独自の名前。)あれ?もう1個何かあったっけ?う~ん・・おにぎり?・・違うの?・・まぁ何でもいい。
とにかくもう絶対に行かないの!!死んでも行かない!!私は、ずーーーっと家での~んびりするの。」
妹「・・・昨日は、”施設に入れて”って言ったの・・忘れた?」
母「あぁ。あれはね、ちょっとカッコ付けただけ。へへ(照れ笑い)」
妹「家には誰も居なくなるよ。お父さんは仕事に行っちゃうよ。お母さん一人でどうするの?」
母「私は、自分のことは、何だって自分でできるもん!」
妹「一人で転んでまた骨折したら、どうするの?」
母「玄関まで行って”助けて~!”って叫んで人を呼ぶから大丈夫!」
妹が、母に、デイとショートに行くように説明する。
母「なんで私が、そんな所に行かなきゃいけないの?!なんで?!行かないって言ったら、絶対行かないの!!」
妹が、話題を何度変えても母は、この話に戻り、1時間以上話していたらしい。

夜の電話で、それを聞いた。
私「お母さんとまともにやり合ったってしょうがないんじゃない?それじゃ漫才だ・・」
妹「私だって、お父さんには言ったよ。”お母さんは、認知症なんだから、一々まともに取っちゃダメって。あぁ、そうだなって受け流せ”って。でもね、”あの”お母さんに実際に会っちゃうとダメなんだよ。○○ちゃん(私)も来たら良くわかるよ」

「お前が財布を盗った!」と毎日長時間責め立てられる家族と同じような状態だろうか?
(母には、物盗られ妄想は、1度位しかない。入院中、看護士がお金を盗むと言っただけだ。)

母は、電話で私と話した時、父のことを頼んだ。
母「お父さんに仕事を減らすように言ってやって」
私「言ってるよ。ずーっと言ってる。でも、お父さん、聞かないの」
(父も「徐々に減らす」と最近になって初めて言うようになったが、減らしている気配はない。)
その後、2言3言話すと、すぐに「もういい」と妹と代わる。
調子が良くないと、母の会話は続かず、すぐ「もういい」になってしまう。
私は、いつももっと長く母と話していたいと思うのに・・。

2転3転したが、母の退院は、20日と決まり、私は、20日から25日まで帰省して介護をする予定だ。


退院迫る  母の決意

母は、その後も妹が訪ねる時にも、いつも落ち着いているらしい。
もちろん時々おかしなことは言うが、会話も普通にできるのだという。
私「(名古屋で処方された)アリセプトが効いてるのかな?」
妹「毎日変わるし、環境の変化でも変わるし・・もうどの薬の何がどう効いてるかなんて、医者じゃないんだからわかんないよ。」
名古屋フォレストクリニック宛に作った手紙(ファックス)は、破棄した。慌てて事を進めなくて良かった。

前回の入院の時のような夜間の問題行動(便のついたオムツを外して投げる。ベッドから転落する。叫ぶ。等々)もなく、何度も目は覚ましているようだが、静かに独り言を言っているそうだ。
名古屋フォレストクリニックで処方された睡眠導入剤(ベンザリン)は、「9時に起きていれば飲ませ、寝ていれば飲ませなかった」と看護師は、妹に説明した。

体の状態は、やはり日による変動が激しく、今日(16日)は、前回の退院直後のような状態。支えられれば何とか立てるが、歩行はかなり厳しい。本人の気付かない便失禁も何度かあったそうだ。

15日(日曜)の夜には、父の発言で、また小さな混乱が起きていた。
父「今日、行ったらなぁ、退院は、月曜とか何とかって看護婦が言ってたぞ」
妹「それって明日退院するって意味?!それとも23日のこと?!」
父「さぁ~?明日ってこと、あるか?23日だろ?」
大切な連絡は全て妹にと、病院には伝えてあったのだが・・。

再び退院日を巡ってケアマネと連絡を取り、退院後のショートステイやデイサービスの予約について話し合う。
私も職場に帰省の日程をずらすように頼んだ。

妹が今日(16日)病院に行くと、
「もういつでも退院して頂いて結構です。いつにしますか?」
今日明日退院されてもショートもデイも使えないので困ると説明すると
「家で世話できないから入院を延ばすということはできません。」ときっぱり断られた。
明日、妹が、整形外科の主治医と話して退院日を決定するということになった。

この日、父は、午前中に母を見舞い、二人で怒鳴り合いの大喧嘩になったという。原因は不明。
父「あいつが怒鳴るから、こっちだって怒鳴り返すに決まってるだろ!」
先日の物わかりの良さは、跡形もない。

しかしその喧嘩をきっかけに、母は、驚くべきことを妹に伝えた。
母は、終始落ち着いて、静かに言ったそうだ。

「今日、またお父さんと喧嘩しちゃった。もう喧嘩はこりごり。お父さんの怒鳴り声は2度と聞きたくないの。
・・お父さんには、無理。あんな気の短い人に、私の世話は無理だよ。やっぱり頼りになるのは、あんただけ。
私を施設に入れてくれる?
もう喧嘩はしたくないの。施設に入るには、契約書を書かなきゃいけないんだけど、どうしたらいいの?
あんた、私の代わりに書いてくれる?・・・そう。頼むね。ありがとう。」
そして父から電話が入ると優しい声で何度も言ったという。
「お父さん、さっきは、ごめんね。」






親を看取る(介護する)ということ

人から介護の経験談(知恵)を聞きたくて、「母が認知症で・・」という話は、比較的多くの人にしている。
しかしレビー小体型認知症という病名を知る人は、ほとんどいない。(最近、何度かテレビで取り上げられているようだが。)
幻覚(幻視)が出る認知症だと説明すると「祖父も晩年、蛇がいるとか言ってたわ」などと言う人は多い。
中には「身内には一人もいないから、認知症の人って1度も見た事がないし想像もできない」と言う人もいる。
「祖母が認知症だったけど世間体を気にして父は必死でそれを隠し通した」と言う人もいた。

アルツハイマーのお父さんの遠距離介護をしている知人は、夫婦2人で住む実家の市内に兄弟も親戚も誰もいないと言う。
5分経てば全てを忘れるお父さんは、食後になると「お前は俺に飯も作らんのか!」と言って、介護しているお母さんを殴ったり蹴ったりするそうだ。
やはり昼夜逆転で、要支援に認定されたお母さんもそれに合わせた生活をしているという。

別の知人は、毎日徘徊して行方不明になる姑を探す日々を送ったという。辺り構わず便を塗りたくり、夜も起こされ続け、自分が過労と心労で死ぬか、姑を殺すかと思い詰めた時、姑が病気で入院したそうだ。

ネットで調べると、レビー小体型認知症は、一般にアルツハイマーよりも進行が早く、身体介護も長期になる分、アルツハイマーよりも介護は過酷になると書いてあるものがある。
しかし色々な人の話を聞くと、母の介護の方が楽なのではと思えてくる。

逆に、アルツハイマーでも夫婦で仲良く穏やかに暮らしている例も本(親の「ぼけ」に気づいたら 文春新書。とても役立った良書)で読んだし、かなり進行したアルツハイマーでも何とか一人での生活を続けている独居老人は多いともケアマネをしている友人から聞いた。
一口に認知症・認知症介護と言っても百人百様なのだろう。

介護を全くせずに親を見送ったという人も何人も居た。
「母は、私が、小学校3年の時、くも膜下出血で倒れてそのまま亡くなったから・・」
「私の母は、58の時、膵臓がんが見つかって、入院して1月も経たない内に亡くなったの」
「高校の時に、交通事故で母を亡くして、父も1年後には母を追うように・・」
私はショックを受けた。
家族にとって「より楽な病気や死別」などあるだろうか?
いつ、どんな形であれ、それは大変な苦痛を伴うだろう。

今、認知症には、社会的支援がある。
様々な不備や問題はあるかも知れないが、そんな支援の届かない社会的弱者は、この世に数え切れないほどいるだろう。
私が生まれてから数年間の間に、母が私に毎日してくれたこと(オムツを替える。歩行を助ける等々)を今、母にしてあげられることは、幸せなことだと思える。
遠距離に住む私には、ごく限られた時間ではあるが・・。



母、落ち着く。退院後の自宅介護は?

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幸せな食卓 知的障がいのある兄の変化

お盆の迎え火で夫の実家に家族4人で行く。
毎年のことだが、義父母、夫のきょうだい家族全員が集まり、総勢15人の賑やかな夕食となる。
本当にありがたいことに高齢の義父母はまだ元気だ。(老化は着実に進んではいるが・・。)
皆で(私も)笑って話をしながら『私の実家では、もうこんな風に集まって、皆で笑いながら食事をすることはないんだ』と繰り返し思う。『そんな日もあったのに・・』
冷静に考えれば、例え母が施設に入ったとしても、母を連れ出して実家に皆で集まれば良いだけのことだ。
けれども幸せな(それは、あまりにも幸せに見えた。)食卓は、何か、私の遠くで起こっていることのように感じている自分が居た。


父母と住み、重度知的障がいと言語障害のある兄について、最近、驚くことがいくつかあった。

まず、実家に電話をした時、兄が出たのだ。つながった瞬間。
「オトーサン、オカーサン、イナイ」ガシャンと電話が切れた。
「あっ!お兄ちゃん?!私!」という声は、おそらく全く聞いていない。
誰がかけてきたのかもわかっていないと思う。
けれども兄が自分から電話に出たのは、私の知る限り初めてのことだ。
兄は、電話がかかってくると「デンワ!デンワ!」と騒ぎ立てるが、自分から出ることは絶対になかった。
兄が電話に出るようになったことは、私には、信じられないようなことだった。

先日は、兄の通う通所授産施設から妹に電話があったという。
健康診断があり、問診票を渡したが、兄が自分で記入して提出したと言うのだ。
妹も驚いたが、私も衝撃を受けた。
3月までは、母に手渡せば、すべて済んでいたことだ。
なぜ父にも見せず、しかも自分で処理(兄には不可能なことだ。)しようとしたのか?

帰省した時も、兄が随分変わったと感じた。
母に依存してきた兄が、兄なりに自立し、兄なりに色々なことを考え、一生懸命生活していこうとしていることが、はっきりと見て取れた。
兄は、自分の考えや苦労を口で説明することはできない。
だから兄が何を考え、行動しているのかは、推測するしかない。

兄は、兄なりにきっと必死なのだ。
母の言うことが、もう頼りにならないこと、病気であること、父が限界まで頑張っていること、妹も含めて皆が、混乱状態の中で懸命に母を支えていることをちゃんとわかっているのだ。
恐らくストレスも溜め込んでいるのだろう。
2度も原因不明で倒れて怪我をしたのも、もしかしたらストレスが関係しているのかも知れない。
今度(来週の予定)帰省した時には、兄のケアをしなければ・・・。




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母の感情失禁に遠距離の私ができることは?

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レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会

私は、母の入院以来、緊張が解け、随分心も体も楽になったのを実感していた。
母の転倒骨折はいつ起こってもおかしくなかった。一瞬でも目を離せば勝手に動き出し転ぶのだから。
極度の睡眠不足によって父(自営業で日中は仕事をしている。)が倒れるか、交通事故を起こすのも時間の問題だと思っていた。
「何でもできる。心配ない」と繰り返す父(認知症の疑いあり。)の介護能力が限りなく低いことも、それを全面的にサポートする妹が疲れ切っていることもわかっていた。

母の入院までは、集中力もなくなってきていて、ネットでの調べものも辛くなっていた。
趣味の読書も料理も帰省(1週間自宅介護した。)から戻ってきてからは、避けたいものになった。
気が付けば、好きなスポーツもやらなくなって久しいし、行けば心身の疲れが取れるとわかっているヨガすら休みがちだった。

が、母の入院で、私はエネルギーを取り戻した。
以前コメントでちゃわさんに勧められたサイトを次々と読み始めた。
(勧められた直後、全サイトをさっと見てはいたが、熟読する気力がなかった。)
「レビー小体型認知症 介護家族おしゃべり会」のサイトから通信(年4回発行。郵送)の申し込みもした。
すぐにとても有用な情報で充実した「ゆるりん通信」と手書きの手紙が送られて来た。

<レビーは進行が早い(個人差は大きい)と言われているので「今」を大切にするように。>
<施設選びは、家族の気持ちをしっかり聞いてくれるところを選ぶように。>
<施設には小阪憲司著「知っていますか?レビー小体型認知症」とこの通信を持って行き、病気の説明をすること。>
<疲れている父に(特に母が施設に入って一人になった時)注意すること。> 等々。
今まで気が付かなかったいくつものアドバイスが書かれていた。
<私たち仲間がおります。いつでもご相談下さい。みんなで考えましょう。>
涙があふれた。

こんなに近くに救いの手はあったのに、母が激変し、突然の介護生活が始まった3月から5ヶ月間、父も兄(同居)も妹(同市)も私(遠距離)も嵐の海に浮かぶ小舟をこぐような毎日を送っていたのだ。
多くの方々の支援のお陰で何とか沈没せずにはきたが・・。

いつもコメントを下さるちゃわさんにも「おしゃべり会」の方にも言葉では言い尽くせないほど感謝をしている。















不安と淋しさを訴える母 説得する妹

母は、入院3日目のほぼ一日を眠り続け、夕食の時間にすら起きなかった。
昨夜は病院の判断で睡眠導入剤を止めてみたらしい。(量は調整して下さいと伝えたあった。)

夜の目立った問題行動はなかったけど(前回は弄便やベッドからの落下などあらゆることが起こった。)4時くらいからは声を出し、カーテンをいじっていたという。

午前中は元気があったが、午後のリハビリの頃から急に泣き始め、看護師に「家に帰りたい」と言ってきかなかった。
その最中(午後2時)に妹が行くと、おいおい泣きながら「なんでこんなに(来るのが)遅かったの?」
泣き止まないまま、「リハビリの子が怖いよ。私を突き飛ばすし、怒るし・・。ここから逃げよう!」と訴える。
「夜は全然眠れないの。お父さんと○○(妹)と○○(私)と4人で寝てたのに(妄想?幻視?)いくら呼んでも誰も返事もしてくれないし。こんなに辛いことってある?!あんたたち、いくら何でもひどすぎるよ!いったい何考えてるわけ?!」

レントゲン検査に連れ出され、戻ると、やっと落ち着いた。しかし病室の窓の外にたくさんの船が見えると言う。
幻覚(幻視)は、抑肝散を飲み始めてからほとんど消えていたのに・・。

妹が母の状態を観察し、そろそろ大丈夫だと思って帰ろうとすると、また涙をボロボロ流して言いつのる。
「あんた、本当にどれだけひどいことしてるか分かってるの?
自分で時間すらわかんないんだよ。(父が買ったデジタル置き時計も読めない。)そんなことすら私にはできないんだよ。どれだけ不安になると思うの?!
私がどれだけ不安で孤独で淋しいか、あんたには、わからないの?!」

妹は、色々な話を織り交ぜながら1時間も説得したそうだ。
「みんなそれぞれ我慢してるんだよ。お兄ちゃんだってものすごく我慢してる。お父さんだって、みんな、みんな我慢してる。お母さんもちょっとだけ我慢できない?今度の入院はちょっとだけなんだよ・・」

少し落ち着いてきた頃、母から「すぐ来て!」と呼ばれた父が来て(6時頃)妹は、やっと帰宅した。
(母は長く携帯もメールも利用していたが、今は、自分では使い方がわからない。)
後で父は、「お母さん、すこぶる調子良かったぞ。わがままも言わなかったしな」

妹の説得は、効果があったわけだ。お陰で父は、ストレスから免れたが、妹は、疲弊した。
妹が帰る間際、母は、「(私の事を)嫌いにならないでよ」と言った。

しかし幸いこの階(前回もまずこの階に入った。)の看護師たちは、皆、優しく、妹を見ては誰もが「痩せたでしょ?大変だったんでしょうね」と労(ねぎら)いの言葉をかけてくれるそうだ。
妹「ありがたいよ。心に染みるよ。涙が出そうになる」
「必ずまた問題行動を起こすと思います。ご迷惑かけると思います。よろしくお願いします。」と一人一人に頭を下げて帰ってきたと妹は話していた。



4度目の転倒骨折入院 1~3日目

母が入院した日、過労が限界を超えた父は、精神的におかしくなってしまったのではないかと妹が心配していた。
忘れ物を病院まで届けに来た父に、母と少し話をしていくように頼むと
「イヤだ~!!俺は、もう倒れそうなんだ~!!イヤだ~!」
父は、聞いたこともないような怯(おび)えた悲鳴を上げて逃げるように帰って行ったという。

その後、何度も父とは電話で話しているが、落ち着きも元気も徐々に取り戻している。
精神科の問診のようなことを訊いてチェックもするが、ひとまず父に緊急性はなさそうだ。

母の件で、救急車を呼ぶ前、用事があった妹は、すぐには実家に行けなかった。
その間に、父は、伯母(母の兄の妻。一番信頼できる親戚)を家まで呼んでいたという。
「緊急性はないから大丈夫。○○(妹)が来るまで絶対動かさずに待っていて」と伝えてあったのだが、父は、不安で不安でいても立ってもいられなかったのだろう。
「またあの手術か、またあの繰り返しかと思ったら、俺は泣けて来たよ」と妹に何度も本気で言ったという。

翌日の午後妹が見舞いに行くと、母は、ひたすら眠り続けていたという。
睡眠導入剤1錠で、これほど眠るものだろうか?昼もデイサービスで起こされ、夜も興奮して寝ない生活を続けていた母は、疲労を溜め込んでいたのか?妹と色々に推測するが、素人が考えても結論は出ない。
夜、父が見舞った時には、変わった様子はなく、食後にフランクフルトと団子をペロリと食べたと嬉しそうに言う。(前回の入院中、父が毎日買って行ったものだ。毎回全く同じ内容。「食べさせ過ぎ」と私と妹で何十回も言っているが聞かない。)

入院3日目の夜に父が訪ねると「だだこね状態」で手がつけられない。
(前回の入院の最後の数週間は、毎日そうだった。)
母「私、手術なんて絶対にしないんだから!」
今回は手術の必要はないのだと何度説明してもまったく理解しない。
母「みんなして私に嘘ばっかりついて!もう嫌だ!!帰る!!」

私「じゃあ、帰る時も”行くな!一緒に連れてけっ!”って泣きわめいたんだ?」
父「いや。帰る頃は落ち着いてたな。握手しろだの、ほっぺにチューしろだの言ってなぁ。してやったら笑って”バイバイ”って手を振ってたなぁ」
私「良かった・・。認知症には、スキンシップが凄くいいんだよ。毎回してあげて」

気になるのは、父が、看護師から聞いたという話。
母が、日中(食事時か?)コップを隣のベッドの人に向かって投げつけたという。
それ以上の詳しい情報はない。
妹「夜だけじゃなく、昼まで人格が変わっちゃったのかな?」
私「わからない。投げたらたまたまその人の方に行っちゃったのかもしれないし」
妹「今夜あたりから、また始まるのかな。魔の夜が・・。転院しろって言われそうだね。明日、病院に行く気が萎えるなぁ・・。だだこねられると、一気に疲れる・・。」
半分は沈黙が占める長電話を「明日のことは、明日考えよう」と切り上げる。
明日の母が、穏やかなのか、怒っているのか、泣いているのか、誰にも予測はつかないのだから。


ヘルパーの家事援助不可 フェルガード処方 方言の会話

** 今回は、疑問へのお答え **

1。「なぜヘルパーに料理等の家事を頼まないのか」と訊く人が多い。
介護者が現役で働いている場合、ヘルパーは家事をすることはできないという規則があるからだ。(記事「家に帰りたい」参照)
「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と皆、言う。私もあちこちを訪ねて何とか特例を作ろうとしたが無理だった。母自身がヘルパーと一緒に台所に立つ(或は座る)のならリハビリという名目で母一人分の食事に限って作ってもらえるそうだ。

2。名古屋フォレストクリニックに行く前のコメント(記事にはない。)を読んだ方は、フェルガードが処方されなかったのかと気にして下さる。処方されなかった。
(フェルガードは米ぬかからできた市販のサプリメントで認知症の症状や予防に効果があるとされている。)
いつも大変参考になる貴重なコメントを書いて下さるちゃわさんのお考えは以下の通り。

フェルガードについてですが、主介護者がお父様ということを考慮して大事を取ったのかも知れません。
アリセプト自体がレビーにとって興奮性の強い薬ですが、フェルガードに含まれているガーデンアンゼリカにも興奮性があります。
アリセプトとフェルガードは興奮が出たら減らしたり、場合によってはアリセプトを5日間中止してから半分の量で再開するなど、患者の様子を見ながら家族が微妙に調整しなくてはいけません。
2種類同時に開始した場合、慣れていないと、この調整はとても難しいものです。
そこで河野先生は一番安全な方法を取ったのだと思います。
どちらか1つとなれば、最初に試すのはアリセプトです。
フェルガードは自費購入のサプリメントなので、まず保険のきくアリセプトが優先されます。

追記 アリセプトとレビー患者の薬剤への過敏性についてちゃわさんがコメントで補足されている。

3。家族の会話は、標準語に直して書いている。(どうしようか迷ったけれど。)
実際には、方言を話しているが、そのまま書いてもニュアンスが伝わらないと思う。
イントネーションは、どちらかと言えば、関西弁に近い。
明石家さんまがしゃべっているような感じを想像しながら読んで下されば・・。




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しば

母、救急車で運ばれる

父は夕べぐっすり眠れただろうか・・と思いながら朝食の支度を始めようとしていた日曜の朝6時45分。電話が鳴った。
「お母さんが、どうかなっちゃった!今日は医者(病院)もやってないし、どうすりゃいいんだ?!」
父はすっかり動転して物言いまでおかしい。
一瞬、白目をむき泡をふきながら痙攣(けいれん)している母が頭に浮かんだ。

「意識はあるの?しゃべれるの?今、どういう状態なの?」と1つ1つ訊いていく。
父の時間の記憶は曖昧だが、とにかく母の足は麻痺し、全く立つことができず、ちょっとでも動かそうとするとひどく痛がると言う。意識は、はっきりしている。
転んだのかと訊くと「昨日は転んでない。(転ばないように)もの凄く注意してみてたんだからな」。

立てないのは睡眠導入剤の可能性があるが、意識がはっきりしているなら原因は他にあるはずだ。
痛がるのなら、恐らく数日以内の転倒による骨折だと思った。
父も背骨が折れて下半身麻痺になったのではないかと言う。

「今、私から○○(妹)に電話するから、○○が来たらすぐ救急車を呼んで」と伝え、妹に電話をする。
(父一人では、正確な状況説明も病状説明もできないだろうと思った。)
単なる睡眠導入剤の効き過ぎだと思っている妹は、救急車の必要性もあまり感じていない。
もし骨折なら素人が無理な姿勢で運ぶのは危険だと伝え、必ず救急車を呼んで欲しいと頼む。


母は、転倒が原因と思われる軽度の腰椎圧迫骨折だった。
(レントゲンではわからず、MRIでわかった。)
前回のように人工の骨をはめ込む手術(6時間の手術を2回した。)の必要はなく、1~2週間入院すれば自然治癒するという。
神経には、異常はなく、麻痺もない。
(睡眠導入剤が効いている夜中に、母に言われるままトイレに連れて行こうとした父が、麻痺だと思い込んだ。夜中にトイレに連れて行くのは危険だと父には伝えてあったが理解していなかった。)

睡眠導入剤の効き過ぎた母は、検査中もほとんど眠り続け、午後2時ごろ目を覚ました。
ずっと付き添っていた妹から骨折だと説明された途端めそめそ泣き出した。
母「だって、お父さん、今度骨折したら離婚するぞ!って言ったもん」
妹「お父さんはそんなこと言わないよ」
妹がなだめ、父(自宅に残り仕事。自営業)に電話をし、携帯を母に渡す。
携帯を耳に当てていた母は、今度は、激しく泣きじゃくった。
妹「お父さん、何、言ったの?!」
母「・・お前の面倒は・・一生、俺が看るって・・」

しかし入院した途端、母の言動はおかしくなり始めた。
空中の何かをつまむような動作を止めなくなった。
前回の骨折入院の時(4月末から7月下旬)も認知症が一気に悪化して別人のようになった。
これから母は・・・。止めた!・・・もう、今日は、考えるのは止めよう。
一日一人で付き添い、入院の準備もした妹は、すっかり疲れ切っていたが、父は、これで、ともかく倒れずにすむのだから。

追記 睡眠導入剤を2錠に増やした夜も2回は起きたらしい。
妹は、今まで父の認知症疑惑に懐疑的だったが「(父の)救急隊員への説明と私への説明が全然違う。お父さん、完全におかしいよ!」と言った。







グループホーム 母の思考 睡眠導入剤の調整

妹が見学に行ったグループホームは、そのあまりに奇抜な建物の色から「あんな所にだけは絶対に入れたくない」と妹自身が言っていた所だった。
ところが中に一歩入ると、内装はとても落ち着いていて、職員たちの対応も今まで行ったどの施設よりも良かったと言う。
応対してくれた職員に現状を話すと「それは本当にお困りですね。ただつい最近、入所の契約をされた方がいまして・・。でも契約しても結局キャンセルされる方も多いですから(本人の入所拒否のため。)その方がキャンセルされれば、最優先で入所して頂けますよ」。

その日、妹は、今にも倒れそうな父に代わって実家に泊まり、母の横で寝た。
寝る前に「今日のお母さんの頭はもの凄くクリアーだから」と母を電話に出してくれた。
確かに何の異常も感じられないような驚くべき話し振りだった。これなら私の言うことを理解してくれるだろうと判断し、母に言った。
私「夜中にお父さんを何度も起こすの、覚えてる?」
母「知ってるよ。だって不安になるんだもん。起こさずにはいられなくなるの」」
私「でもそのせいで、お父さん、毎晩眠れなくて倒れそうだよ。お父さんが可哀想だと思わない?」
母「しょうがないよ。起こそうと思って起こしてるんだし。不安なんだから起きててもらわないと困るよ」
私は、次の言葉が出なかった。前頭葉の萎縮が言わせる言葉なのだろうか?

母は、睡眠導入剤を飲んだ翌日、デイサービスで午前中一杯深く眠り続けたという。私は、薬の効き過ぎだと思い、薬の量を半分に減らすよう妹に頼んだ。
その夜、母は、10時から3時までの間に20~40分毎に妹を起こしたという。初めは遠慮がちに。徐々にだだっ子のようになり、最後は泣きわめいた。
母「もう死にたい!どうしたらいいかわからない!睡眠薬全部飲んだら死ねる?!」

妹と話し、私は、担当ケアマネの○○さんに現状報告と施設入所希望のメールを出し、確認の電話を入れた。
電話では「今日は○○は休みで」と言われたが、すぐにメールの返信が来た。
<窮状よく分かりました。早速、ロングでショートステイが可能な施設を探します。>

名古屋フォレストクリニックには、2晩の状態を書き、指示を仰ぐファックスを入れ、電話をした。
午前中ずっと寝ても(夜中は2回起きた。)1錠のませるべきか、4分の3錠にすべきかと。
返信のファックスには、ベンザリンを増やして良いと書かれていた。
これでやっと父が眠れる。そう思った。



父、限界。初めて施設入所を考える

翌朝9時過ぎ、もう母をデイサービスに送り出した頃だろうと思い、期待を込めて実家に電話をする。
出た父はパニック状態(仕事の重要なメモがないと狂ったように探していた途中)。すぐ代わった妹の声は疲れ切っていた。
私「(母は、睡眠導入剤を初めて飲んだが)夕べも寝なかったの?!」
妹「2回は起きたらしいよ。今までと違って大人しかったみたいだけど・・。
お父さん、ずっと寝不足が続いてるから、とにかくイライラしちゃって手がつけられないよ」

デイサービスの迎えが来ても母は、「絶対に行かないんだから!」と泣いて暴れた。
男性職員は「珍しいことではないんですよ。大丈夫です。心配いりませんよ」と言って連れて行ってくれた。
妹は『まるで幼稚園の通園バスだな』と思いながら、その職員に何度も何度も謝ったそうだ。
この騒ぎは連日続いていた。
行けば何の問題もなく笑って過ごしているというが、帰宅すると母の口からは文句の嵐だ。
私も電話で聞いたが、多重人格者のようだと思った。

母の通所拒否にまったく対応できない父は、怒鳴るのみ。
父「行きたくない奴は行くなー!!」
妹「じゃあ、お母さんをどうするの?私、一日看れる訳じゃないし、毎日来れる訳でもないんだよ」
父「あんな奴は、放っとけっ!」
妹「一人で家にいられるとでも思ってるの?転倒骨折したらどうするつもりなの?」
父「そんなこと知るかっ!!」
それは怒りからの出任せではなく、妹が朝行かなければ(今の異常な父なら)本当にやりかねないことだった。

お迎えバスが去り、後には、疲労困憊した父と妹が残った。
妹「・・もう無理だね・・。施設に入れてもらうしかないよね・・」
父「・・・・・そうだな・・・」
9月も10月もずっと自分が一人で母の面倒を見るのだと言い張っていた父が、初めてそう認めた。

それを電話で聞いた時、私の心に湧いたのは、哀しみではなく、安堵感だった。
父の介護能力のなさは、1週間の帰省中に既にわかっていたが、私の帰宅後、妹から毎日来る報告は、暗たんたるものだった。
「ちょっと2、3分目を離すと、もうその辺で転んでひっくり返ってるぞ」という言葉も父から聞いていた。

父(恐らく認知症)は、すべてを忘れるのだ。
薬を飲ませること。着替えさせること。腰椎を守る為に必須だと言われているコルセットを付けること。入れ歯の手入れ。妹に言われて入れ歯を出せば、今度は入れ歯なしでデイサービスに送り出す。

睡眠不足のせいか(認知症の症状か)短気にも拍車がかかり、一日中、一晩中母を怒鳴る。
怒鳴られた母は、怒鳴り返したり、「病気になったのは私のせいじゃないでしょ?」と泣きじゃくったり・・。
父自身も「ものを考えることができなくなった」と言い、既に朦朧(もうろう)としている。

私は、帰宅以来、電話が鳴る度に、メールを開く度に緊張していた。
『母の転倒骨折か?!父が倒れたか?!交通事故を起こしたか?!』

愛情はあるけれども介護能力のない父と毎日怒鳴り合いながら自宅で暮らすのと、施設で暮らして、限られた時間だけを家族と笑って過ごすことのどちらが幸せだろうか・・。私は毎日真剣に考え続けていた。
「(ショートステイの夜の)私の淋しい気持ちはどうしてくれるの?!」と真剣に迫った母の顔を思い出す。
考えれば考えるほどわからなくなっていた。

名古屋フォレストクリニックを受診したことで母の症状が改善されることには期待を持っていた。
しかし母の状態が良くなったとしても父の介護能力が上がるわけではない。ずいぶん楽にはなるとしても。

妹は、唯一空いていると聞いていたグループホーム(実家からとても近い。)を今日、見学しに行ってみるつもりだと電話で言った。







名古屋フォレストクリニック初診

(この記事は、2010年8月に書いたものです。)

一晩ぐっすり眠った父の運転で(妹は父の運転を恐ろしがっているが。)寝不足の妹が母を連れて朝6時半、名古屋フォレストクリニック(認知症専門外来)に向けて出発する。
行く寸前や車の中で失禁があったら(便秘性の母は大量。)と心配していたが、とにかく何とか辿り着いた。

診察前、現在の症状などを訊く質問用紙4枚程を妹が書いた。
河野先生は、長谷川式簡易知能評価スケール(認知症テスト。この時の母は17点。入院中の5月は12点)時計描画テスト(母は描けなかった)などをし、驚くべき早さで脳のCTと血液検査もしたという。
「前頭葉の萎縮がかなり進んでいますが、アルツハイマーではありません。パーキンソンでもありません。間違いなくレビー小体型認知症です。」と診断。
母は、アルツハイマーではないと聞いた瞬間、ガッツポーツを取ったという。
元気な頃の母と同じように。

現在、母が飲んでいる大量の薬(甲状腺と肝臓にも持病がある。)のリストを見て、テキパキと処方を変える。
「リスパダール。止めましょう。ドンペリドン?吐き気ありますか?ない。じゃあ飲む意味がありません。止めましょう。足のむくみは抑肝散の副作用です。一日2回に減らします。等々」

(追記:リスパダールは、レビー患者を悪化させる代表的な薬→禁忌薬剤一覧

そして不眠に睡眠導入剤(ベンザリン5mg)を処方された。
(追記:しかし母には効果が出なかった。)

アリセプト(認知症治療薬)も初めて1日1回0.5mgを処方される。
毎日飲んでいるのに効かない便秘薬は、センノサイドと酸化マグネシウムになり、体の動きの悪さには、ペルゴリド(ペルマックス)を処方される。
そして自費(500円)でニコリン(脳循環改善剤)の注射をした。
治療費や薬代が高額かも知れないと内心心配していたが、全部で5千円弱(医療費1割負担)だった。

毎月1回このクリニックに通うことに決め、ここで母の持病の肝臓と甲状腺の状態も診てもらえると言う。
毎月4度も5度も(科によって受診日が違う。眼科と整形外科の受診もあった。)同じ市立の総合病院に母を連れて行っては半日以上を費やしていた妹は、とても喜んだ。

河野先生は印象が良く、「この医師なら信頼できる。安心して任せられると思った」と父も妹も嬉しそうに電話で言った。母も「治してくれるって言ったよ。良い先生だったよ」と翌日言った。

レビー小体型認知症を強く疑い始めてから8ヶ月間、信頼できない主治医(2人。途中で変わった)の言葉にどれほどの絶望(「抑肝散を処方されるまでの長い道」参照)を味わっただろう。
不信感とストレス(一度は歩けるようになった母は、リスパダールで歩行困難になった。10%の人に起こる副作用だと薬剤師が後に言った。)だけをつのらせてきただろう。

例え不幸にして、あまり効果が上がらない例の1つになったとしても信頼できない医師に不安を抱えながら母を診せるよりは、はるかに幸せだと思った。

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必読レビーを疑ったら、分かったら、まずここから読もう!
(自己チェックリスト/症状一覧/禁忌薬物一覧/動画/体験談集など必読リンク集)
レビー小体型認知症の病院選び 治療の受け方 家族のすべきこと
レビー小体型認知症は「認知症」なのか?(この病気の本質・ケアの仕方)
*コウノメソッドの効果について思うこと→記事(2013年9月4日)
(良くなる人もいれば、良くならない人もいる。それを分けるものは何か)
*コウノメソッドの治療例→若年性レビー小体型認知症Kさんの体験談2013年8月
(どんな薬も効く人、効かない人がいるという現実)

兄、再び倒れる 

兄は、父に頼まれてゴミ出しに行き、そのままいつまでたっても戻って来なかったと父は言う。
近所の人が、兄が血だらけで倒れていると連絡をくれた。
駆けつけると、既に救急車とパトカー2台が来ていた。
通りかかった人が、「人が顔から大量に出血して倒れている。ひき逃げではないか」と通報したらしい。

妹がすぐ呼ばれ(妹の家は実家から車で15分位)訳もわからないまま駆けつけると、警官5人に取り囲まれた。
免許証のコピーを取られ、意識のある(しかし興奮状態の)兄の事情徴収の手伝いをさせられた。
事件性があるかどうかを確認したい警官たちは、なるべく詳しく訊いてくれと言う。
しかし重い知的障がいと言語障害がある兄に答えられるわけがない。
妹「車にぶつかった?」兄、首を振る。「鼻血、出た」
妹「転んじゃったの?」兄、首を振る。「鼻血、出た」
目撃者はいないので、妹にも何があったのかはわからない。
警官は、事件性なしとみなして帰っていった。

そして妹が救急車に乗って、やっと病院に出発。(父は、仕事か?)
車内で血圧、脈拍、心電図など取るが異常なし。
しかし口の中に食べ物が入っていたという。吐瀉物ではないという。???わからない。

病院での検査でも「異常なし」だったという。
ただ鼻の骨が折れ、眼鏡は、粉々に割れていた。
私「じゃあ、何で2回も倒れたの?!」
妹「そういう話は出なかった。それより医者はレントゲンに異物が写ってるって方を心配してた。」
食道なのか気管なのか他の管(があると言ったそうだ)なのかわからないが、何か尖ったものが写っているという。
医師「お兄さんは、その辺に落ちている危険なものを口に入れますか?」
そんなことはしない。倒れた時、小石でも口に入って飲み込んだのではないかと妹は言う。
医師「毎回便を調べて、異物が出てくるかどうかチェックしてもらえませんか?」
妹「一緒に暮らしてないんだし、そんなことできません!!」
結局、2日後に再検査となった。

耳鼻科に行き、骨折は軽症と説明を受ける。
妹は、ずっとしていない兄の耳掃除を医師に依頼した。
(凄い。私は、まったく思いつかなかった。)
兄の耳からは、どうやって入っていたのかわからない程多くの、見たこともない物体が出てきたという。

その後、「眼鏡ない!」と騒いだというが、眼鏡屋に行くことは拒否して午後6時には眠ってしまったという。
兄も疲れ果てたのだろう。妹は尚更だ。それでも
「もう一回、ちゃんと検査してもらって原因を突き止めないと、また倒れるよ。今度は何が折れるかわからないよ」と妹に伝える。(前回は、歯数本と入れ歯が折れた。)

妹は、この日、初めて実家に泊まった。(そして予想通りほとんど眠れなかった。)
翌朝6時半には、母を連れて名古屋フォレストクリニック(予約9時)に向け出発することになっていた。
父も妹も私もまだ行ったことのないその病院を頼みの綱としていた。






妹のSOSに3つの選択肢 転ぶ母

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プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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