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介護3日目(前編) 夜中泣く母 兄の事故 

この夜、12時半から朝4時の間に10回程起こされる。
4時からは完全に目が覚めて、ずっと元気に大きな声でしゃべり続けていた。

起こし方は、色々だった。
「お母さん!お母さん!」と私を呼び、意味のわからない支離滅裂なことを言ってさめざめと泣いたり、
「居るの?そこに居るの?みんな私を置いてどこかに行っちゃう!恐いよ!」とオイオイ泣いたりした。
一人で苦しんでいる母が哀れで、抱きしめて「居るよ。ずっとここに居るよ。大丈夫だよ」と慰める。
オムツを外す「バリッ」という音でも何度も飛び起きた。
「(オムツが)気持ち悪い」というので4回位パッドを交換した。どれもぐっしょりだった。

4時からは、ソファーに座っている兄(重い知的障害がある。日中は福祉作業所にバスで通っている。夜9時前に寝て4時前に起きる習慣。)に向かって
「○○(兄の名)早く行かないとバス出ちゃうよ!」などと次々と指示を出し、兄と大喧嘩になる。
母には常に従順だった兄が、母に「うるさい」と言う言葉を生まれて初めて聞いた。
「あんたの面倒なんてもうみてやらない!」という母の言葉も、まるで未知の国の言葉のように新鮮で心底驚いた。
ずっと続いていることだが、母は、早朝の時間の感覚が、まったくない。
4時5時は、まだ寝ているべき時間だということが全く理解できない。
時計も読めない。

7時に朝食をとった後は、ストンと眠り、9時、本人は全く何も理解しないまま初めてのデイサービス(デイケア)に連れて行かれた。(バスで迎えに来てくれる。車椅子ででかける)

入院していた病院で「新しい環境で悪化するタイプ」と何度も言われていたので、この日は、私が、一日中付いて居て、母が戸惑わないようにさりげなくサポートするつもりでいた。
私は場所がわからないので、妹に運転して連れて行ってもらう予定だった。

ところが、さあ出発の時になって父の携帯に悪い知らせが入った。
「○○(兄)が倒れて怪我したらしい。悪いけど病院に行ってくれ」
妹の運転で二人で駆けつけた。
結論から言えば、縫うような傷もなく、頭の打撲もなく(精密検査をしろと言われて2つの病院に行った。)入れ歯が半分に折れて、歯が3本抜けた。
数滴の出血で大騒ぎになる兄が、鼻血で真っ赤になった作業服を見て、どれほどの恐怖を味わいパニックを起こしただろうと想像すると辛かった。ずっと手をつないで歩いた。
不思議なことに、歯がなくなったことは、夜、鏡を見て気が付いたようで「歯!ない!歯!ない!」と大騒ぎになった。偶然、その日から3日間いつも通っている歯医者が休業で、「歯・ない」状態が3日間続くことになった。
(私たち家族,<父以外か。>は、兄の大騒ぎには慣れているので、別に何でもない。)


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介護2日目(後編) 拘束 減薬 本 施設見学

帰宅以来、母は、柵付きのベッドに入れられることを嫌がった。
すぐに「寝たい(横になりたい)」とは言うが、柵に拘束されるとイライラするようだ。
母「私は、自分で行きたい時に、行きたい所へ、自由に行きたいの!!」

しかし椅子やソファーに座らせている間は、常に見ていないと、一人で動き出して転倒骨折する危険が高い。
支えなければ立てないはずのに、見ていない時は、なぜか一人で立ててしまう。
「どこに行きたいの?一緒に行こうか」と声をかけると「私は、お風呂の掃除をしてくるから、あんたは料理してて」とか「車で銀行まで行ってくる」とか言う。

他に見てくれる人がいなければ、家事はもちろん、自分がトイレに行く短い間にも動けない母をベッドまで運び、安全のための柵をかけた。
(一人残しての買い物などは考えられない。
オムツを外す、柵を乗り越えて落下する、他にも想像もできない危険がありそうだ。)
そばに座って一緒に話をしていてあげればいいが、視界から人が消えると何度も何度も繰り返し呼んだ。
一人になると不安感で一杯なってしまうようだ。


朝、ベッドでオムツを代えた時、オムツただれを起こしていることも知ってショックを受ける。
一日でできることを知らなかった。薬を付けた。
母は、羞恥心も麻痺しているようで、抵抗なく(父にも。)世話をさせてくれる点は楽だ。


この朝から、私と妹の判断でリスパダールを半量にしてみる。
(いきなり全量は、危険と判断した。様子を見ながら徐々に減らすつもりだった。)
朝、夕、2回の処方(各0,5mg)を夕方だけに変えた。
常識的には、絶対に許されない行為だが、歩行困難は、リスパダールの副作用によるものと確信していた。

主治医は、リスパダールで歩行困難などありえないと言った。
薬剤師に強く言って調べてもらうと「本当だ。10%の人にそういう症状が出るって書いてありますねぇ。知らなかったなぁ・・」。
薬剤師は、また「抑肝散は気休めですよ。テレビの影響で皆、飲みたがりますけど、あんなの効きません」と断言したそうだ。
主治医も薬剤師もなぜそう言い切るのか、わかるように説明して欲しい。(私は、その場に不在)
母の幻覚(幻視)は、リスパダールでは変わらなかったが、抑肝散を飲み始めてから減り始めた。妄想話も減り、返答は往々にしておかしくなるが、それでも穏やかな会話が成立するようになった。


コメントでちゃわさんが勧めて下さった本認知症治療の28の満足 後悔しないためのベストの選択(河野和彦著)を初めて読んだ。
様々な種類の認知症について(その早期発見の方法や薬の処方なども)一般論より深く理解できる良い本だ。
驚いたことに父は、私が勧める前にその本を読み始めた。
仕事関係以外の本を父が読むのを生まれて初めて見た。

この著者が開業している名古屋フォレストクリニックに一度連れ行ってみないかと父と妹に相談し、すぐに電話で予約を入れる。2週間後の朝一番だけなら一人分空きがあると言われる。
父と妹が、母を連れて行ってくれると言う。


この日は、母と妹と私と3人でショートステイ(28~29日が初めて)先となる特別養護老人ホームの見学にも行く。
広く、とても清潔感のある美しい建物で外の景色も良いが、話し声、笑い声は聞こえず、そこに母を入所させることを想像するとどうしても胸が痛んだ。
車椅子で回った母は、そこがどこなのか、なぜ見学にきたのか、わからない様子だった。

夜はなるべく遅くまで起きているように(昼夜逆転を治すため)二人で色々な歌を歌ったり、昔話をしたりして過ごした。
言うことは、おかしいが、とにかく母とこうして再び会話ができることが嬉しかった。


介護2日目(前編) びしょ濡れ事件

朝5時。父が私の名前を叫ぶので慌てて居間に下りて行くと、すっかり動転している父とキョトンとした母がいた。
半裸の母のパジャマもシーツも掛け布団もびしょ濡れだった。
(母は毎晩信じられないくらい大量のオシッコをする。)
自分でパジャマのズボンを脱いで(あの動かない体でどうやって脱ぐのか想像できないが、母は病院でも時々想像もつかないことをした。)オムツを外したのだ。

病院でも毎日明け方にそうするのでつなぎのパジャマを着せられていた。
(それでも外せるはずのない複雑なボタンを外して脱いだという。
看護師も首をひねり「○○さんは、特別器用なんですね」と言ったそうだ。)
私は、母の自宅でそんな囚人の拘束服のようなものを着せる気は全くなかった。
夜中に何度かパッド(オムツの内側に付けるもの)を代えてやればいいだけのことだと思っていた。

ぐっしょり濡れたパッドは、父の顔の真横にあったという。
父は、パッドを投げつけられても熟睡していたわけだ。
夜中は、何度も何度も起こされて、ほとんど眠れなかったと言う。
「まぁ、いいけどな。それにしても人の顔にオムツ(パッド)を投げるなんてひどい奴だぞ(笑)」
すべての処理が終わって落ち着いた父は、笑いながらそう母に話しかけていた。
父が笑うと母もニコッとする。
何が起こったのか、何をしたのかは、母には、何もわからない様子だった。
それが救いだ。
母は、その日の午前中、起こしても起こしても眠り続けた。


この日、母の保険(被保険者は父と兄)の担当者、ショートステイに行く予定の特別養護老人ホームの職員、担当ケアマネが次々と来て、妹が、様々な事務処理(契約)を慣れた様子でテキパキとこなしてくれた。
本当にありがたい。
父は、そういった事務処理は、全て妹まかせだ。
私は、前夜あまり眠れず、頭がぼんやりしていた。
お茶を出したり、お客の話を聞きながら母の相手をしたりしていた。
(ケアマネとは話をした。)

母の体の動きの悪さは相変わらずで、トイレには行くが、行った時には、既にパッドはびっしょりだった。
そうなる前にとトイレに何度も誘うが、断られた。

母は、一日中無表情で、お見舞い金のお返し(20人程もいた)の心配ばかりしていた。
何度、父がやってくれていると言っても自分で銀行とデパートに行って手配をするのだと言ってきかなかった。
色々な話題で話しかけるが、すぐにその話に戻ってしまう。

昨日もだが、幻覚は、激減していた。
妄想話もあまり出ない。
時々意味のわからないことを言うが、「そうだねぇ」と相づちを打てば、長くは続かない。
ふと「お母さん、何才?」と訊いてみると「42才(実際は71才)だよ」と答えた。

庭には、一日中きれいな蝶々が来ていた。
出てみると小さなバッタや蝉の抜け殻がいくつも見つかる。
(虫は)変わらないんだなぁと思う。
しかしいつも美しく整えられていた植木は伸び放題で、たくさんのプランターの花は、ほとんどが枯れていた。
花が好きな母のために(動けない母の代わりに)父がせっせと植えた花だった。


追記(介護の1週間について)

1週間分を要約することができないので、1日目から書きました。
1日目は、母の身体状態も悪く、ちょっとハードな日でした。
でも母の状態が常に波打っているように、1週間の中で、状況は刻々と変わり、幸せな時間、楽しい時間も多々あったんです。
ずっと一日目のような状態が続いていた訳ではありません。
ですから、あまり心配せず、悲観的にならず、続きを待っていて下さい。

私は、夕べは久しぶりにぐっすり眠って、濃霧の中にいるような頭(睡眠不足が原因で、まったく回転せず、何も考えられない。)から大分復活しました。
大丈夫です。


退院(介護)1日目 イライラ 歩行困難 

35度近い暑さの中、駅から病院に急ぐ(徒歩)が、退院手続きは2時間位遅れていた。
先月もそうだったが、私の顔を見ると私と認識し「ああ来たの」という顔はするが、それ以上のことはわからない様子。
母は、「待つ」とか「我慢する」ということが、全くできなくなったようで、車椅子の上でイライラしていた。
「なんでダメなの?!やってられない!もう帰る!一人で帰るからほっといて!」と繰り返す。
気を紛らわせようと病室の外に連れ出すと余計怒った。
このイライラ状態は、もう何週間も続いていて妹や父を消耗させたらしい。
「立っちゃダメ」「オムツを外しちゃダメ」あれもダメ、これもダメと言われ続けた病院は、母には耐えられなかったようだ。

やっとのことで家に帰り着くとすぐに隣の家の○○さんが、果物を持って訪ねてくれる。
母の認知症はわかっているが、優しく沢山話しかけてくれ、母も嬉しそうにニコニコしている。
二人になった時、手みやげを渡し、「何かとお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と頼む。
今までもたまに様子を見に来てくれて、何度も助けられている。

母はその後、気持ちは落ち着くが、信じられないほど体の動きが悪い。
歩行器につかまり、二人がかりで支え、本人は懸命に歩こうとするが足が前に出ない。出て1センチだ。
体のバランスも悪く、私たちが全力で支えていなければ、すぐに倒れる体勢だ。
居間に置かれたベッドから数メートル先のトイレに行くのは、母にとってマラソンを走らされるに等しい。

1時期は歩行器で1人で歩けるまでに回復した母をこんな状態にしたのは誰だ!!と叫びたくなる。
母を抱きしめて「こんな苦しい思いまでしてトイレになんか行かなくていいよ」と言いたくなる。
『もういい。これこそ拷問だ』と思っている自分と『まだリハビリが必要なんだ。寝たきりにしちゃいけないんだ』と思う自分が闘っている。


母に夕食に何を食べたいか訊くと「餃子」と言う。
(後でわかったが、母は、餃子以外の料理の名前をほとんど覚えていない。
食べたいものは、どんなものでも作ってあげよう、1週間毎日飛び切り美味しいものを作ってあげようと意気込んでいたのだが・・)
食事中(何とか介助なし)も常に無表情(これは症状)無口(食事中のみ)だが、最初の一口を食べて「おいしいねぇ!」と目を丸くして見せた。
だがどのおかずも全部混ぜて犬のエサのようにして食べるのに驚く。
止めようとしても「これでいいの!」と拒否する。

妹から聞いた話だが、食後、私も妹(無職になり毎日日中通で来ている)も家事をしている間、父は、ベッドサイドに行って黙って母の手を握りしめていたそうだ。

夜は、父と私が1日交代で母の横に寝ることにした。
初日は、父の希望で父が。
そして翌朝、5時、父の私を呼ぶ叫び声で飛び起きることになる。


27日に戻りました

無事に帰って来ました。
帰宅すると珍しく夫も子どもたち(大学生)も揃っていて、3人の顔を見たら、ピンと張りつめていたものが、久しぶりにゆるんでいくのを感じました。
ここが私の家なのだと思いました。
実家にいる間、『私さえずっとここに居続けることができれば、母を最期まで実家で介護できるのに・・。そういう選択肢だってあるはずのに・・』と繰り返し、繰り返し、思っていました。
睡眠不足のせいか、疲れなのか、ストレスなのか、(そのいずれも自分ではほとんど感じないのですが)私の頭は、あまりうまく回転しなくなっています。

1週間は、とても濃い時間でしたよ。
1ヶ月以上居たような気がします。
どうだったかと言えば、(客観的に見れば)「大変」としか言いようがないのでしょうが、1週間でも母の世話ができて嬉しかったです。
辛いとか、苦しいとか、嫌だとかは、一度も思いませんでした。
たった1週間ですからね。

要領よく様子をまとめられない気がするので、21日からの様子を徐々に書いていく予定です。
まずは、帰宅のご報告まで・・。

21日から帰省します

猛暑が続いていますが、お変わりありませんか?

明日(7月21日。母の退院日)から1週間帰省します。
27日の夜、戻る予定です。
実家にPCはないので、その間、PCに触る機会はないと思います。
このサイトの更新もできません。
帰宅したら、また様子をお知らせしたいと思っています。

最近、身近な人に、このサイトの感想をたずねたら
「重くて長くて読めない」と言われました。
私自身は、重いとか軽いとか、考えたことがなかったので、ちょっと驚きました。
そして、あらためて、そんなに読みにくいものをわざわざ読んで下さっている方々に、心からの感謝の気持ちを抱きました。

3月に母の状態が急激に悪化してから、まず自分の気持ちを落ち着かせて整理するために、次に母の状態を記録するために書き始めたブログでした。
人に読んで頂こうとは、最初は、まったく考えていませんでした。
でもお一人お一人のコメントに励まされ、貴重な情報を与えて頂き、私は、もうこのブログを書き始めた頃のように混乱してもいませんし、途方に暮れてもいません。
みなさんのお陰です。
本当にありがとうございました。

家族を置いて1人で実家に1週間も戻るのは、結婚してから初めてです。
母に恩返しするには、あまりにも短い時間ですが、それでも、今は、母の世話ができることを楽しみにしています。

では、行ってきます。
みなさんもお元気で!





退院カンファレンス 怒鳴る父

母を囲んでの退院カンファレンス(会議)があった。
妹が出席して、父は、予想通り、仕事を理由に欠席した。
ずっと続いていることだが、母は、珍しい人達(医療や福祉のスタッフ等)と接すると突然元気になる。
カンファレンスの間も笑顔を振りまき、おどけて見せては、皆を笑わせようとしていたという。
その間にも始終、幻覚(幻視)に向かって話しかけていたという。
「元気!(幻覚の子どもに付けた名前)そんな所に隠れてないで早く出ておいで!」などと大きな声で呼ぶのだ。

カンファレンスでも母の運動機能の悪さは、話題になったというが、
「どうしちゃったんでしょうね。もっとちゃんとできていたはずなのに・・・」
から話が進むことはなかったらしい。
いつから?!どんな風に?!薬の副作用の可能性は?!その他考えられる可能性は?!
私は、ただこの遠距離から、頭の中で繰り返している。

カンファレンスが終わって、「さぁ!今から家に出発だね!」とはしゃぐ母に
「退院は21日だよ」と伝えると(毎日何度も伝えている。)「今日じゃないの?」と言って泣いていたそうだ。

妹は、今、母よりも人の話を聞かない父に疲れている。
一時帰宅では、妹が買い物に出掛けている間に父が母を風呂に入れたという。
「素人には、非常に危険。退院しても絶対に入れるな」と病院から禁止されていることだ。
「うるさい。俺ができるからいい」と父は、完全無視だ。

カンファレンスで必需品と指定された介護ベッドも
「邪魔だ。布団でいい。断っておいてくれ」

母の一時帰宅中、妹が料理をしている間、父がソファーに座る母から少し目を離した。
戻ると母は、床に転がっていた。妹の話では、立ち上がって転んだ可能性は低く、ソファーからズルズル滑り落ちたのだろうと言う。(バランスが悪く、椅子にきちっと座っていることができない。)
大事はなかったが(私は、再び骨折かと思った。)父も(後で聞くと)『骨折だ!また手術だ!1から全部やり直しだ』と思いすっかり気が動転したらしい。
「動くなって、あれだけ言ったのが、わからないのかー!!!」と怒鳴り散らしたそうだ。

幻覚(幻視)への絶え間ない話しかけも、もう半年以上続いているのだから父はただ聞き流せば良いのに
「見えないやつに向かって声をかけるな!居ないもんは居ない!どうしてそんなことがわからない?!」
なんと今回、母は、それに反撃したのだという。
「私だって、時々おかしいこと言ってることくらい、わかってるよ!でも、そんな風に一々否定されてたら、私だって嫌になっちゃうの!!」
まったくまともだ。私の方が、頭が混乱してくる。

妹「お父さん、あれだけ心が優しいのに、怒鳴るのだけは、一生直らないのかなぁ。お母さん、退院して、毎日お父さんに怒鳴られてたら認知症、進んじゃうよね・・・」
父は、記憶力もだが、理解力、判断能力も落ちてきている気がする。
頭が痛くなる。
・・いや、大丈夫だ。21日には帰省する。帰りさえすれば、色々なことができる。詳細も掴める。
大事なのは、情報収集(実家にPCはない)と自分の体調管理だ。

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歩行困難な母のトイレ介助

母の一時帰宅に合わせて電話。
久しぶりに母と電話で話す。
「昨日はありがとうねぇ!あんたの作ってくれたお弁当のおいしかったこと!」
と妄想(?)から始まるが、双方向の会話はしっかり成立するので驚く。
「来週から1週間帰るよ」と伝えると
「駅まで車で迎えに行くからね・・あ・・運転したら危ないって言ってたっけ?」
(3月、皆で何度止めても「運転を止めたら買い物にも行けなくなる」と聞く耳を持たなかった。)

それでも私が、母と会話らしい会話をできたのは、3月以来だ。
これくらいしっかりしていれば自宅でも介護できるのでは?という思いが、突然、沸き上がる。
父や妹の日々の迷いが、実感できる。

妹に訊くと、今日は、頭はずいぶんしっかりしているという。
(それでもずっと妄想話は、話し続けているらしい。)
泣いたり怒ったりの感情失禁もここ数日間ないと言う。
(薬の効果だろうか?)

でも体が、動かない。
手すりをの使い方が理解できなくなっているので「この手でここを掴んで」と一歩一歩手取り足取り指示を出す。
すぐにひっくり返りそうになるのでずっと支える。
妹「トイレに行って帰ってきたら、もうお互いヘトヘトだよ」
(ポータブルトイレもあるのだが、妹は、母の運動、リハビリのためにトイレに連れて行った。)

リハビリ担当者の話では、もっと良くなるはずではなかったのか?
ちゃわさんのコメントにある「リスパダールの副作用」なのだろうか?
遠距離にいると何もわからない。主治医に色々訊きたい。

病院を出発する直前にトイレで失敗して、ズボンを便で汚してしまったそうだ。
妹「それをお父さんったら、私に<洗っといてくれ>って言うんだよ!ほんとにあれで介護する気あるのかな!」
経験がないので、何をどうしたらいいのかわからないのかも知れない。
でもそれならそれで、学ばなければ・・。
ヘルパー2級の資格取得のために毎週講習に通っていた時、妻の介護目的に来ていた男性がいた。
自宅で介護するなら、その位の姿勢、準備がなければと思う。
単純そうな車椅子の使い方1つでも色々な注意事項はあるのだ。
「その時になればちゃんとやるし、ちゃんとできる!」と父は怒っていたけれど。

子ども達が赤ちゃんだった頃、夫が、「ウンチだけは、どうしても無理だ」と言って、一度もウンチの付いたオムツを替えなかったことを思い出す。
当時、海外に住んでいて、時間的にも余裕があったせいで積極的に育児に関わっていた夫ですらそうだ。
男性には、どこか甘え(逃げ)がある。例外もいるのだろうけれど・・。

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働く側から見た特別養護老人ホーム

書くのはかなり気が引けることなのだが、私は、特別養護老人ホームで週2日、1年少々働いたことがある。
3~4年程前のことだ。
けれども私には勤まらず、体調を崩したのを機に辞めた。
挫折した人間に、あれこれ語る資格もないと思うが、特別養護老人ホームについて少し書いておこうと思う。

私は、ヘルパー2級の資格を取って、パートの仕事(1回4時間)に就いた。
入居者の入浴前後の着替え、食事介助、歯や入れ歯磨き、シーツ交換が、主な仕事だ。
それは、頭も体も心もフル回転させなければできない、想像以上に大変な仕事だった。
事故(転倒骨折など)防止には常に神経を使い、入居者1人ひとりの細かい多くの情報を暗記する必要があった。
自分の体重の倍ある寝たきりの人を1人で抱え上げることもあった。
仕事の日は、毎回500g体重が減った。
職員のほとんどは、深刻な腰痛持ちだった。

それでもそこで働く職員(パートを含めて)のほとんどは、本当に心の優しい人たちだった。
皆、入居者の笑顔をやりがいとして、問題行動(弄便、暴言、暴力、何でもあった。)に接しても笑顔や声かけを絶やさず、決して叱りつけたりせず、辛抱強く、愛情を持って接していた。
今、思い出しても本当に頭が下がる思いがする。

もちろんそうでない職員も何割かはいる。
でも彼らは、次々と退職していった。
愛情を持てなければ、決して続けられない仕事なのだと思う。

一番辛かったのは、入居者の気持ちよりも健康と安全を優先させなければならない時だった。
それはいつも葛藤を生んだ。
母が病院でされているように、危険性のある人は、本人がどれだけ希望しても部屋には戻さない。
夜間の問題行動がある人は、「眠い。横になりたい」と言っても何とか起きていてもらう。
「食べたくない」という人には、色々話しかけ、気を散らせながら、とにかく半分以上は食べてもらう。
(もっともこれはやりがいを感じる仕事だった。母の病院での食事介助にも役立った。)
「お風呂に入りたくない」という人は、色々説得するが、職員によっては、無理矢理入れた。
それは、皆、健康(衛生を含める)と安全を守るために必要だった。そう上司から説明された。

家族によっては、1日風呂に入っていないだけでもクレームを付けてくる場合がある。
限りなく要求してくる家族は常にいた。
家族の気持ちは良くわかる。
でもそれを叶えるためには、職員の数を倍増しなくてはいけない。
慢性的に人手不足の中で、職員は、文字通り骨身を削って必死で働いていた。
時間さえあれば、人手さえあれば、もっと細やかにお世話したいと、皆、思っていたのだ。

全ての物事に良い面、悪い面があるように、特別養護老人ホームにも多くの良い面、そして悪い面がある。
それは家族の自宅介護でも同じではないだろうか。
家族にしかできないことはあるが、介護職員だからこそ上手くいくこともたくさんある。
様々な人の様々な問題行動を実際に見、介護が困難な多くの人たちを見た後、私は、家族よりもプロの介護の方が望ましい場合があると考えるようになった。

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試しに始めてみました。ランキングというのは、ちょっと抵抗があるのですが
これをクリックして頂けるとどの記事に訪問の方が多いか等が分かるようです。
今後書く記事の参考にしたいと思っています。
クリック、どうぞよろしくお願いします。
しば










知的障害者の兄と世話焼きの母

兄は、母の状態が悪くなってから妹の手配(市の福祉課で相談)で2泊のショートステイを月5回ほどに増やした。
それ以前は、宿泊訓練という名目で月に1泊ほどしていた。

兄が2泊を受け入れられるかどうかは、試してみるまで誰にもわからなかった。
行って、何かトラブルがあったり、気に入らなければ「ダメ」と言って、もう2度と行かない。
兄を説得して一度決めたことを変更してもらうことは、ほとんど不可能だ。

けれども私たちの心配をよそに兄は、喜んでショートステイに通うようになった。
私「○○(ショートステイの名前)で何するの?」兄「ご飯。お風呂。寝る」
「ゲームとかしないの?」と訊くと、首をひねっている。
「(作業所の)友達も一緒?」「○○さん」とても嬉しそうに答える。
(兄は、男性はすべて「君」、女性はすべて「さん」で呼ぶ。)
「○○さん、優しい?」「優しい!○○さん、優しい!」
兄にもささやかな楽しみができたことを本当に良かったと思った。

兄の性格は、基本的には穏やかで思いやりがある。
ここ数年、母の買い物には一緒に行って荷物を全部持ってくれたという。

しかし一緒に暮らす両親は、常に忍耐を強いられる。
「手伝い」と言って、ゴミ収集の日でない日にゴミを捨ててくる。
「汚い」と言って、その辺に置いておく手紙でも金券でも何でも捨ててしまう。
今年になって色々なものが次々となくなっていても、すべては兄のせいだと思われていた。
説明して止めさせることは無理だし、とがめれば爆発して叫び出してしまう。
人混みも高い所もスピードの出るものもパニックになってしまうので、旅行の範囲も限られる。

10年以上前から大声で独り言を何時間も繰り返すようになった。
父が、それを聞き流せるようになったのは最近だ。
「静かにしろ」と言えば、やはり爆発する。
なぜ言うのかは、わからない。兄なりのストレス解消法なのかも知れない。
お経のように長年いつも全く同じセリフを延々と繰り返す。
「お父さん、お母さん、仕事。仕事。仕事。トトトトトト・・。
僕、○○学園(作業所の名前)仕事。仕事。仕事。トトトトト・・・。」
兄は、重い言語障害もあるので、他人にはほとんど聞き取れない。

妹は、最近、その独り言が変わったと言った。
「お母さん」がセリフから消えたという。
そして「お父さん、ありがと!」と言うと。
兄は、食事の支度や家事をしてくれる父に心の中で感謝をしていたのだ。

兄の座るテーブル(決まった時間になると必ず座る。)に父が2人分の食べ物をせっせと並べ、「さぁ出来た。食べるぞ」と座ると、既に二人分の揚げ物(買って来た総菜)がなくなっている・・。
「○○(兄)のやつ。一瞬で食うんだぞ」という父の話に、私は、ただ笑っていたけれど・・。

母は、そんな兄の世話を常に細かく焼いて来た。
兄の入れ歯の取り外しを自分でできるようになるまで半年ほど毎日練習させたと言っていた。
母は去年まで「○○(兄)は成長してるよ。ボキャブラリーも増えたよ」と嬉しそうに言っていた。
多くの持病を抱えて、歩くこともおぼつかなくなってきても
「○○(兄)のために1日でも長く元気でいないと」と繰り返していた。

母は、認知症になっても一生兄の心配をするのだろうと私は思っていた。
病院ではあまり兄の生活の心配をすることはなく、その部分では、ほっとしていた。
しかし一時帰宅をして兄を目の前にすると、以前のように世話を焼きたがるようだ。
そして「何にもやれなくなっちゃった。やれると思ってることが何にも出来なくなっちゃった」
と悲しそうに言ったそうだ。

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故郷を離れるということ

私は、私の子どもたちに、今の母のことをほとんど話していない。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、わからない。
ただ話す気になれない。
彼らの心にある優しく、お茶目で、可愛い祖母(母)が壊されてしまうような気がして・・。

それでも私を見ていると色々感じるのだろう。
「3人(両親と兄)ともこっちに引き取ればいい」と二十歳の子は言った。
衝撃を受けた。
一度も考えたことがなかった。

もし故郷に妹がいなければ、おそらくそれは現実味を持った選択肢だったのだろう。
もしそれが可能ならば・・・体はどれほど厳しくても、心はどれほど楽になるだろう・・。

けれども子供は知らない。
生まれ育った故郷を捨てるということが、どういうことなのかを。

親(父母の両親は既にお墓の中だが)きょうだい、親戚、幼なじみ、小中高の同級生、友達、仲間、親しい近所の人たち、ほぼ全員があの街にいるのだ。
お互いに常に助け合いながら、強い絆を保ち続けているのだ。
父には、父の腕を信頼し、仕事を依頼してくる大勢のお得意さんがいる。
父が、情熱を傾け、人一倍の努力を長年続け、やっと築き上げてきた人間関係だ。
兄(重い知的障害のため生活のパターンを変えるということがほとんど不可能。)にも同じ作業所で働く仲間が、友達が、淡い好意を持つ女性がいるのだ。

私の故郷は、日本の中でも郷土愛がとても強い地域だと思う。
そこに生まれ育ったことを誇りに思う地域文化がある。

故郷に戻り、親しい人たちと方言で話すたびに「あぁ、これが本当の(地の)私だ」と思う。
ならばその方言を話すことのない日常、人生を送っている私は、一体何なのだろうと思う時がある。
それはそれで、もちろん「私」だろう。
けれども「根っこが失われた」という感覚は、今までの何十年間もこれからも消えることはないと思う。
外見は同じ樹でも、見えない地中で、根は、千切れている。

それは、私の選択だから、後悔はしない。
でも両親や兄に同じ思いをさせることは、私には、考えられない。

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抑肝散(よくかんさん)を処方されるまでの長い道

母に抑肝散(よくかんさん)が処方された。
認知症の妄想・幻覚・興奮などに良く効くと言われ、最近急に知られるようになった漢方薬だ。
妹が、看護士を通して処方をお願いしただけで、主治医と会って話したわけではないので、細かいこと(今まで幻覚を減らす目的で飲んでいたリスパダール<主に統合失調症に処方される薬>を止めたのかどうか等)はわからないが、とにかく母は、抑肝散を飲み始めた。
ここまでの長い道のりを思うと、体から力が抜けて行くようだ。

抑肝散については、去年からネットで知っていた。
アリセプト(アルツハイマーの薬)や抑肝散によって、レビーの症状も抑えられると色々なサイトに書いてあった。
すぐにも母に処方してもらいたかった。
一日でも早ければ、それだけ進行を遅らせることができると思った。
私と妹は、母の病気が、パーキンソンではなくレビーだと去年の末から確信していた。

けれども主治医(4月に代わる前の医師)は、全く取り合ってくれなかった。
自分が誤診したかのように言われて腹が立ったのだろう。
じゃあ、薬をどうするか決めろ。これを減らすのか?あれを増やすのか?と迫られて、妹は、何も言えなくなってしまったと言う。
「レビーかどうかなんて、頭を割って解剖してみなければわからない」と主治医は言った。

その電話を聞いて、命綱を切られたような気がした。

3月。私が、主治医と会い、認知症は、既に日常生活に支障をきたすまで進んでいると説明した。
言葉を厳選し、主治医の機嫌を損ねないように、最短の時間で最大の情報を正確にわかりやすく伝えられるように、頭を振り絞った。
「認知症症状は、(母の持病の)甲状腺からも出るし、肝臓からも出ます。
何が原因かは、今日の血液検査からは特定できません。
もっと症状の悪い時に来て、検査をして下さい。
脳の検査でも異常はありません。萎縮も梗塞もない。
(レビーという)可能性もありますが、例えそうだったとしても、治療法はありませんし、治す薬もありません。
なるべく刺激を与えて、一人でぼーっとテレビを見ているような生活はしないことです」
(蛇足だが、働き者の母は、一日もそんな生活はしていなかった。)

以前にも書いたが、母は、この市立総合病院に38年間通院し、数々の持病を総合的に診てもらっていた。
病院を変えれば良いという簡単な問題ではなかった。
それでも父と妹と私は、一度他の病院で診てもらい、何とか母を救う道を見出そうと話し合っていた。
では、どこの病院が良いのか。
レビー小体型認知症家族を支える会のサイトを見ると、レビーの専門医は、県内に一人もいないと書いてある。
それなら県外のどこの病院ならいいのか。
毎日のようにネットで調べている内に、母は、骨折で入院した。

抑肝散は、NHK「ためしてガッテン」でも認知症に効く薬として紹介されたようだ。
「クローズアップ現代」でもレビーの患者に劇的に効いた例を紹介した。
それを見た父は、「どこでもいいからあの薬を出す病院を調べてくれ」と言い、私は「まず主治医に処方を頼んでから」と説得した。
しかし父は、待ち切れず、いてもたってもいられなくなった。
「あの薬を手に入れてくれ!俺が飲ませる!」
常道を逸するほど、父も切羽詰まっていたのだ。

今思えば、私も愚かだった。
5月に初めて認知症と診断された時、私は診察に立ち会っていたのだ。
「幻覚を減らす薬を処方しましょう」と言われて、「そうして下さい!お願いします」としか言わなかった。
その薬の名前すら確認しなかった。

抑肝散も全ての患者に効くわけではない。
漢方薬とはいえ、副作用があることも知っている。
でも、7ヶ月以上切望していた抑肝散が、ついに、やっと処方されたのだ。

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しば

母らしさ復活 思いやりの言葉 病院側の説明

母は、先日は、久しぶりに機嫌が良く、同室の方に車椅子でフラダンスを踊って見せたらしい。
(母は、フラダンスを習ったことはないから、即興でおどけたのだろう。)
一日あけて見舞いに行った父にも「♪おひさしぶ~り~ね~♪」と歌ったそうだ。
ずいぶん久しぶりに母らしいお茶目な面が出たことを知り、ほっとする。


職場で1人ひとりに1週間休む事情を説明して回っていた時、一番年配の女性(介護経験者)が、目を真っ赤にして声をかけてくれた。
「お母さんもつらいと思うわ。あなたもつらいだろうけど、納得いくまで介護してあげて・・」
その表情、その言葉が、体中に深く染み渡って、溜まっている重たいものを溶かしてくれるのを感じた。


病院では来週、退院カンファレンス(会議)があるそうだ。
一泊の一時自宅も何度か試し、問題点を掴み、対応策を考えてくれるという。
妹は、看護師からオムツ交換のコツ、家での運動、リハビリのことなど細かく指導してもらったようだ。
病院がそこまでしてくれるとは、全く知らなかった。ありがたい。

看護師(若い男性だったそうだ。)からの言葉は:

昼間は、時間を決めて声かけさえすれば、トイレの失敗はほとんどない。
トイレは、リハビリのためになるべく自分でやらせるようにする。

夜は介護する側も大変なので、なるべく夜用の厚いパッドを使う。(敷き方にもコツがあるらしい。)
できれば夜中に一回パッド交換できればとベストだが、介護に無理は禁物。

明け方、パジャマを脱いでしまうことがよくある。
濡れたオムツが気持ち悪いせいだろうとのこと。
(脱げない特別なパジャマにしたが、器用に脱いで看護師を驚かせるようだ。)

排便は、座薬で調整し、夜中には出ないようにしているので、明け方便に触るということもなくなっているようだ。

妹は、母の様子をここまで詳しくはっきりと説明してもらったのは、初めてだと言う。
安心して心も落ち着いたようだ。
私も何度病院に行っても、詳しい説明を求めても看護師が母の問題行動をはっきりと説明してくれず、フラストレーションが溜まった。
遠回しな言い方しかされなければ、勝手に想像するしかない。
今も頻繁に便を触り続けているのかと思っていた。

はっきり問題行動を伝えると「病院側の対応が悪いせいだ」と怒る家族がいるのだろうか?
なぜ家族にすら隠すのだろう?
不安をあおるだけなのに。

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認知症になる前の母 

認知症になる前の母は、どんな人だったか・・。
ここ数日考え続けているが、知っていることの少なさに、愕然とする。
母は、日々、何を喜び、何を悲しんでいたのか。
18才までしか一緒に暮らさなかった私は、母の断片しか知らない。或は、覚えていない。
(だが私と同居している私の息子たちもまた私の断片しか知らないのだろうとも思う。)

母は、明るく社交的で、人の輪の中心にいて、いつもおどけて皆を笑わせていた。
誰からも慕われる人だった。
反面、昔から時々ふさぎ込んで鬱状態にもなっていた。
(甲状腺の症状なのだろうと思っていた。パーキンソンでも認知症でもそうなる。)

生活は、厳しく切り詰めながら、ひたすら貯金をし(兄と3人分の老後の資金を貯めようとしたのだろう)しかしここぞという時には、どんと大金を出す太っ腹でもあった。

20才で自営業の父と見合い結婚をし、父と共に、土日もなく朝早くから夜遅くまで働き続けた。
34才で甲状腺の病(当時は癌と誤診された)を患って半年以上入院し、それを機に父が店をたたんだ。
再び、今度は兄のために、3人で家でできる仕事を始めるまでの数年間は、初めてゆったりとした生活をし、趣味で始めた皮細工に熱中したり、パンを焼いたりして、楽しそうにしていた。

色々な人に頼られる反面、私が幼稚園の頃から高校を卒業するまで「お兄ちゃん(私の兄)を頼むね」と言い続けていた。
明るい笑顔の影で、何だかいつも歯をくいしばって生きているように(子どもの私には)見えた。
障害児を持つ母親は、多かれ少なかれ、皆、そうなのかもしれないと思う。

ヤクザに因縁をつけられて大喧嘩をしたり、飼い犬の死に号泣したり・・。
思い出すことは、色々あるけれど、やはりそれは、母の断片でしかないのだと思う。

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レビー小体型認知症の母の初期症状(料理ができない・暴言・転倒)

今までの経過を振り返ってみても、母の認知症症状が何年前から始まったのか、よくわからない。
去年から「(母は)認知症だと思わない?」と何度訊いても「70過ぎれば誰でもあんなもんだ」と父は否定していた。一緒に住んでいる父がそう言うのなら違うのだろかと、去年の暮れまでは思っていた。
「そういえば1年位前からしょっちゅう鍋を焦がしていたなぁ」と今、父は振り返る。

私が、最初に違和感を感じたのは、料理だ。
私が、子どもと帰省すると電話をすると、「そう!」と嬉しそうな声を上げるのは一瞬。
その直後から「食事はどうしよう。何を作ったらいい?何を買っとく?」とオロオロし始めたのは、もう5年以上前のような気がする。
「私が3食作るから」と何度言っても母の不安は全く解消されなかった。
普段作っている人数分以上の料理ができなくなるのも認知症の症状だそうだ。

その不安は、年々強くなり、2~3年前からは、帰省の1ヶ月以上前から「居る間のすべての献立とそれに必用な食材を書き出してファックスで送れ」と執拗に繰り返すようになった。
不安でたまらなくなるようだった。

何年も前から、3人分の簡素な食事を作るのに2時間以上かかると聞いていた。
パーキンソン病で、動作も頭の回転も極端に遅くなっていたので、そのせいだと思っていた。
歳をとると心配性もこんなにひどくなるのかと思っていた。


暴言とまでは言えないが、思いやりの深い母の言葉とは信じがたい言葉を聞くようになったのも1年以上前だ。
母の日に送った○○が、封も切られずに放置されていたのを見付け、静かに訊いた。
「どうして食べなかったの?」
「○○の産地に○○なんか送ってくる方が悪い!どうかしてる!」
認知症とは思わず、単なる脳の老化なのだと思ったが、ショックだった。


転びやすい
それはパーキンソン、レビーに共通する症状だが、私は、つまずいて転ぶのだとずっと思っていた。
でも3月に一緒に歩いてわかった。
普通に歩いていて、突然バランスを失って転ぶのだ。
「地面を歩いてる気がしない。スポンジの上を歩いてるみたい。自分の足が、下についているのかいないのか、よくわからない」と母は、言った。

そうかと思うと足の動きを自分では止められなくなって、人形のようにトコトコ進みながら
「止めて~!助けて~!」と叫ぶ時もある。
これも症状だ。
母が、転ばない日はないようだった。

母は、去年の夏、転んで腕を折った。まだ元気だった頃だ。
4月にも転んで激痛を訴えた。
病院に行くと「非常に珍しい、危険な折れ方で、下半身麻痺になるかも」と言われた。
入院した途端に、支離滅裂なことを言い始め、家族は血の気が引いた。

入院4日後に初めてMRIを撮ると「折れていませんねぇ」。
即刻荷物をまとめて帰宅し、その直後にまたひどく転んだ。
その後、父が仕事から帰る(父の仕事は一日中家を出たり入ったりする。)度に、母は、庭で、トイレで、台所で倒れていたと言う。
転んで起き上がれなかったのだ。

腰椎圧迫骨折が、いつ起こったのか、もう知る術はない。
母は、全く痛がらなかったという。神経が麻痺していたのだろう。
母の身体症状も認知症症状も日々悪化していった。
母は、オムツをし、完全に寝たきりになった。

レビー小体型認知症は、転びやすい分、アルツハイマーよりも寝たきりになるのが早いとネットには書いてある。

認知症患者の半数はアルツハイマー。20%がレビー小体型認知症。15%が脳血管性。その他が15%。
レビーの患者は、全国に約50万人いると見られている。
(数字は、2010年のレビー小体型認知症家族を支える会 HPより。)

<関連記事>
レビー小体型認知症 初めの一歩 まずここから読もう!
入院中に「せん妄」(意識障害)を起こしやすい人とは

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自宅介護は短期決戦に/介護の負担・費用

穏やかだった翌日の母は、やはり「最悪だった」と聞く。
ジェットコースターのようなアップダウンが、母の認知症の特徴なのだ。
「看護師が、財布からお札を抜き取る」とも言い始めたらしい。

妹は、今日、ケアマネから今後のことを訊かれたようだ。
退院予定日がどんどん延び、デイケアなどの予定が狂ってきているためだ。
病院は、退院前に母と一緒に自宅を見て、改修工事が必要かどうか判断したいと言い、リハビリ担当者は(施設ではなく)自宅に帰るのならもう少しリハビリが必要だと言う。

妹が、ケアマネに現状を説明すると
「そういう状態では自宅介護は無理ですね。
できるだけ早く、できれば8月1日からグループホームに入所できるよう手配しましょう」
プロに言われ、自宅介護を希望していた妹の気持ちが変わった。

妹「でもお母さんに何て言えば、納得して入所してくれるのかな・・」
状態の悪い時なら、どこにいるかもわからないだろう。
頭がクリアーで暴言モードなら・・・。覚悟しなくてはいけない。

今日、職場に、退院に合わせて1週間の休みの希望を出した。
同僚には、一人ひとりに状況を説明して回った。
1週間の間に、母に入所を納得してもらわなければ・・。
一緒にグループホーム見学にも行ってみよう。
主治医とも話がしたい。
人生で最も濃い1週間になるんだろうなと思う。

子どもが受験を終えたタイミングで良かったねと友人が言う。
確かに考えてみれば、私は、本当に身軽だ。
フルタイムで仕事をしているわけでもない。
夫も「心配なら、いつでも帰っていいんだよ」と心から言ってくれる。
義父母の介護をしながら、自分の親の介護もという人だって世の中には、いくらでもいるだろう。
ケアマネをしている友人は、「夫婦それぞれが自分の親を看るという形も増えている」と言う。
介護者本人が、がんを患っているとか、御主人はリストラとか、子どもは引きこもりとか・・・。
身の回りで聞く話だ。

グループホームは特別養護老人ホームよりも費用が高く、オムツ代まで入れれば月々20万円近くになるという。
その費用負担(分担)すら求められないという幸運な立場に私は居る。
もし両親に経済力がなければ、グループホームは、選択肢にすら入れられない。
子どもの教育費を貯金する人はいても、将来に備えて親の介護費用を貯金する人は、いないだろう。
でも実際にかかる費用は、息子たちの私大の学費よりも高いのだ。

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一転、穏やかになった母

母は一昨日見舞いに行った妹を笑顔で握手して見送ったという。
先のことは、本当にわからないのだと思う。
心に広がる安堵感の深さに、我ながら驚く。
明日のことは、わからないにしても・・・。

昨日は、再び、短時間(4時間強)だけ一時帰宅を試したという。
(看護師が退院に備えて、環境の変化に適応できるよう、一時帰宅を勧めたという。)
今回は、頭がはっきりしている時間が長く、しばらくは、落ち着いて穏やかに過ごしていたという。

しかしやがて「私は病院には行かない!病院で話を付けて来て」と言い始めた。
父が、怒鳴らず、怒らず説得したがだめ。
妹が、根気強く説得すると、目に涙を浮かべて「わかった」と言い、おとなしく病院に戻ったという。
3月以降、私が帰省した時には、説得して理解できた時は一度もなかったので、驚く。
父も妹も母の調子の良さには驚いたようだ。
「このくらい穏やかなら、何とか自宅でもやっていけそうだと思った」と妹。
妹にのびた髪を切ってもらい、足を洗ってもらい(指の間の垢が常にひどいようだ。)、むくんだ足をマッサージしてもらい、母は、どんなに心安らいだだろう。

帰宅後に通うことになるデイサービスについても「とっても良い所だよ」と初めて伝えたそうだ。
普通の家に、赤ちゃんから小学生までの子ども、お年寄り、がんの末期患者まで、様々な人たちがいるのだそうだ。
障害者も受け入れているらしい。
私も理想的なあり方だと思う。
子ども好きの母が、幻覚(幻視)ではない本当の子どもたちと触れ合えば、きっと良い効果が出ると妹は期待をしている。

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妹の思い 遠距離介護の限界

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暴言。一時帰宅の記憶

妹が病院に行くと、母は、今日も「家に帰る!」と大騒ぎをする。
でも最近、単純な「怒り」から憎しみを込めた「暴言」に変化している。
それも意味のない支離滅裂な暴言ではなく
「私がどれほど辛い思いをしてるか知りもしないくせに!!さっさと帰れ!!」
など、妹の心に突き刺さるようなことを言っている。

妹は苦しんでいる。
ナースステーションで一日中、車椅子にひもで縛られてる姿も可哀想でたまらないという。
まるで何かの罰で見せしめのためにそうしているように感じると言う。
「もう疲れた。横にならせて」と母が言っても、決してそうしてくれないのは、拷問のように感じるという。
「誰だって一日中座らされていたら辛いよね。だから足だってあんなにむくむ」
私も見たが、母の足は象のように太くむくんでいる。

ひもで固定されているのは、母が立ち上がって転倒し、骨折するのを予防するため。
ナースステーションに居るのは、母が、病室で何をするかわからない危険を避けるため。
横にさせないのは、昼夜逆転気味で、夜、問題行動を起こす(便にさわる。ベッドから落ちる)母を夜、眠らせるため。
確かに母には可哀想だ。でもしかたのないことだと私は思う。
しかし目の前で母の苦しみを見ている人間は違う。どこまでも苦しむ。

「昨日(一時帰宅)はどうだった?」
妹が訊くと、母には、帰宅した記憶がまったくなかったそうだ。
「家に帰ったよね?○○で一緒に食事したよね?」
と訊いていくと、少しづつ思い出して
「でも、あの子ら(幻覚でいつも見る子どもたち。名前もある)もいなかったし・・。
もう行きたくない。楽しくなかったし・・」
帰れて良かった、嬉しかったという言葉は、一言もなかった。
妹。「あれだけ頑張って連れて帰ったのに・・」

そしてまた、その直後から、もう行きたくないはずの家に帰るのだと泣き、怒り、暴言を繰り返す。
多分、明日も明後日も・・。

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母の一時帰宅

毎日「家に帰る!」と言い張り、泣いたり怒ったり大騒ぎする母のために、一時帰宅が許された。
一度家に帰れば、気も晴れて、落ち着くのではないかと、妹も看護師も思ったようだ。
私は、一度家に帰れば、今度は「病院には帰らない!」と暴れるのではないかと心配していた。
父も妹もそれは覚悟していたが、家に帰ればきっと精神的に落ち着くと信じていた。

父は前日の夜中まで家中に手すりを付けて受け入れ準備をした。
(既に家中に手すりはあったが、さらに隙間なく両側に取り付けたようだ。
本当はケアマネを通して、業者に付けてもらわなければ介護保険が使えないのだが、気の短い父は、それを待っていることができず、さっさと自分でやってしまった。)

しかしその手すりが使われることはなかった。
母は、自力ではほとんどまったく歩けず、立ち上がることすらできなかったそうだ。
(骨折入院する前の数週間と同じ状態。)
リハビリ室では、両脇の手すりにつかまって、かなり歩けると聞いていたのに。

認知症の状態も悪かったらしい。
家に帰ってきた喜びを感じている様子はなかった。
2度オムツに大量の便をしながら、本人は全く気がつかない。
しかしそれを笑顔で世話した妹には、
「悪いね。悪いね。ごめんね。ごめんね」
とずっと言い続けていたという。
「私、だめだね・・だめだね・・」
と繰り返す母は、しょげ返って、静かに病院に帰った。

妹は、げっそり疲れたようだ。
父は、妹が買い物から戻ってくると母を怒鳴っていたらしい。
運悪く兄も精神的に調子が悪く、爆発して叫び続け(普段から時々そういうことがある。)それを聞いた母は、自分の頭を叩き始めたという。
母も父も妹も、笑って過ごせる穏やかな時間を期待していたのに・・・。

「病院ではわりとちゃんと食べれてたのに、レストランでは全然だめ。犬みたいに食べる」と妹は、ため息をつく。
父は、食べ方には全く触れず「一人前、全部食べたぞ!あれだけ食欲があれば、きっと良くなっていくと思うんだ。(私、すぐには返事ができず沈黙)なぁ・・・そう思うしかないだろ・・」

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遠距離に住む娘(私)の気持ち

「中高年の悩みは、それまで抱えていたものより大きな悩みを抱えることで、それまであった悩みが薄れる・・という形でしか解決しない。」
以前、何にそう書いてあった。
誰が書いたかも覚えてはいない。
今、本当にその通りだと思う。
母が一気に悪化した3月から、考えてみれば、ほとんどの事は、「どうでもよいこと」になった。

突然の遠距離介護が始まってから、私は、それまでの私が、何てお気楽に生きてきたかを思い知った。
田舎の両親は、元気(母に持病はあるとしても。)で当たり前、自分たちで生活できて当たり前と思い込んでいた。
介護なんて、80、90になってから考え始める話だと思っていた。
(母は、71才だ。)

帰省したいという気持ちはあったが、子どもと3人で新幹線で帰省すれば、5万円以上かかる。
子どもが、部活だ、受験だと忙しくなってからは、1年に1回しか帰らなかった。
なぜもっと帰らなかったのか、なぜもっと一緒に旅行に行かなかったのか、なぜもっと・・・。
腸が引きちぎれるかと思うほど悔やんだが、過去は変えられない。

春には、街を歩く老人を見ると、激しい怒りが込み上げた。
「この人も、あの人も、こんなに元気に歩いているじゃないか!自分で買い物ができるじゃないか!母よりはるかに年上だろう。なぜ71の母が、寝たきりにならなきゃいけないんだ!」

今、人混みを見ると不思議な親近感を覚える。
ここにいる何百、何千のほとんど全ての人が、自分の親(或は養育者)を苦しみながら見送ったか、今、そのただ中にあるか、これから見送るのだ・・。

でも生まれた数だけの人が死んでいくのに、なぜ介護の知識や方法は、受け継がれていかないのだろう。
核家族だから?
ほとんど全ての人が通った道なのに、自分の番になると、何もかも初めての事で、何をどうしたらいいのか途方に暮れる。
問題は次々と起こっていく。
ブレーキの壊れた車のように暴走は止まらない。
そして、遠くに住む私は、ただそれを聞くだけだ。
両手両足を縛られ、猿ぐつわをはめられて、目の前で家族が拷問を受けるのを見ているようだと思う時がある。

「心穏やかな余生を過ごさせてあげようね」
と妹が言う。
そんな日が来ることを心の底から祈っている。

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プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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