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知的障害を持つ50代の兄の成長

「塞翁が馬」を信じている。
では、両親が認知症になって、何か良いことはあったかと訊かれれば・・。
あった。重い知的障害を持つ兄(50代)が、劇的に変わった。

母は、知的障害を持つ子供の、1つの典型的な母親だった。
(韓国映画「母なる証明」を見た時、主人公(母)は、母にそっくりだと思った。)
兄の一挙一動に世話を焼く。
『命に代えてもこの子だけは私が守り抜く』という執念と悲壮感が常にあった。
それが母にいくつもの難病を発症させてきた気がする。

兄は、認知症という病気を理解することはできないが、母がもう「頼れる人」ではなくなったことを早い時期からわかっていた。
それまで母に任せていた多くのことをできないながらも自分からするようになった。

以前にも記事に書いたが、兄は、自分から電話に出られない人だった。
重い言語障害もあり、言葉で他人と意思の疎通をすることは、とても難しいからだ。
私と2人きりの時に電話が鳴ると、半ばパニックになって「デンワ!デンワ!デンワ!」と叫んだ。

母が、グループホームに入った後、私が、実家に電話をすると兄が初めて電話に出た。
「オトウサン、オカアサン、イナイ!」
電話をかけてきた相手を知ろうともしないまま受話器は、ガシャンと置かれた。
それでも兄が、勇気を奮って電話に出たことに驚いた。

やがて、私の声を聞き、電話を切らなくなった。
中々会話は成立しないけれど、とにかく双方向で話せるようになった。

先日は、電話で初めて近況を教えてくれた。
単語の羅列だが、「友達と○○に行った。楽しかった」という内容だった。
兄が、自分の近況をそんな風に教えてくれたのは、初めてだった。

兄は、今、グループホームから通所授産所(作業所)に通っている。
グループホームの職員の方が、一生懸命兄の話し相手になってくれているのだと思う。
兄は、自分にも人とコミュニケーションができるのだという自信を身に付けたように見える。

父が母を自宅に連れ帰った時、妹が、「ほら!黙ってないで歌でも歌って盛り上げてよ」と母に言った。
すると兄が、突然、タイガーマスク(古いアニメ)の主題歌を歌ったのだという。
「最初は何だか全然わからなかったんだけど、よく聞いてたら、どうもタイガーマスクみたいなんだよね!」と妹は、驚いていた。
母を見る度に「カワイソウ」と涙を見せる兄は、母を喜ばせようと必死だったのだろう。

*このブログのカテゴリー「重度知的障害の兄のこと
*過去の記事「障害者ときょうだいと認知症を患う人
*過去の記事「障害者のきょうだいの抱える問題


P1020808.jpg
露草(ツユクサ)
去年撮った写真。とても好きな花。


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聴く力

今回一緒に帰省した私の子供が、「○○おじちゃん(私の兄)、変わったね」と言う。
重い知的障害と言語障害を持つ兄が、彼らにも自然に話し掛けるようになったという。

言われて初めて気が付いた。
確かに兄は、以前よりもリラックスし、堂々としていた。
以前のように、こちらの反応に関係なく一方的にしゃべるのではなく、反応を見ながら色々なことを伝えようとしている。
言葉の壁を越えて、コミュニケーションを取ろうとしている。

以前の兄は、どうせ何を言ってもわかってもらえないと、最初から諦めているところがあった。
常にどこか緊張し、自信がなく、しかめっ面をしていた。
同じフレーズの意味のない独り言をいつまでも繰り返していることが多かった。
言われてみれば、今回、その独り言を聞かなかった。


新しく入ったグループホームの世話人さんたちのお陰だとすぐに思った。

彼女らは、重い言語障害を持つ兄にたくさんたくさん話し掛けてくれるのだろう。
そして兄の言葉をあたたかく、熱心に、最後まで聴き、共感してくれるのだろう。
そうした根気強い繰り返しの中で、兄は、自信を持ち、安心し、人と言葉で繋がろうという気持ちが持てるようになれたのだ。

50歳を過ぎた兄が、また大きな変化を遂げた。
奇跡のようなことだと思える。
家族にもできなかったことを彼女らは、恐らく自然にしているのだろう。
(そこに意志とたゆまない努力があるとしても・・)
大きな奇跡を起こしているということにすら気付いていないかもしれない。


兄に起こったことは、子供にも高齢者にも認知症やうつ病を患う人にも当てはまるだろう。
あたたかく聴き入ってくれる人が居れば、安心し、自信を持ち、心を開くことができる。
人とつながることができる。
人の心の動きにとても敏感で、口先だけの言葉など直ぐに見抜いてしまう彼らでも。

しかし誰もが、そんな風に彼らの話を聴くわけではない。
経済で動く社会の中で、弱者に敬意を持つという価値観は、存在しない。
見返りの期待できない人たちに対して貴重な時間を使うことを良しとはしない。

それは、なんという恐ろしい価値観だろう。
私たち全員は、生きている限り老い続け、脳を含めた体全体に少しづつ障害を持っていくのに。

P1040811.jpg
実家の庭の梅

つながる

今回一緒に帰省した子供が、「○○おじちゃん(私の兄)、変わったね」と言う。
重い知的障害と言語障害を持つ兄が、彼らにも自然に話し掛けるようになったという。

言われて初めて気が付いた。
確かに兄は、以前よりもリラックスし、堂々としていた。
以前のように、こちらの反応に関係なく一方的にしゃべるのではなく、反応を見ながら色々なことを伝えようとしている。
言葉の壁を越えて、コミュニケーションを取ろうとしている。

以前の兄は、どうせ何を言ってもわかってもらえないと、最初から諦めているところがあった。
常にどこか緊張し、自信がなく、しかめっ面をしていた。
同じフレーズの意味のない独り言をいつまでも繰り返していることが多かった。
言われてみれば、今回、その独り言を聞かなかった。


新しく入ったグループホームの世話人さんたちのお陰だとすぐに思った。

彼女らは、重い言語障害を持つ兄にたくさんたくさん話し掛けてくれるのだろう。
そして兄の言葉をあたたかく、熱心に、最後まで聴き、共感してくれるのだろう。
そうした根気強い繰り返しの中で、兄は、自信を持ち、安心し、人と言葉で繋がろうという気持ちが持てるようになれたのだ。

50歳を過ぎた兄が、また大きな変化を遂げた。
奇跡のようなことだと思える。
家族にもできなかったことを彼女らは、恐らく自然にしているのだろう。
(そこに意志とたゆまない努力があるとしても・・)
大きな奇跡を起こしているということにすら気付いていないかもしれない。


兄に起こったことは、子供にも高齢者にも認知症やうつ病を患う人にも当てはまるだろう。
あたたかく聴き入ってくれる人が居れば、安心し、自信を持ち、心を開くことができる。
人とつながることができる。
人の心の動きにとても敏感で、口先だけの言葉など直ぐに見抜いてしまう彼らでも。

しかし誰もが、そんな風に彼らの話を聴くわけではない。
経済で動く社会の中で、弱者に敬意を持つという価値観は、存在しない。
見返りの期待できない人たちに対して貴重な時間を使うことを良しとはしない。

それは、なんという恐ろしい価値観だろう。
私たち全員は、生きている限り老い続け、脳を含めた体全体に少しづつ障害を持っていくのに。

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実家の庭の梅







1月の帰省3日目(2)兄の心安らぐ場所

妹から電話が入る。
兄の授産施設(日中通って軽作業をする。)から電話があり、目を痛がっているので病院に連れて行って欲しいと言われたという。1週間位赤かったらしい。
妹には、こうして仕事中にも色々な急用が入るのだと思い知る。

車で迎えに行くと、兄は、「○○!○○!(私の名)」と言って、嬉しそうに笑う。
目の様子を訊くと、兄は、「○○君と○○君が、何かをして、そのせいで痛くなった」ということを一生懸命説明するが、悲しいかな、半分位しかわからない。(兄には、重い言語障害がある。)

診察の後、兄をグループホーム(宿泊場所)に送って行く。かなり遠い。
車の中でグループホームの様子をきくと「タノシイ」と言う。
色々訊いても、「ゴハン、オフロ、テレビ、ネル、タノシイ!」

辺り一面畑の中にポツンと1軒だけ立っている民家に着くと、兄は、嬉しそうに「ココ、ココ」と言いながら私を玄関に案内する。
きれいな玄関に入ると優しそうな女性職員2人が「おかえり~」と出迎えてくれた。

兄は、満面の笑みで私を2人に紹介する。
「○○(私の名)。イモウト。○○。イモウト。オカアサン、オナジ。○○。コンニチハ。コンニチハ(って言いなさい)」
そう言いながら兄は、私の頭をグイと何度も押し下げてお辞儀をさせた。

兄がそんなことをしたことがあっただろうか・・・?
それとも、私が、2、3歳の頃は、兄は、いつもそうしていたのだろうか・・・?
兄は、年長者として私を守り、導こうと思ってくれている・・・。
ひなたぼっこをしているようなあたたかさを感じた。

兄の部屋は、暖かく、美しく、清潔だった。
一緒に買ったベッド、テレビ。アグネス・チャンの写真も飾ってある。
兄は、とても柔らかい表情で、部屋にあった洗濯物を片付け始めた。
ここが、兄にとって心の安らぐ場所なのだとよくわかった。

2人の女性職員と話す。
「○○ちゃんは、穏やかで、困ることなんてないですよ。洗濯物をたたむのも上手で」
「そうですか・・。洗濯物は、母が、何年もかかって教えましたから・・」
兄が、親戚以外の人から愛称で呼ばれるのを初めて聞いた。

実家では、何日分も飲んでしまう薬もその日処方された2種類の目薬もここなら安心して任せられる。
兄は、週末だけ実家に帰るが、父は、兄の薬の管理ができない。
妹が、あれこれ一生懸命工夫してくれているが、どれも効果がなかった。

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冬のバラ


9月の帰省3日目(3)兄との日常

夕方、兄が、ショートステイ先から帰宅した。
私を見ると嬉しそうに「コンニチワ!コンニチワ!」と言いながら、何度も深々とお辞儀をする。
兄までが他人行儀だと思い、淋しさを感じる。
兄は、私の言うことは何も聞かず、一方的に大きな声で話し続ける。
少し様子がおかしい。
何かあったのかもしれない。

毎週1回通っていた歯科医院にしばらく行っていないことが診察券裏の予約票でわかっていた。
父に理由を訊くと「○○か?ちゃんと行ってるぞ」。
「全然行ってないじゃない」と診察券を見せると「そうかぁ?」。

「お兄ちゃん、歯医者さん、行かないの?」
「イイ。オワリ」
「何か痛いことした?」
「イタイ。ダメ。オワリ」
「行かないともっと痛くなっちゃうよ。痛くないように治してくれるんだよ」
「イタイ。ダメ。イタイ」
「歯医者さん、”○○君、来ないかなぁ”って、待ってるって言ってたよ。来て下さいって」
「オワリ!オワリ!ナシ!」
兄は、一度言い出すと修正がきかない。
時間を置いて、また説得しないといけない。

「お兄ちゃん、髪、伸びたねぇ。床屋さんしようか?」
「ダメ。センセイ、オコル」
「○○先生?怒らないよ~!”カッコ良くなったねぇ”って言ってくれるよ~」
「センセイ、オコル!」
参る。これも時間を置いて再度アプローチ。

冷蔵庫のプリンを見せて、「これ、お兄ちゃんのだから、食べてね」と言うと喜んでいる。
朝食用に買ったパンも食べるように伝える。(父に伝えるより確かだ。)

6時には、母のいる特別養護老人ホームに皆で集まって食事をすることになっていた。
母が食べたいと言った餃子とフランクフルト、その他、色々準備をした。
「(2人で感激した)インドカレーは?」と訊いたが、まったく記憶にないようだった。

兄と一緒に買い物のためにあちこち行った。
兄は、荷物をみんな持って運んでくれる。

ある店で店員が、兄を見てぎょっとした。
ちらりと見て一瞬『え?』という顔をするのはいつものことだが、ここまで激しく反応する人は珍しい。
『知的障害者と会うのは、生まれて初めて?・・変な人・・』と心の中で笑った。
そんな自分も『変な人か・・』と思い、思わず、くすり。


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撫子(ナデシコ)



4月の帰省4日目と5日目(1) キャンディーズの歌 兄の白髪

夜になって居間のテレビでキャンディーズの解散コンサート(1978年)をやっていた。
私は、体を動かしたくなって、足踏みでジョギングをしながら兄と見ていた。
私の子供も兄の横に座ってはいたが、携帯電話から目と指を離さない。

私「懐かしい~!(子供に)ねぇ。こういう歌って、どんな風に聴こえるの?」
子「(携帯電話をいじりながら)声、低い。古くさい。”昭和!”って感じ」
(子供は、平成生まれ。)
私「あ、そう・・。・・お兄ちゃん、テレビ(のチャンネル)、変えてもいい?」
兄「ダメ!!」

走っている内に気分が良くなってきて、「年下の男の子」を走りながら一緒に歌う。
ほぼ同時に兄も一緒に歌い出した。
私「お兄ちゃん、歌えるの~?!」

歌詞は、言語障害もありよくわからないが、音程は、それ程ひどく外れない。
兄が歌を歌うのを初めて聞いた気がする。
(兄は、40年近い間ずっとアグネス・チャンの熱烈なファンだが、キャンディーズも好きだったと初めて知った。)
若いスーちゃん、ランちゃん、ミキちゃん、兄、私の不思議な、楽しい(端から見れば奇妙な)合唱だった。


翌朝、兄の髪を切った。(ほぼ毎月切っている。)
帰宅した時から何度も誘って、やっとOKが出た。
剃り残しのひげと鼻毛は、既に切った。
毎月なくなるので隠しておいたすき鋏が、隠し場所になく、探すと台所から出てきた。

兄は、切り落とされた髪を見ると顔をしかめて「シロイ、シロイ」と訴える。
兄の髪の半分位は白髪になっていて、それが気に入らないようだ。
「白い方が、カッコいいよ~」と言うが、兄は、まったく納得しない。
私は白髪がほとんどないのに、兄ばかり白いのは、なぜだろう。

皆で母を訪ねた時、この話を伝えた。
母は、あまり反応しなかったが、子供(母の孫)が、素早く言った。
「染めてあげればいいじゃない!!染めてあげよっか?」


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しゃくなげ


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しば

4月の帰省4日目(2)兄の歯科医院 授産施設の総会

妹から兄が歯科医院に通うのを突然止めたという話を聞く。
妹「なんでかなぁ?”ダメ。オワリ”って言って、全然行ってないよ。毎週楽しみに行って
  たのにね」

歯科医院に電話をして事情を訊くが、思い当たる節はないという。
医師「何か、○○さん(兄)の気に触るようなこと、言っちゃいましたかねぇ・・」
私 「それはないと思います。いつも親切にして頂いて、兄は、先生が好きですし、週1
   回診て頂くことを楽しみにしていましたから」
医師「1週間に1回きれいにした所で、他の6日は汚れている訳ですから、正直、どれ程
   の効果があるかというのは、私たちにも本当に疑問ではあるんです」
しかし通院を習慣化しておかなければ、問題が起こった時、兄が、自分で病院に行くということはできないはずだ。
周囲も問題に気が付かない可能性が高い。
兄は、この日、ショートステイ(月~金)先から帰宅するので、予約を入れる。


子供と11時頃母を訪ねるが、ぼんやりして会話にならない。


午後、妹と兄の通所授産施設の総会(家庭連絡会と保護者会)に初めて行く。
授産施設は、毎日通って段ボールの組み立てなどの仕事をする。
月数千円の工賃も出る。)
ロビーで兄と会った。私たちの顔を見て満面の笑みを浮かべている。
今日、歯科医院の予約があること、先生(医師)が兄に会いたいと言って待っていると、繰り返し伝えた。


総会出席者約70人のほとんどは、予想以上の高齢だ。
私たちのように、きょうだいと思われる中年女性も何人かいる。

配られた資料を見ると入園者は、18~60才の男性39人女性16人。
平均年齢は、約40才。
毎月様々な行事(遠足や1泊旅行も。)や定期的な健康診断もある。
仕事だけでなく生活全般を細かく見て、本人への指導や家庭連絡をしてもらえる。
あらためて、本当にありがたいと思う。

保護者は、皆、子供の将来を心配し、自分が倒れる前に、子供が終生居られる施設ができることを望んでいる。
皆で20年以上積み立てた資金で、半月前に中古の住宅を買い、それをリフォームしてケアホームにすると詳しい説明があった。
そうした施設を今後、順次作っていくという。
施設長「現在、両親共病気になったり亡くなった園生が2人いて、その2人が、まず優
    先的にそのケアホームに入ることになります。本人の希望もあって週末は、自
    宅に帰ったりしますが・・。そこは、ご理解下さい。」
その1人が、兄だ。
なんというタイミングで受け皿ができたのだろう。


夕方帰宅した兄に、再び歯科医院に行くように勧めると、すんなりと出掛けて行った。
これでまた毎週通ってくれそうだ。

夕食時、兄は、「マツリ(祭り)。マツリ」と心から楽しみにしている様子で言う。
私「お兄ちゃん、今年、祭り、なくなったんだよ。祭り、しないの。なし。やらない」
兄の顔に衝撃、続いて落胆が、アニメのように映し出された。
その極端さに、(兄には申し訳ないが)思わず妹や甥っ子と笑ってしまった。

震災後の自粛による祭りの中止は、遠方に住んでいる私ですらショックだった。
誰もがこの祭りを楽しみにし、この祭りを生き甲斐にしている人も多い。
兄は、参加はせず、ただ見るだけだが、それでも毎年とても楽しみにしていた。

P1000932.jpg
バラ(これを1度載せた記事に青梅の写真を差し替えました。)




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tag : 授産施設

兄からの贈り物

4月。兄(重度知的障害がある。)が、51才になった。
今年は、初めてショートステイ先で誕生日を迎えた。
誕生日には(それが誰の誕生日であろうと)ケーキを食べることが兄の決まりだ。
兄は、家を離れてもケーキで祝ってもらえただろうか。
(自宅に戻った今日8日、妹が、ケーキを持って行ってくれたそうだ。
 電話で兄と話すと、ケーキをとても喜んでいた。
 ショートステイ先でもケーキを用意してくれたらしい。良かった。)

私は、長年、家族4人でお祝いのメッセージを書き、実家にファックスしてきた。
プレゼントも花もケーキも贈ったことがない。
何かを贈ろうかと思ったことも何度かあったが、兄は、こだわりがとても強いので、気に入らないものは、絶対に使わない。
後ろめたさを感じながらも毎年毎年、ただファックスだけを送り続けていた。
それを兄が、どう受け止めているのかは、知ることがなかった。

去年の3月、帰省した時、(それが母が、自力で生活できていた最後の時だった。)
兄の部屋で偶然ファックスの束を見つけた。

去年送ったもの、一昨年送ったもの、5年前、10年前、15年前に送ったもの・・・。
<○○おじちゃん、また、いっしょにあそぼうね>
今はもう成人した私の子供の幼い字があった。

毎年1枚送られてくるファックスを、兄は、しわ1つつけず、1枚も失うことなく積み重ねてあった。
真っすぐに、きっちりと揃えて。
まるで黒い大きな盆の中の卒業証書の束のように・・・。


P1010610.jpg
近所の桜。クリックするときれいです。



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tag : 知的障害

電話で兄と話せた

実家に電話をすると兄が出た。
また「オトウサン、オカアサン、イナイ。(ガシャン!)」と切られるかと思ったが、今回は、初めて切られなかった。

兄「オトウサン、イナイ・・・・」
私「お兄ちゃん、私!○○(名前)!」
兄「○○?(嬉しそうに)○○、コンニチハ、コンニチハ」
私「(ほっとして)こんにちは。お兄ちゃん、一人なの?」
兄「オカアサン、ビョウキ、カワイソウ。オカアサン、ビョウイン」
私「そうだね。でもお母さんは大丈夫だよ。お兄ちゃん,歯医者、行った?」
兄「イッタ。ハイシャ、イッタ」
私「そっちも雪降ってる?寒い?」
兄「アメ。サムイ!サムイ!アメ、サムイ!」
私「大丈夫?暖房付いてるの?暖かい風出てくる?」
兄「・・・・?(わからない)」
私「お父さんは、仕事に行ったの?」
兄「オトウサン、○○○(○○屋)。オトウサン、イソガシイ」

しばらく話した後、兄の方から「○○(私)、サヨウナラ」と言って穏やかに切った。
兄と電話で会話らしい会話をしたのは、これが生まれて初めてだった。
胸一杯に、あたたかいものが、染み渡っていくのを感じた。

兄は、知的障害に加えて、かなり重い言語障害があり、他人が兄の言葉を聞き取ることは、とても難しい。
家族とは、向かい合って話せば会話はできる。
しかし兄は、電話でのコミュニケーションをすっかり諦めているようだった。
私が、以前、実家に電話をして母が出ると、母は必ず兄と代わった。
兄は、私の言うことは何も聞かず、一方的に喋って終わりということがほとんどだった。
私が、何か喋ると、その時には既に母と代わっている。

兄は、一人で家に居る時、電話に出ることもなかった。
両親が認知症になって、初めて自分で受話器を取り「オトウサン、オカアサン、イナイ」と言って一方的に電話を切った。相手が誰かも確かめずに。
苦手な電話だが、自分が応対しなければいけないという決意や必死さの滲む声だった。

あの時も兄の変化に驚いたが、今回は、更に深く心を動かされた。
兄は、見えない相手の言うことを何とか聞き取り、理解し、答えようと懸命に努力している。
それは、兄にとってどんなに勇気の要ることだろう。
兄の姿勢に深い敬意を感じる。

兄とつながったことが、私には、嬉しい。



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帰省4日目(1)兄の行き先

月曜の朝、兄が薄手の上着を着て施設へ出掛けようとする。(バスが迎えに来る。)
慌てて防寒のコートを勧めたが、怒ってそのまま行ってしまった。
(普段あまり怒ることはないのだが、自分で決めた予定ー服も含むーを変更するのは、いつも容易でない。)
金曜日までは授産施設とショートステイ先の往復で自宅には戻らない。
郊外にある施設に電話をし、コートを持って行くことにした。

両施設の職員にお菓子を買って持って行く。
兄の担当職員が出て来て、居眠りばかりして変なので病院に連れ行って欲しいと言う。
「また倒れたりしても困りますから」
(兄は、てんかん等の薬の飲み過ぎか飲み忘れで2回倒れている。)
兄と自宅に帰り、近所の病院に一緒に行く。

私「お兄ちゃん、どこか痛い所、ある?」
兄「アタマ、イタイ、イタイ」
これは兄の口癖のようなもので毎日何度も言っている。
その度に薬を飲もうとするので、妹が、余分な薬は隠し、頭痛薬と称してビタミン剤を用意してある。

診察室で待ちながら、念のために実家に来ていた妹に確認の電話をする。
妹「ごめん!予備に置いといた薬が減ってた!もうずっと言った通りにキチンと飲んでた
  から大丈夫かと思って、つい予備のを置いてっちゃった!」
厳重に袋に包んであったようだが、やはり兄は取り出して勝手に飲んでしまった。

医師は、あちこち丁寧に触診して診てくれた。どこも異常なし。
薬のせいだとわかってはいたが、ほっとする。
医師「こういう人は、自分で症状を訴えられないから周囲が気を付けてあげないと。手遅
   れになっちゃいけないし・・。薬の管理は、家族がもうちょっとしっかりして下さ
   いよ」
兄は、診察室を出る時、何度も何度も深々と頭を下げて挨拶をする。
「センセー、アリガトウ、アリガトウ、アリガトウ、アリガトウ。サヨウナラ、サヨウナラ」

帰りにコンビニに寄って母に持って行くお菓子を買う。
兄に何が食べたいか訊くとレジの前の最中(もなか)を指差すので一緒に買う。
兄を車で施設に送りながら最中を手渡す。
皮が散らばって、ぐしゃぐしゃになり、半分で突き返された。
兄「ダメ!コレ、ダメ!」
最中を食べるにも技術がいるということに気付かなかった。

施設では、ショートステイの手配を担当している職員が出てくる。
「今、ショートステイに使う中古物件を買おうとしてる最中なんです。それが決まったら
 真っ先に○○さん(兄)に入ってもらえますからね」
「それは、どこにできるんでしょうか?」
「ここからそんなに遠くない所ですよ。ここに通うには楽です」

信じられない思いだった。
ショートステイの希望者は、定員よりはるかに多い。
兄は、両親が世話をできなくなった緊急措置として長期利用をしているが、それもせいぜい半年と言われていた。
「放り出すようなことはしません」とは言われていたが、知り合いもいない市の東か北の果てで暮らし、南の果ての授産施設に時間をかけて通うことになるのだろうと思い、気に病んでいた。
(障害者の施設は、周囲に住宅の全くないようような郊外にしかない。)
心配の種は、次から次へと湧き続けているが、こうして消えていくものもある。
ありがたい。





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兄の口腔ケア 薬の管理 施設入所

妹が、兄の通所施設(ショートステイも同系列)から連絡をもらった。
11月の帰省を終えて、私が自宅に戻ってすぐだ。

通所施設で行う毎年の歯科検診でもやはり口腔ケアの必要性を強調されたので、ショートステイ先で夜は、ポリデントを使うよう指導していくという。
以前、歯科医から言われて就寝時の口腔ケアをお願いしたが、「そこまではできません」と断られていた。
妹が、ポリデントと容器を買って施設まで持って行ってくれた。
ほっとした。
どうしようもないので放置状態だったが、これで少しでも兄の歯の寿命が延びれば良いと願っていた。

兄は、ショートステイが週6日になった秋、施設職員から「頑固になって、色々言い張るので大変なことが多い」と言われていた。
汚れたパジャマを洗濯すると「ダメ!」と言って、洗濯機の前で洗濯が終わるまで待っていたそうだ。
しかし最近は、すっかり落ち着き、職員を困らせることもないという。
帰省中に会った兄も落ち着いて穏やかだった。
私はすっかり安心していた。

しかし最近の妹からの連絡で、口腔ケアを兄が拒否していると知った。
「イタイ」とか「イヤ」と言って、入れ歯を外さないそうだ。
兄の”NO”は、絶対の”NO”で、説得して変わるものではない。
「ご自宅では、どうやって外させていますか?」
と訊かれたというが、父は、兄の入れ歯の手入れなど1度もしたことはない。

父は、兄が、食後必ず飲まなければいけないてんかん等の薬ですら飲ませない。
飲ませたかどうか確認の電話を入れる度に、いまだに父は言う。
「知らん(「何だ、それは」というニュアンス)」
もう何回聞いたか忘れたが、今でも聞く度に、軽いショックを受ける。
兄は、自分では薬の管理はできない。
飲み過ぎたり、飲み忘れたりして、2回倒れ、最初は歯を、次は鼻の骨を折って救急車で運ばれている。
次は頭蓋骨を折るかも知れない。
「知らない」で済むことではない。
忘れるのは仕方がないが、事の重要性、自分の責任を自覚して欲しい。

兄のショートステイの長期利用には、限界がある。
「他にも利用したい人は沢山いますから、半年も1年もという訳にはいきません」
と言われている。
先月の帰省の時も兄の行く末のことを考えていた。
父がこれだけ落ち着いているなら、自宅での父との生活も可能だろうかと。
しかし薬のことを考えると、途端に自信がなくなる。

妹も「(薬のことを父に)何度言っても全然だめ。どうしてあんな簡単なことが出来ないの?!」と言う。
毎月兄を病院(精神科)に連れて行っている妹も施設で薬の管理をしてくれるようになってから兄がとても落ち着いたと言う。
妹「やっぱり薬をちゃんと飲みさえすれば、何の問題もなくなるんですね」
兄の主治医は、目を丸くして言った。「当然です!!」

父は、兄がショートステイを止め、施設に入所することを納得するだろうか。
ショートステイを週6日にしたのは、父が認知症とわかったからだが、父には「お母さんがいなくて世話が大変だから」と伝えてある。
施設に入所しても毎週金曜日に歯科医院に通うために帰宅するという同じ生活が続くのなら何も変わりはないのかも知れない。
しかし兄がやっと慣れて楽しんでいるショートステイを離れ、また新しい環境に上手く適応できるのかという大きな問題はある。
この施設への入所は、早ければ春までに迫られることになる。




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11月の帰省8 兄の成長

朝、兄が訊く。(兄は7時頃には就寝するので、母を見送らなかった。)
「オカアサンワ?」
「夕べ、帰ったよ」
「ビョウイン?」
「うん」
「オカアサン、ビョウキ。カワイソウ。オカアサン、ビョウイン、カワイソウ」

兄の剃り残しの髭を剃る。
自分でシェーバーを使って剃るのだが、どうしても剃り残しが出て、それが限りなく伸びていくので、ちょっとギョッとするような長さになる。
時間をかけて、きれいに剃り終えると見違えるようにさっぱりする。

夕べは何度か「髪、切ろうか?」と言ったが拒否された。
今朝も何度か言ってみると、やっと頷く。
「お父さん、すき鋏はどこ?」
「知らん。どっかにあったな。どっか行った」
訊くだけムダだった。自分で探し出す。

すぐ伸びるのでかなり短く切った。
兄は、ちょっと自分のスタイルではないと思ったようで、難しい顔をして長い間洗面所の鏡を見つめていた。
(兄は、服でもカバンでも何でもこだわりがとても強い。)
「ダメ!」と言われたらどうしようかと内心ヒヤヒヤしていた。
「ダメ」(=「元通りに戻せ」)と言われてもどうしようもない。
やがて兄は、困ったように笑ってつぶやいた。
「ショウガナイ・・ショウガナイ・・」
しょうがない?!兄の新しい語彙、新しい思考だ。
長期のショートステイという集団生活の中で妥協することを学んだのか。
兄は、自分で服も着替えた。
「オナジ。ズット、オナジ(だからダメ)」
以前は、どれだけ汚れてもずっと同じ服を着続けていた。
兄の成長に驚く。

一度帰宅すると土曜には、通所施設(土曜は隔週)にもショートステイにも行きたがらないと妹から聞いていたが、この日は、機嫌良く時計を見つめていた。
立ったままじっと時計を見つめ、父と約束した時間に秒針が合うと荷物を持って出掛けて行く。
長年決まった場所に行くと、迎えのバスが来る。
兄は、もう何年も2時間位早く行って待っていたが、父に怒鳴られてから父の言った時間までは待つようになった。
「お兄ちゃん、私、今日、○○に帰るから、またね。元気でね。仕事、頑張ってね」
「○○(私)カエル。○○(私)、サヨウナラ、サヨウナラ」
兄は、嬉しそうに出掛けて行った。
兄は、幸せに暮らしている。良かった。





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しば

9月2度目の帰省1日目(1)トラブル 兄のこと

帰省のために自宅を出る寸前、帰省先の役所の長寿保健課から電話がある。
父が受診した病院から”(介護保険用の)意見書は書けない”と連絡があったという。
父に介護保険のことで電話連絡をしたら「そんなものを頼んだ覚えはない!」と怒って電話を切ったからだと言う。医師の意見書がなければ、介護保険の申請はできない。
何が起こったのかよくわからないまま、「今からまた帰省する所なので実家に着いたらまた連絡する」と切る。

実家に着き、まず冷蔵庫の中を見る。野菜を全く買っていない。もちろん肉も魚もない。相変わらず賞味期限の切れたものばかり。何を食べて生きているのだろうか。

まず父の受診した病院に電話し、院長(2度会って信頼している。)と話したいと伝えるが、学会で3日後まで帰らないと言われる。
父を病院に連れて行く前に相談にのってもらった保健所の保健師(とても頼りになる。)に電話をし、相談する。
もう一度、長寿保健課に電話して詳細を訊くか、病院のケアワーカーに詳細を訊くように言われる。本人に電話をすることはないはずだと言う。

長寿保健課に電話すると、病院から電話があり、問題は既に解決したと言われる。身長、体重を訊くために父に電話をしたという。
もうそれ以上追求するのを止める。こんなことにエネルギーを浪費したくない。
それにしても介護や福祉のことは、1つ、ことを進めるのに、一手間で済むことがない。何度も何度も役所に足を運んだり、訳のわからないことが起こる。

兄の通所施設に電話して、前回「ショートステイの延長は、緊急措置であり半年も1年もという訳にはいかない」と言われたが、役所の福祉課に訊くと、どこも入所まで何年待つかわからないという現状を話した。
「半年後、もし父が悪化し、兄の世話が全くできなくなったとしても、兄には、行き場がないということでしょうか?」
確約はできないが、施設入所も優先順位というものがあるので、その時の状況によって優先的に入所できるということがあると説明される。少し安心する。しかし入所申し込みは、これから始まる。
ショートステイ先に兄の着替え一式を置いておきたいので持ってきて欲しいとも言われる。
「これはここで保管するから」と言っても兄は頑として聞かず、全て持って帰るのだという。
夏物秋物を選び、全てに(靴下にも)名前を書く。ズボンが足りないので買ってこないといけない。

伯母(母の亡くなった兄の妻)に電話をし、明日の父への告知に立ち会って欲しいと頼む。(メールでは依頼してあった。)
伯母は、「(姉妹2人で行くなら)私まで行くと大げさになるから行かないつもりでいた」と言う。
伯母が居ることで父が精神的に落ち着くことと、アルツハイマーなら診断されたこと自体を忘れると言われたので、証人になって欲しいと伝える。伯母は、体の調子が悪そうだったが、「それなら行くね」と快く言ってくれた。

兄の長年通っている歯医者にも電話をする。前回の帰省で、入れ歯の具合が悪いことがわかったが、その後の治療で治ったのか訊くと、主治医が電話に出てくれた。
精一杯の努力はしているが、歯のケアを兄自身ができないので、歯は減っていく一方であること。
入れ歯は、自転車と同じで、入れさえすれば噛めるというものではなく、兄には、どんな入れ歯を入れようと使いこなすことが難しいと言われる。インプラント手術が最終手段だが、費用もかかるし、兄が、手術を理解して受けられるかどうかも疑問。
毎週金曜日の5時は、兄のために時間を空けてあるので、週1回でも口腔ケアのために通い続けて欲しいとのことだった。
ショックを受けた。
けれども兄のことを一生懸命考え努力してくれている人達が(通所施設も含め)大勢いるのだと知り、感謝の気持ちで一杯になる。
今度は、兄を毎週金曜日に帰宅させるか、予約の曜日を変えてもらうかのどちらかを手配しないといけない。

前回の帰省で返事を保留していた保険会社の担当者にも電話をして、解約金や満期の受取額などを書いた資料を用意して欲しいと伝える。2日後の午後に会う約束をする。

ここまで済ませて、やっと仕事から帰って来た父と共に母のグループホームに行くと、母は、ベッドで熟睡していた。
入れ歯も外しているせいか、別人のように衰えて見える。
職員「毎晩全然寝ませんからねぇ。今は、寝かせてあげて下さい。疲れていると思いますから」
後でまた来ると伝えて、一旦帰宅する。父の危険な運転で。




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しば

兄の今後 薬の処方

(初めての方へ*兄は重度の知的障害と言語障害などがある。ひどい難産の末、仮死状態で生まれたことが原因と思われる。日中は通所授産施設に通い、近年、ショートステイも利用するようになった。十数年前から突然の激怒や大声の独語などが始まり、それ以来、精神科に通っている。)

兄の今後のことについて、妹が、再び役所の障害者福祉課に行って相談する。
(私も含めて何度目だろう。6回目?もっとか?)
ショートステイの延長は、緊急措置でしかなく、半年以上続けることは無理だと施設長から言われたからだ。
特養と同様に、まず各施設(どこも僻地にある。)に見学に行き、それから障害者福祉課に申し込みをするように言われる。
どの施設も20人以上待ちで、何年も待つことになるという。
病気で入る訳ではないので特養よりも空きが出にくいのだそうだ。
「5~6カ所に申し込みをして、とにかく空きが出るまで待って下さい」
目の前が暗くなる。半年後、兄の行き先は、なくなるのか・・。妹の家から通所施設に通う?私が引き取る?
通所施設の担当者とまた話し合わないといけない。

ショートステイを延ばした書類上の手続き、兄の年金管理者を母から妹にする手続き、有効期限切れになっていた兄の医療保険(調べてみると継続中)の手続きなども妹が済ませてくれる。
兄のことだけでも毎月様々な手続きや支払いがある。
私が、父のことを相談に行った時に勧められた介護保険関係書類の妹への転送手続きも済ませてくれた。
郵便局に届ければ全ての郵便物を妹に転送できるとも言われたが、父に病識がないので、今はまだできない。

父が行く予定だった兄の精神科の受診。(足りなくなった薬をもらうため。)
ヘルパーに頼もうとしたが、契約者が母ではなく兄となるので、新たな契約料が必要とのこと。
妹が、仕事を抜けて行ってくれた。(兄は連れて行かなかった。)
父を連れて行った病院の院長先生が、兄の長年の主治医。一緒にいるだけでほっとするような珍しい医師だ。
兄もとても信頼していて、受診に行くと止めない限りしゃべり続けるらしい。
重度の言語障害のある兄の言葉の何%を主治医が理解できるのかはわからないが、じっと聞いてくれるそうだ。
(初めての人は1割も理解できない。私でも日常会話で9割、話題によっては、半分もわからない。救急車で運ばれた時は、救急隊員が妹に「筆談ならわかりますか?」と訊いたそうだ。)

7月に1度、座りながら白目をむいて口を開け、見た事もない異様な顔をした兄を父と私で見た。
「変な顔をするな」と父は言った。
それを主治医に伝えるように妹に頼んでおいたが、母のことで紛れて言い忘れ、それきり私も忘れていた。
妹が思い出して主治医に伝えると、「間違いなくてんかん発作」と言われたそうだ。
兄には、典型的なてんかん発作(痙攣など)の経験はないが、何年かに一度動けなくなる。おそらくてんかんと言われて、てんかんの薬を飲み続けている。
何年もなかった発作が、忘れた頃に出てくることもあるそうで、またあるようならやはり精密検査が必要だと言われる。

「薬は、ちょと乱暴だけど(通所施設で)ちゃんと飲ませてくれるなら、夜の分を昼に入れてみましょう」
深い安堵感。これで兄の薬の飲み過ぎ、飲み忘れはなくなり、失神して歯や鼻の骨を折ることもなくなる。
ここまでたどり着くのに随分時間がかかってしまった。兄に申し訳ない。

主治医は、父のことでも妹の相談にのってくれた。
「お父さんのことは、”認知症です”って言っても駄目だろうから、上手く言って薬飲ませたいね」
「(高速道路のミスの話から。)それが認知症だよね。名古屋まで行くのは危険だなぁ。市内でもレビーを診てくれるとこは、あるんだけどな・・。お父さんから車、取り上げるのは、難しいよね・・。
本当に大変なことになっちゃったね。お姉さんと頑張っていくしかないね・・」
優しく人を包み込むような主治医に話を聞いてもらえただけで妹は、心が軽くなったようだった。




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しば


幸せな食卓 知的障がいのある兄の変化

お盆の迎え火で夫の実家に家族4人で行く。
毎年のことだが、義父母、夫のきょうだい家族全員が集まり、総勢15人の賑やかな夕食となる。
本当にありがたいことに高齢の義父母はまだ元気だ。(老化は着実に進んではいるが・・。)
皆で(私も)笑って話をしながら『私の実家では、もうこんな風に集まって、皆で笑いながら食事をすることはないんだ』と繰り返し思う。『そんな日もあったのに・・』
冷静に考えれば、例え母が施設に入ったとしても、母を連れ出して実家に皆で集まれば良いだけのことだ。
けれども幸せな(それは、あまりにも幸せに見えた。)食卓は、何か、私の遠くで起こっていることのように感じている自分が居た。


父母と住み、重度知的障がいと言語障害のある兄について、最近、驚くことがいくつかあった。

まず、実家に電話をした時、兄が出たのだ。つながった瞬間。
「オトーサン、オカーサン、イナイ」ガシャンと電話が切れた。
「あっ!お兄ちゃん?!私!」という声は、おそらく全く聞いていない。
誰がかけてきたのかもわかっていないと思う。
けれども兄が自分から電話に出たのは、私の知る限り初めてのことだ。
兄は、電話がかかってくると「デンワ!デンワ!」と騒ぎ立てるが、自分から出ることは絶対になかった。
兄が電話に出るようになったことは、私には、信じられないようなことだった。

先日は、兄の通う通所授産施設から妹に電話があったという。
健康診断があり、問診票を渡したが、兄が自分で記入して提出したと言うのだ。
妹も驚いたが、私も衝撃を受けた。
3月までは、母に手渡せば、すべて済んでいたことだ。
なぜ父にも見せず、しかも自分で処理(兄には不可能なことだ。)しようとしたのか?

帰省した時も、兄が随分変わったと感じた。
母に依存してきた兄が、兄なりに自立し、兄なりに色々なことを考え、一生懸命生活していこうとしていることが、はっきりと見て取れた。
兄は、自分の考えや苦労を口で説明することはできない。
だから兄が何を考え、行動しているのかは、推測するしかない。

兄は、兄なりにきっと必死なのだ。
母の言うことが、もう頼りにならないこと、病気であること、父が限界まで頑張っていること、妹も含めて皆が、混乱状態の中で懸命に母を支えていることをちゃんとわかっているのだ。
恐らくストレスも溜め込んでいるのだろう。
2度も原因不明で倒れて怪我をしたのも、もしかしたらストレスが関係しているのかも知れない。
今度(来週の予定)帰省した時には、兄のケアをしなければ・・・。




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兄、再び倒れる 

兄は、父に頼まれてゴミ出しに行き、そのままいつまでたっても戻って来なかったと父は言う。
近所の人が、兄が血だらけで倒れていると連絡をくれた。
駆けつけると、既に救急車とパトカー2台が来ていた。
通りかかった人が、「人が顔から大量に出血して倒れている。ひき逃げではないか」と通報したらしい。

妹がすぐ呼ばれ(妹の家は実家から車で15分位)訳もわからないまま駆けつけると、警官5人に取り囲まれた。
免許証のコピーを取られ、意識のある(しかし興奮状態の)兄の事情徴収の手伝いをさせられた。
事件性があるかどうかを確認したい警官たちは、なるべく詳しく訊いてくれと言う。
しかし重い知的障がいと言語障害がある兄に答えられるわけがない。
妹「車にぶつかった?」兄、首を振る。「鼻血、出た」
妹「転んじゃったの?」兄、首を振る。「鼻血、出た」
目撃者はいないので、妹にも何があったのかはわからない。
警官は、事件性なしとみなして帰っていった。

そして妹が救急車に乗って、やっと病院に出発。(父は、仕事か?)
車内で血圧、脈拍、心電図など取るが異常なし。
しかし口の中に食べ物が入っていたという。吐瀉物ではないという。???わからない。

病院での検査でも「異常なし」だったという。
ただ鼻の骨が折れ、眼鏡は、粉々に割れていた。
私「じゃあ、何で2回も倒れたの?!」
妹「そういう話は出なかった。それより医者はレントゲンに異物が写ってるって方を心配してた。」
食道なのか気管なのか他の管(があると言ったそうだ)なのかわからないが、何か尖ったものが写っているという。
医師「お兄さんは、その辺に落ちている危険なものを口に入れますか?」
そんなことはしない。倒れた時、小石でも口に入って飲み込んだのではないかと妹は言う。
医師「毎回便を調べて、異物が出てくるかどうかチェックしてもらえませんか?」
妹「一緒に暮らしてないんだし、そんなことできません!!」
結局、2日後に再検査となった。

耳鼻科に行き、骨折は軽症と説明を受ける。
妹は、ずっとしていない兄の耳掃除を医師に依頼した。
(凄い。私は、まったく思いつかなかった。)
兄の耳からは、どうやって入っていたのかわからない程多くの、見たこともない物体が出てきたという。

その後、「眼鏡ない!」と騒いだというが、眼鏡屋に行くことは拒否して午後6時には眠ってしまったという。
兄も疲れ果てたのだろう。妹は尚更だ。それでも
「もう一回、ちゃんと検査してもらって原因を突き止めないと、また倒れるよ。今度は何が折れるかわからないよ」と妹に伝える。(前回は、歯数本と入れ歯が折れた。)

妹は、この日、初めて実家に泊まった。(そして予想通りほとんど眠れなかった。)
翌朝6時半には、母を連れて名古屋フォレストクリニック(予約9時)に向け出発することになっていた。
父も妹も私もまだ行ったことのないその病院を頼みの綱としていた。






知的障害者の兄と世話焼きの母

兄は、母の状態が悪くなってから妹の手配(市の福祉課で相談)で2泊のショートステイを月5回ほどに増やした。
それ以前は、宿泊訓練という名目で月に1泊ほどしていた。

兄が2泊を受け入れられるかどうかは、試してみるまで誰にもわからなかった。
行って、何かトラブルがあったり、気に入らなければ「ダメ」と言って、もう2度と行かない。
兄を説得して一度決めたことを変更してもらうことは、ほとんど不可能だ。

けれども私たちの心配をよそに兄は、喜んでショートステイに通うようになった。
私「○○(ショートステイの名前)で何するの?」兄「ご飯。お風呂。寝る」
「ゲームとかしないの?」と訊くと、首をひねっている。
「(作業所の)友達も一緒?」「○○さん」とても嬉しそうに答える。
(兄は、男性はすべて「君」、女性はすべて「さん」で呼ぶ。)
「○○さん、優しい?」「優しい!○○さん、優しい!」
兄にもささやかな楽しみができたことを本当に良かったと思った。

兄の性格は、基本的には穏やかで思いやりがある。
ここ数年、母の買い物には一緒に行って荷物を全部持ってくれたという。

しかし一緒に暮らす両親は、常に忍耐を強いられる。
「手伝い」と言って、ゴミ収集の日でない日にゴミを捨ててくる。
「汚い」と言って、その辺に置いておく手紙でも金券でも何でも捨ててしまう。
今年になって色々なものが次々となくなっていても、すべては兄のせいだと思われていた。
説明して止めさせることは無理だし、とがめれば爆発して叫び出してしまう。
人混みも高い所もスピードの出るものもパニックになってしまうので、旅行の範囲も限られる。

10年以上前から大声で独り言を何時間も繰り返すようになった。
父が、それを聞き流せるようになったのは最近だ。
「静かにしろ」と言えば、やはり爆発する。
なぜ言うのかは、わからない。兄なりのストレス解消法なのかも知れない。
お経のように長年いつも全く同じセリフを延々と繰り返す。
「お父さん、お母さん、仕事。仕事。仕事。トトトトトト・・。
僕、○○学園(作業所の名前)仕事。仕事。仕事。トトトトト・・・。」
兄は、重い言語障害もあるので、他人にはほとんど聞き取れない。

妹は、最近、その独り言が変わったと言った。
「お母さん」がセリフから消えたという。
そして「お父さん、ありがと!」と言うと。
兄は、食事の支度や家事をしてくれる父に心の中で感謝をしていたのだ。

兄の座るテーブル(決まった時間になると必ず座る。)に父が2人分の食べ物をせっせと並べ、「さぁ出来た。食べるぞ」と座ると、既に二人分の揚げ物(買って来た総菜)がなくなっている・・。
「○○(兄)のやつ。一瞬で食うんだぞ」という父の話に、私は、ただ笑っていたけれど・・。

母は、そんな兄の世話を常に細かく焼いて来た。
兄の入れ歯の取り外しを自分でできるようになるまで半年ほど毎日練習させたと言っていた。
母は去年まで「○○(兄)は成長してるよ。ボキャブラリーも増えたよ」と嬉しそうに言っていた。
多くの持病を抱えて、歩くこともおぼつかなくなってきても
「○○(兄)のために1日でも長く元気でいないと」と繰り返していた。

母は、認知症になっても一生兄の心配をするのだろうと私は思っていた。
病院ではあまり兄の生活の心配をすることはなく、その部分では、ほっとしていた。
しかし一時帰宅をして兄を目の前にすると、以前のように世話を焼きたがるようだ。
そして「何にもやれなくなっちゃった。やれると思ってることが何にも出来なくなっちゃった」
と悲しそうに言ったそうだ。

P1000872.jpg

プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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