8月の介護6日目 別れ レンタル介護ベッド

私は、今日の朝に、母をショートステイに送り出し、昼には、自宅に向けて出発する。
グループホーム入居は、できるだけ早く、ショートステイの終わった日(明後日)にしようと妹に伝えた。
準備は全部妹にやってもらうことになる。申し訳ないが、もう一踏ん張り頼む。

明け方、母と話しながら、この住み慣れた家に母が暮らすことはもうないのだと思うと涙が止まらなくなる。
それでもこれが正しい選択だったと私は信じている。母を、そして父を守るために。

朝、母の希望でトイレに連れて行く。
母の歩行能力は、何とか私一人で支えられる程度には回復していた。
それでもほどんど何も出ず、また大汗をかきながらベッドまで戻って3分も経たない時。
「トイレ行きたい。ウンチ出そう」
一瞬迷ったが、せっかく便意があるならトイレでする方がいいだろうと思って連れて行く。

ところがオムツを降ろした瞬間に、また大量の軟便が出始める。
汚れた便座の上に、こらえ切れなくなった母が、腰を下ろす。
どうしようかと思ったが、父を呼べば、また先月のように風呂に連れていくだろう。それは危険だ。
私一人で処理する。母が「もうだめ」と言うまで何度も何度も繰り返し立たせながら・・。
数メートル離れた居間で新聞を読んでいる父は、何も気が付かない。
(臭覚が麻痺しているのではないかと思う時が、時々ある。)
すべてを終えて、母をベッドに寝かせて、私も座り込む。
兄が、私の横に来て座り、じっと私を見ている。兄の顔を見ると心配そうに一言言った。
「ツカレタ?」「大丈夫だよ。ありがとう。お兄ちゃん」

母には、夕べも今朝もグループホームのことを説明した。
私「コロコロ(デイサービス)みたいに楽しくて、京都(ショートステイ)みたいにお泊まりもできる一番良い所が見つかったんだよ。昨日来てくれた人の所だよ。ここからも近いから毎日何度でも会いに行けるし・・」
母は、「いいねぇ」と言ってみたり「そんなとこ絶対に行かないよ!」と言ってみたり。

朝、妹が来て、母の伸びた髪を手際良く上手に切る。
父も私も(以前は母も)切れるが、妹が一番上手い。
母は、相変わらず無表情だが、「素敵になったよ」と褒めると「鏡、ちょうだい」と盛んに言う。

ショートステイの迎えが来ると泣いて拒否。泣き、怒りながら、連れて行かれる。
別れのハグすらできなかった。

母を送り出し、あちこちに電話。入居につなげてくれたグループホームの施設長やケアマネ、等々。
介護ベッドは、妹がネットで調べて(実家にPCはない。)中古を扱う店をプリントアウトして持って来た。しかしケアマネに訊けば、月2500円でレンタルできると言う。
自費で払うなら(介護保険を使わないなら)問題ないそうだ。

妹「やっぱり最初から○○さん(ケアマネ)に訊けば良かったねぇ!お父さん、レンタルできるって」
父は、突然火が付いたように怒り出す。この怒り方は、正常ではないと初めて思った。
父「レンタルなんて嫌いだ!俺が自分で取りに行くから中古屋の住所を電話で訊け!」
落ち着かせるために、とにかく電話をする。千葉市にある業者だという。
私「お父さんが、トラックを借りて、そんな遠くまで取りに行って、たった一人で運んで来るっていうの?」
父「そうだ!そんなことは慣れてる!俺は何だって一人でできるんだ!つべこべ言うな!」

妹に伝えた。「ケアマネに頼んでレンタルして。お父さんには、明日にでも私から説明するから。その前に、もしお父さんが何か言ったら、○○(私)が手配するって資料も持ってったから何もわからない、○○(私)に訊けって言って。でも・・多分、暫くしたら、お父さん、ベッドのこと、忘れると思うよ」
「あれだけ怒って怒鳴ったことを、忘れるなんてこと、有り得る?!」
(妹は最後まで不安がっていたが、父は、翌日には、忘れていた。)

こうして私の6日間(正味5日間)が終わった。
母の安全は確保できた。

次は、父だ。父も同じ位の緊急性を感じる。
(なんとか受診させようと毎日精一杯努力したが、今回はだめだった。)

追記 父に関しては、ここに書いた以外の沢山の重要な出来事(症状)があったが、あえて省略する。



8月の介護5日目 父の変化 特養 グループホームに空き出る

この朝、母は、ふと父のことを話した。
「お父さん、怒りっぽさが異常だよ。あそこまで怒りっぽい人じゃなかったよ。でも自分では、その異常に全く気が付いてないんだよねぇ・・」
その変化は、私も妹も気が付かなかった。
父は、私が人生で出会ったすべての人の中で最も短気な人だ。
その思い込みが観察の目を曇らせていた。
父は、ちょっとしたことですぐ怒鳴る。子どもの頃は恐かったが、その後は、父がどれだけ怒鳴ろうと気にもならない。「あぁ、また始まったか」と思うだけだ。
妹は、父の怒鳴り声に耐えられないと言う。性格の違いか。
父はどれだけ短気で怒鳴り散らしても、母にも私たち子どもにも一度も手をあげたことはない。

妹とまた別の特別養護老人ホーム(特養)の申し込みに行く。
巨大な施設を案内してもらう。目を背けたくなる姿で床を這いずり回っている入居者を見る。個室の中だ。
「大変なのはわかりますが、いつ入れるかは、全くわかりません。」と言われる。
優先順位のことを訊くと「優先順位も施設によって違いますから。ここでは、介護度は低くても独居老人が優先になります」

実家に戻るとキャンセルしたはずの○○証券の担当者が来ている。
朝、父に電話が掛かったのだが、「ライオンが見えるとか言うことはなくなったんだけどねぇ」などと要領を得ない会話をしているので私が代わり、その日に会って説明を受ける約束をした。
しかし他の施設の見学・申し込みを優先してキャンセルした。
「はい。あの後、お父様から2時に来て欲しいとご連絡頂きまして」
父はいなかった。状況を説明すると裁判所に行って成年後見人の手続きを取るよう言われる。
父がいつまで待っても帰ってこないので、妹が携帯に電話をすると「そんな約束はしていない」と言う。
この時になってもまだ父の認知症を信じられずにいた妹が、ショックを受けていた。

その時、妹の携帯に電話が入った。
妹「やった!あのグループホームだよ!1つ空きが出たって!一番近い所だ!」
(「ここは、今は満床ですが、同じ系列の施設が沢山あるので訊いてみますね。もし空きが出たらすぐお知らせします」と言ってくれたグループホーム施設長がいた。)
すぐに二人で駆けつける。

建物は古いが、大勢居るスタッフも皆にこやかでとても感じが良い。入居者も皆、穏やかな顔をしている。人の印象は、今まで行った中で一番良かったかもしれない。
入居者の一人の男性は「へい、らっしゃい!」と私たちに挨拶してくれた。何屋さんだったのだろうか。
街の中心地なので窓からの景色は良くないが、実家から車で10分もかからないほど近い。
施設長は、年配の感じの良い男性。既に2人の申し込みがあるが、優先的に入れてくれると言う。
「本人と面会して受け入れ可能かどうか確認したい」とのことで、5時に実家に来てもらうことになった。

帰りの車の中で、私も妹も沈黙していた。
妹「・・・脱力?・・だよね・・」
私「何か言ったり、喜んだりしたら、その瞬間に消えてしまう夢のような気がする・・・」

帰宅して、妹からケアマネに電話報告。ケアマネも信じられない様子。

5時。施設長と女性が二人で来て、母と話す。
母は、お客と認識していて、礼儀正しく丁寧な言葉でおかしなことを次々と積極的に話す。
施設長は、終始微笑みならが、慣れた様子で上手に会話をつなげている。
しかしその後、「ベッドが問題。ないし・・」と二人でひそひそと話している。
私も妹も気が気でない。「何が問題なんですか?!」

母の介護には、介護ベッドが必需品になるが、グループホームのベッドは介護ベッドではない。
介護保険で借りているレンタルベッドは、規則があり使えない。高額なベッドを買ってもらうしか方法がないという話だった。
「買います!ベッドは買います!」私は、ほとんど叫んでいた。
妹「30万以上もするんだよ」
母の身の安全と確かな介護を確保するためなら30万なんて問題にならないじゃないかと思う。万一父が渋るなら私が出す。
「では保証金20万(退所時に返却)の入金の確認とベッドの搬入が終了し次第、入居して頂けます。」


<このグループホームについて>
1フロアーに入居者9人。3階建てなので合計27人。全個室(6畳)。
月々の費用は、家賃約10万円+介護保険負担分約2万8千円+オムツ代など実費。











8月の介護4日目(後編)父の事務能力 回転寿し 老健

帰宅すると父がダイニングテーブルで何十という郵便物の束を整理をしている。
見ていると、封も切っていない重要書類もダイレクトメールも一緒に分類されている。
分類になっていないのだ。
重要なものだけ(全て未開封)を抜き取って「これは金庫に保管したら」と言うと「余計な口出しをするな!」
母は、沢山の証券会社、保険会社、金融機関に少しづつお金を貯めていたようだ。
その何がどうなっているのかは、全くわからない。父にも。1つ1つ電話をし、確認、整理していくしかないのだろう。
父の意味のわからない分類整理にも意味はあった。その郵便物の束の間から母の通帳が1つ出てきた。

その間にも督促と思われる電話がかかってくる。
「払わないって言ってる訳じゃない!家内が倒れて背骨を折って、今は、それどころじゃないんだ!」と怒鳴って一方的に切ってしまう。「どこから?」と訊くと「市役所だ。放っときゃ取りにくるだろ」
「お父さん、忙し過ぎるから。請求書出してくれたら、私、全部支払いしてくるよ」
「俺が全部やるからいい!今まで俺が一度の間違いもなくきちんとやってきたことだ!問題ない!」
妹に訊くとあちこちから色々な督促が来ているようだと言う。

母が、一泊したデイサービスから帰宅する。夜はやはり頻繁にトイレに起こしたそうだ。
私「夕べ、寝てないのに、一日お仕事だなんて・・。本当にご迷惑お掛けしてすみません。」
職員「迷惑だなんて!私、○○さん大好きですから!いつでも引き受けます。無理しないで下さい」

母は、体の調子も頭の調子も良くないが、父が「お母さんの好きな回転寿司に行こう!」と言う。
せっかく行くのならもっと美味しい寿司屋にと助言したが「回転寿司、旨いぞ!」
私と父と二人で抱え上げるようにして車に乗せたり降ろしたりして、寿司屋には、車椅子のままカウンター席へ。
母は、終始無口無表情。
父「お母さん、何食べたい?」
母「トンカツ」
生まれて初めて見たが、トンカツののった寿司がそこにはあった。店の選択は正しかった訳だ。
父「他には、何食べたい?」
母「アイスクリーム」
父は、はるばる店員の所まで訊きに行き、残念そうに言う。
父「アイスクリームだけないって。他のものなら何でもあるぞ。ケーキ、ゼリー、プリン・・・」
私は、食事用エプロンとお手拭きを持って来るべきだったと後悔した。
店内では子どもの泣き叫ぶ声が響いていて、母は、顔をしかめた。
母は、「ちょっと!」と通りがかりの店員を呼び、何を言うのかと聞いていると「うるさいから静かにさせて」と言う。
店員は、母が認知症だとは気がつかなかっただろう。

帰るとケアマネからの資料がポストにあった。
老人保健施設(老健)を全部当たったが、一番早い所で1ヶ月半待ち。それは、どこもとても遠い所(山の中など)にある。
近い所で4~6ヶ月待ち。そんなに待つ前に、母は、確実に再び骨折で入院するだろう。

夜、突然、伯母(母の兄の妻)が来てくれる。
母の無表情は変わらないが、言うことが突然しっかりしてくる。
アナログ時計まで正確に読んだ。(奇跡!)
優しい伯母は、冗談を言っては、母をうっすら微笑ませてくれる。
別れ際、父が席を外した短い時間に、父も認知症で介護はできないと短く説明する。
伯母は信じられないという表情をするが、「施設を考えないとね」と厳しい顔をして帰って行った。
伯母の心労を増やすことばかりして本当に申し訳ないが、親戚で無理が言えるのは、伯母くらいだ。

寝る前、夫から電話が入る。「どうだい?」
一言も言葉が出て来ない。心は平静なのだが、この状況を短い言葉で何と言えばいいのかわからない。
「声が聞きたいと思ってたけど、電話する余裕なくてね」「まあ、体に気を付けて・・」
短い会話だったが、少しほっとした。
妹が居なかった最初の3日間は、一人ですべて抱え込んでパンクしそうだったけれど、妹に話し、施設の人達に話し、伯母に話している内に、私は、落ち着きを取り戻しつつあった。







8月の介護4日目(前編)兄の仕事 施設回り

朝、食器洗いをしている父を遠くから見ながら兄が
「オトーサン、イソガシイ、カワイソウ」と言って、通所施設に出掛けて行った。
しばらくしてふとゴミ出し表を見ると、「月曜可燃ゴミ」と書いてある。
「お父さん!大変!今日、ゴミの日だよ!」
母のオムツを入れたゴミ袋は、臭いが強過ぎると庭に出されていたが、恐らく近所中の迷惑になっているだろう。
父も私も慌てて庭を見るが、可燃ゴミがなくなっている。兄が出してくれたようだ。
「違うゴミまで持ってってない?」「いや、可燃ゴミだけだなぁ」
父はゴミの日を完全に忘れ、曜日に関係なく出していた兄が、ゴミを日を覚えた?!
兄は激変している。

グループホームの見学と申し込みのために、関西から戻った妹と二人でデイサービスに母を迎えに行く。
母は、6人位のグループの中で生き生きと楽しそうにおしゃべりをしていた。
「会いたかったよ~!!」とふざけた声を上げて抱きしめると「○○(妹)も。○○(妹)も」とせがむ。
「嫌だよ~ん」と妹がふざける。「まぁまぁ!○○さんの娘さん達らしいわ~!」と皆で笑っている。

母を連れてあるグループホームに行く。素晴らしくきれいな施設で驚く。
担当者から時間をかけて詳細を訊かれた後、「ここには歩けない人はいませんから」とはっきり断られる。
次のグループホームに行くと、アルバイトかと思った若い愛想のない施設長が出てくる。
歩けないこと、目が離せないことは、問題ないが、つい最近満床になったばかりと言われる。

妹「まただよ!本当に嫌になるね。・・○○ちゃん(私)疲れてるよ。一旦帰ろうか?もう一カ所行く?」
私「なるべく数当たろう」と私は言い、妹が電話で場所を訊き、次のグループホームに向かった。
母「今度は、どこに行くの~?ご飯食べに行く?○○の蟹は美味しいよ」
私「お母さんが毎日楽しく過ごせて、お泊まりもできる一番良い所を一生懸命探してるところだよ」
母「やっぱりコロコロ(毎朝泣きながら行くデイサービスを母はそう呼ぶ。)が最高じゃない?」

今度は中年の女性の施設長。「客室がないので」と1畳位の事務所に3人で入った。
親身に熱心に話を聞いてくれた。
レビー小形型認知症という病名を知らず、説明すると「勉強しますね」と言っていた。これは妹の行った多くの施設で言われたことらしい。
「本当に心配で、お困りでしょう。ここは、今は、満床なんですが、ここと同じ系列のグループホームが、市内に結構沢山あるんですよ。どこかに空きがないか訊いて、あればすぐにでもご連絡しますよ」

実家に戻って兄の施設に電話をする。
薬の件は了承してくれた。今後のことは、まずショートステイの日数を伸ばすことを勧められる。現在一人、両親共病気の人が、毎週5日のロングステイをしているという。
既に定員は一杯だが、特例として受け入れる。ただ早めに決めてもらわないと、どの親も老いているので、いつどんんな状況になるかはわからない。そこ以外の施設となると、福祉事務所に相談に行って欲しい。等々言われる。

母をデイサービスに戻し(すんなり帰った。)予約してあった時間に第一希望の特別養護老人ホーム(ショートステイで利用中。)に行き、相談をする。
「状況が変わったらいつでも相談に来て下さいって言ってたよ」と妹が言ったので急遽面接予約を入れた。

私は、状況をなるべく正確に、客観的に、簡潔に伝えようと思っていた。
しかし途中、何度も涙で中断してしまった。やはり私は、おかしくなっていると自分で思う。
担当者は、私が黙れば黙り、最後まで静かに聞いた。
「お父さんの診断書も必要になりますが、現時点で緊急度はかなり高いと判断されます。入居の優先順位もかなり上がります。それでもそれが半年後なのか、もっと短いのか、長いのかは、誰にもわかりません。
今、できることは、1つでも多くの特養(特別擁護老人ホーム)に申し込みをし、順番を待つということです。どこでも順位は高くなるはずです。
ただ、順位が来ても、人に迷惑をかけるような問題行動がある場合は、申し訳ありませんがお断りさせて頂く場合があることも覚えていて下さい。」






8月の介護3日目(後編)拒否 伯母 母の居ない夜

母をデイサービスに再び帰す。
「こんな所、嫌だ!なんで私ばっかりが、こんなに我慢させられて、こんなに辛い目にあわなきゃいけないの?!あんた、いったいどういうつもりなの?!」
母の頬に涙がボロボロこぼれている。
退院前のこういう母の様子は、妹から毎日聞かされていたが、私は、初めて見た。
何を言えばいいのか、わからず、私は、ただ呆然と立っていた。
職員が冷静になだめるが、母の怒りは増すばかりだ。
「あんた、なんで黙ってるの?!あんたは、何だって自分一人できちんと決められるじゃないの!」
・・・お母さん、もう私には、どうすればいいかわからないよ。自分が何をしているのかもわからないよ。なんでこんなにお母さんを苦しめているのかもわからないよ・・・。
涙が溢れ出して止まらない。「ごめんね。行くね」としか言えなかった。
(父と兄は、ずっと車で待っていた。)

帰宅して異様な疲れを感じた。夕食の支度までの30分、目覚ましをかけて死んだように眠った。

夕食後、伯母(母の亡き兄の妻)から電話。心配してくれている。
私「夜、(母が)全然寝なくてね。交代だけど、お父さん、辛そうで・・・」
伯母「やっぱりそう?私、一度、泊まりに行って様子を見てみようと思ってるの」
伯母の体を思って、それだけは絶対止めて欲しいと伝えるが、
「一泊だけだよ~。二泊も三泊もじゃ嫌だよ~」とカラカラ笑っている。

母のいない夜は、とても静かだ。
緊張が解け、神経が休まるのを感じる。母が車椅子で放置されているのを見た時から、私の頭は、少しおかしくなっている。

薬の仕分けの続きをする。母は甲状腺と肝臓の持病もあるので全部で10種類以上の薬を飲んでいる。
朝昼夕とに分けて、小さな小袋(百均で売っている。)に入れ、曜日別時間別に区分けされた大きな薬箱に詰める。
いつも妹がやってくれていることだ。妹の負担の重さを思う。
めちゃめちゃになっている引き出しの中も整理する。

先月、ある程度整理したはずなのに、またあらゆるものが混ざっていて何がどこにあるのかわからない。
20年も30年も前に私が出した手紙も最近来た督促状も封も切らずにごっちゃになっている。
保健証券も病院の診察券も何もかも脈絡なく混ざっている。
保険証など重要なものは、皆再発行されて、何枚もある。良く見て、必要のないものは捨てる。
前回の帰省まで、この混乱は、母の頭の混乱を表しているのだと思っていた。
これは、父の頭の中でもあったのだ。
父は、兄がグチャグチャにするのだと言っていたが、どこまでが本当かわからない。

この夜も1時間毎に目が覚めるが、階下に母は居ないので様子を見に行く必要もなく、安心してすぐに再び眠った。






8月の介護3日目(前編)思いやる母 納得の通所 グループホームへ

午前4時前、怒鳴り合う声で目覚め、居間に下りて行くと、母はすっかり目覚めている。
「早く支度して名古屋に行かなきゃ!」と昨日と同じことを言っている。
父「今日は、名古屋なんか行かないって、何回言えばわかるんだ?!」
私が交代するから2階の寝室に行くように父に言うが「もういい!ヤケクソだ!ここで寝るからいい!」
私は、母のベッドに入って隣に横になり、母と話し始める。
話しているうちに、支離滅裂だった母の頭は、徐々に正常だった頃に戻っていった。

母「○○(妹)が良くやってくれてて本当に助かってるよ」
私は、その一言で突然感情を抑えられなくなる。・・・そうだよ。○○は頑張り過ぎて、もう限界・・・
母は、私の頭をゆっくりとなでながら優しい声で言った。
「泣かないで。泣かないで。あんたは小さい時から泣かない子だったじゃないの」
母は、私の頭をなで続ける。昔通りの柔らかい口調。
「あんたは、いつも人のことばっかり心配して・・・。私と性格が似てるんだね。自分のことも大切にしないとね」

母は、朝になっても歩けなかった。もう一人では、支えて立たせることも不可能だ。
父と二人で支えて、やっと昼用パンツ型オムツに代えて、着替えさせる。
ひどい腰痛を感じる。父に「腰は大丈夫?」と訊くと言葉を濁す。痛いのだろう。

この日は、デイサービスに一泊するように退院前から予約してあった。
自宅での5泊連続滞在の真ん中に休憩のために入れてあった。
デイサービスのお迎えが来る5分前、そのことを説明し始める。
母は、ギョッとして「また行くの?!嫌だ!行かないよ!」と大声を出す。
父も私も睡眠不足で辛い。一泊してきてくれる間にゆっくり寝て、また元気を取り戻して笑顔で迎えるからと話すと無表情のままじっと聞いている。
「お母さん、辛いと思うけど、私とお父さんのために行ってくれる?」
「わかった。本当は行きたくないけど、行くね。ゆっくり休んで」
母は、無表情のまま、静かに車椅子で車に乗り込み、無表情のまま手を振った。

母と過ごせる貴重な時間を自ら手放してしまったという後悔の気持ちと、少し心と頭を整理して、あと4日間でできることを考えなければという思いが同じ位強くあった。

母を送り出してすぐ、昨日紹介されたグループホームに電話をする。
見学と申し込みをしたいと伝えると、年金が振り込まれていることを証明するもの(通帳や葉書など)や介護保険の保険証などを持ってくるよう言われる。本人との面接も必要という。

父に伝えると「そんなものはない!」と言う。
「ないって言ったらないんだ!通帳も行方不明だし、葉書もない!保険証もない!」
(父には、何がどこにあるかという記憶がほとんどない。)
デイサービスにならコピーがあるはずだと言われ、デイサービスに電話をしてコピーのコピーを用意してもらい、母を一時的に連れ出すことを伝える。
年金の証明の代わりに、父は、財産証明のようなもの(?)を持った。
私は、父の認知症と介護困難を簡単に説明するメモを書いてカバンに入れた。

とにかく急がなければ。
妹は、あるグループホームで「あと数日早く来て頂ければ入居できたんですが・・」と言われている。
「あんな遠い所に通えるか!問題外だ!」と怒る父を「ほんのしばらくの間だけだから。これ以上徹夜が続いたらお父さん、倒れるでしょう?」と説得しながらまず母を迎えに向かう。
35度近い暑さの中、自力で立てない母を車に乗せたり降ろしたりするのは思ったより大変だった。
でもそんなことを言っている場合ではない。

行く途中、父の運転が、危険極まりないことがよくわかった。

兄も行きたいと言うので4人で押し掛けたが、面接はすぐに終わった。
私だけ接客室から出され、施設長から言われた。
「ここには歩ける方しかいません。グループホームは、共同生活の場であって、介護中心の特養(特別養護老人ホーム)とは違います。お母さんが入るべき所は、特養だと思います。
お母さんのように歩けず、目も離せないというような方を受け入れるグループホームなんて、どこにもないと思いますよ。」
(この発言が正しくない事は、後々わかるが、この瞬間には、死刑宣告のように受け止めていた。)


8月の介護2日目(後半)笑顔のない母 食べさせたがる父

母は、歩行は無理ということで車いすでデイサービスから帰って来た。
職員は、沢山の段差のある玄関などをスイスイと乗り越え、車からベッドまで直行した。
車いすにあんなことができるなんて知らなかった。
(私は、特別養護老人ホームで働いた経験がほんの少しだけあるが、特養に段差は全くない。)

職員「お母さんは、”認知”じゃありません。記憶があります。だから(デイサービスに行くことに関して)嘘はつかないで。”また私をだました”って言いますから」
嘘をついた記憶はないが、「デイサービスに行って」と説得もしていない。明日は、説得するか。
確かに母に「何でも忘れる」という症状はない。それは、初期からずっとそうだった。
忘れた方が楽なこと(自分の言動の問題)も覚えていて悲しがることが多い。

母は、体の動きの悪い時は、大抵頭の動きも悪い。
帰宅した母は、ほとんどしゃべらず、感情など全くないかのような無表情。話しかけてもあまり反応しない。

そんな時、ケアマネが、最近出来たばかりのグループホームで、まだ空きのある所が見つかったとチラシを持って来てくれる。
父に「どう?」と訊くと、「そんな遠い所(車で40分)じゃ話にもならん!」と興味も示さない。
しかし母の安全を守るためには、どんなに遠かろうが入るしかないのだ。
グループホーム間の変更は容易だとケアマネに確認は取ってある。
特別養護老人ホーム(特養)は、一度入ったら変更は、ほとんど無理だそうだ。
より近いグループホームに移り住みながら、希望の特養の空きを待つしかないだろう。

夕食を食べ始めてすぐに父が「お母さん、パン食べるか?」と菓子パンを持って来る。
母は、お菓子やパンが大好きだ。見れば食べたいと言うに決まっている。慌てて隠す。
父は、一日中頻繁に母の手を握っては「○○、大丈夫か?何か食べるか?」と優しく訊く。
母は、大抵甘いものを食べたがり、父は、時間に関係なく際限なく食べさせようとする。
父「食べたい時に食べたいものを食べることのどこが悪い?!」

母は、食後すぐに眠ってしまう。「なるべく遅くまで起こしておかないと大変だよ」と言っても
父「寝かせておけ!お母さんは、あんまり寝てないんだ。疲れてるだろう。休ませてやれ!」

母の笑顔を1度も見ることなく1日が終わろうとしている。
介護で最もキツいのは、抱え上げることでも、ウンチの処理でもなく、笑顔が見られないことではないかと、その時、思った。母の無表情は、こたえる。

9時過ぎに目覚めた母は、訳の分からないことをブツブツ独り言のように話し始める。
ふと「あんた、明日、四谷に帰る?」と目を合わさずに言う。(これも症状。)
先月までは、私の住む街の名前を覚えていたのに・・。
父は、母の独り言に一々真面目に反応する。
父「何だ?!何して欲しい?!」(父の声はいつでも大きい。)
母「そんなに怒鳴らないで!」(ヒステリックな悲痛な声。)
父「何だ!怒鳴ってなんかいないじゃないか!!」(怒鳴っている)

優しく「そうだな」と返事をするか、返事をしないかのどちらかにしてくれと父に言って、私は、2階の寝室に上がった。
この夜から母の睡眠導入剤は止めた。
母は、一晩中、亡くなった祖父(母の父)祖母(母の母)伯父(母の兄)に会いたいと言っていたらしい。
やはり30分毎に起こされたと言うが、それ以上の記憶は父にはなかった。

8月の介護2日目(前半)精神科で3人の相談

朝、母の希望でトイレに連れて行こうとしたが、半メートルで諦めベッドに引き返す。
母の体のバランス、足の動きは、極端に悪く、これでは私一人で支えることなどできない。(父は早朝から仕事に出ていた。私が居ると安心するのかすぐ居なくなる。)
ベンザリン(睡眠導入剤)を2錠近く飲むと母はこうなるのだとはっきりと知る。
ベッドで朝食を取ってもらう。

母を座らせ、夜用オムツを昼用のパンツ型に代えようと脱がせた途端、大量の排便(軟便)が始まる。
母は一人では立てないし、とにかく文字通り必死でお尻を拭く。母はきょとんとしている。
数え切れない程のお尻拭き(市販)でどうにか拭き終わるが、今度は、パンツ型オムツをはかせることがどうしてもできない。母は、立てないのだ。

そこにデイサービスのお迎え(この日は運悪く女性一人)が来た。事情を話し、ベッドのある居間まで来て手伝ってもらう。
母は、スタッフの顔を見た途端「嫌だ!行きたくない!嫌だ!」と抵抗を始める。
泣いて叫んでしゃがみ込む母を女性スタッフと二人で車まで抱えて運ぶ。
50キロの母が100キロに感じた。
スタッフの顔からも汗がポタポタ垂れていたが、私も服が汗でずぶ濡れになった。
母には申し訳ないが、母の気持ちに寄り添っている精神的、肉体的、時間的余裕はなかった。死に物狂いで送り出し、私には、行かなければいけない所がある。

午前中、兄の精神科受診予約をしていた。(帰省前に自分で電話して予約した。)
兄を連れて行って脳波などの精密検査をしてもらうつもりでいたが、事態が変わったので私一人で行く。
(兄と行けば「遅イ!帰ル!」と騒ぎ出して、ゆっくり話すことはできない。)

最初に3人のことを相談しても良いかと訊くと「本当は、規則違反だけどね」と渋々OKが出る。

<兄>2度も倒れたのは、薬の飲み過ぎや飲まな過ぎのため。(以前は母が薬の管理をしていた。その後は父に頼んだがダメだった。)通所施設に行っている昼間に影響の強い薬を飲むように処方が変わる。

<母>睡眠導入剤(睡眠薬/眠剤)は色々あるが、昼夜逆転の生活を直さない限り、効果は出ないだろうと言われる。
「それが簡単でないこともわかるけどね。でも一度薬を止めてみて、2~3週間、生活リズムを作る努力をしてみるというのも1つの手だよね。その方が(副作用の)リスクもないし。」
父の運転で名古屋に通うことは危険なので、もしレビーに詳しいのなら主治医になって欲しいとも伝えるが、「詳しくはないよ」と正直に言われる。

<父>症状を説明。「アルツハイマーだと思われますか?」
「本人と会ってみないことには、何とも言いようがないけど・・進行が早いね。何か他の病気が隠れている可能性も否定はできないし、とにかく一日も早く受診することだね。」
私は、先月、父に「お父さんは認知症だよ」と言って激怒されたことを話した。
「本人も内心は不安が結構あるからね。その弱点を正面から突くというのは、一番まずいやり方で、拒絶は当然出ちゃうよね。」
一番良いのは、母が受診する時に『ついでにちょっと検診してもらう』という形だと言う。
「親戚皆集めてエイヤ!って無理矢理連れてくっていう方法もあるけど、これはこれで難しいし、怪我人も出たりするしね」
「とにかくなるべく早くお父さんを介護サービスに繋げること。お母さんはもちろん、将来のお父さんの行き先、お兄さんの行き先をすぐにでも探し始めないと、あなたたち姉妹の介護負担は、際限なく増えていくよ。すべて早め早めに動いていかないとね。皆、共倒れになる前に」
「それにしても、毎月○○から通ってるんだよね?あなた自身の家庭は大丈夫なの?」
(・・・正面から突かれてしまった・・・。)

帰宅してすぐ、父に伝える。
「院長先生言ってたよ。お父さんみたいな睡眠不足の介護者は、脳の疲労が激しくて、物忘れが出たり、色々な病気になりやすくなるんだって。(ここまでは私の出任せ。)院長先生が、お父さんも一回脳の健康診断をしてもらった方がいいよって。ねぇ。念のために一回やっておこうか。」
「ん」と父は、イエスともノーとも取れる曖昧な返事をして、また仕事に出掛けて行った。
この日から父には毎日言い続けたが、私の帰省中に病院に連れて行くことはできなかった。
名古屋フォレストクリニックには電話で問い合わせたが、母と同日に予約を入れる事は無理と言われた。土曜日の新患予約は、早くて10月だそうだ。

この日、兄がショートステイから帰宅。顔を見てほっとする。
やっと昔のままの「正常な」家族と会えた。(重度の知的障がいと言語障がいは、私たちにとっては「正常」であり、「普通」だ。)
また髪が伸びているので、兄の承諾を得て私が切る。剃り残しのひげ(2センチ以上)や鼻毛も。
見違えるようにさっぱりした兄に「カッコ良くなったねぇ!」と言うと、とても嬉しそうに笑う。・・救われる。

この日の午後も父の記憶違いから様々なトラブルが起こる。
父の言うことをそのまま信じた私は、その後始末に追われた。

兄の通う通所授産施設にも手紙を書いた。倒れた原因、昼の薬を管理して欲しいこと、父がほぼ間違いなく認知症であること(母のことは既に伝えてある)、父が兄の面倒をみれなくなった時、兄の行き先としてどういう選択肢があるのかということ。一度ゆっくり相談したいと書いた。(PCがないので時間がかかった。)

まだまだやらなければいけないことは沢山あったが、もう母が戻って来る時間だ。



8月の介護1日目(後編)ケアマネに相談 母眠らず

母の歩行は、前回の退院時(歩行困難)よりは良かった。
歩行器を使い、一人が支えれば何とか前に進んでいける。
(リハビリスタッフが、優しいイケメンの男性の時は、見違えるように良かったと退院前、妹は言っていた。)
幻視(幻覚)はないが、意味のわからないことをよく言い、表情は暗く、怒りっぽさ、涙もろさが目立つ。
「お兄ちゃんはどこに行っちゃったの?」と何度も不安そうに訊いては、「あっ。さっきも訊いたっけ?私、どうかしてるね。バカになっちゃった。もうダメだね」と顔を歪める。

先月ある程度整理したはずの室内は、またひどく混乱し、先月揃えた介護用品も色々なくなっている。
「お父さん、○○は、どこにやったの?」
「知らん」そんなものがあったかという表情。
何を訊いても、それ以外の答えは返って来ない。父に訊くのは無駄なのだとわかる。

夕方になり担当ケアマネとこれから入る予定のヘルパーさん(主任)が来る。
ケアマネも熱心な人だが、ヘルパーさんも「この人さえ居れば百人力」という感じの人。
二人で盛んに母に話しかけ、盛り立て、母は、初めて母らしい笑顔と茶目っ気を見せる。
「○○さん、また元気になって大好きなお父さんと一緒に旅行に行けるといいねぇ」とケアマネ。
「もう無理・・・」と悲しそうに答える母。
「行けるよ・・!行けるよ・・!」私が母の手を握り、目を見て真剣に言うと、母は目を丸くして見せ、それからとても嬉しそうに笑った。

私は、隣の部屋でウロウロしていた父に用事を頼んで外出してもらい、その間に父の現状を二人に説明した。
二人とも顔色を変える。すぐにそれに対応する応急の策が次々と出てくる。
ケアマネは、一日でも早くどこかに入所できるよう、今度は、老人保健施設(老健)も当たってみると言う。

二人が帰ると母は、また暗い無表情に戻り、アナログ時計を見つめている。(母は時計が読めなくなって久しい。)
母「あぁ、もう3時だ。早く出発しないと」
私「お母さん、今は6時半だよ。(デジタル時計を見せる)」
母「(怒って)それは○○(ある地方の名前)時間!私は、○○(故郷の名前)時間の話をしてるの!」
私「○○と○○は、時間が違ってるの・・?」
母「あんた、何言ってるの?2時間違うじゃないの。・・そんなこと、人に絶対言っちゃダメだよ。笑われるよ」
昔の母のように、真剣に、諭すように母は私に言った。

しばらくすると父が、私に「ポリデント、捨てといたぞ」と言う。
「なんで?」
「お母さんが捨てろって言ったからな」
「・・・お母さん、認知症なんだよ・・・」
父は、すぐゴミ箱を漁り「おぉ、あった、あった。何ともないぞ。」

夜、10種類の薬の仕分け(朝昼夕用)をしながら母に昔の思い出を訊くが、辻褄が合わないことばかり言う。
しかし何十年も前の話をする時は、生き生きとした表情が出てくる。別人のようだ。
(薬の仕分けは、いつも妹が1時間もかけてしてくれている。間違えてはいけないし、手間のかかる仕事だ。)

母がウトウトし始め、その顔を見ながら今後のことを考えるとパニックになりそうになる。
たった6日間で、私に解決できる問題か・・・?!
今は、何も考えまいと思う。『明日落ち着いて考えよう』

前回と同じように父と私と交代で母の横に寝ることにする。初日は、父の希望で私が。
母は、不安が強いと判断してベンザリン(睡眠剤)を4分の3錠飲ませるが、全く効果なし。
母は、一晩中「お母さん、助けて!お義姉さん、助けて!」と言い続けた。
「困った!どうしよう!困っちゃったよ!どうしたらいいの?」と泣く。
落ち着かせようと抱きしめると「暑苦しい」と言い、体をさすると「痛い」と怒る。
「どうやって助けたらいいの?」「わからない」
「何が恐いの?何が困るの?」「わからないよ」
夜中にもう1錠追加で飲ませてみるが、まったく効かない。
朝、4時頃からは、はっきりと覚醒し、「さぁ、早く起こして!名古屋に行く支度をしなきゃ遅れちゃうじゃないの!」などと言い続け、なだめようとすると怒り「あんたを一生恨んでやる!」などと言う。

排尿の量は、7月に介護した時の4分の1くらいになっていた。
汗で減るのか、7月が異常だったのかは、わからない。
腎臓に異常がないか、様子をみなければと思う。

そして朝になり、母が、全く歩けなくなっていることを知る。
(おそらく薬の副作用によって)





8月の介護1日目(前編)父の判断能力

朝、妹(この日から3日間用事があり出掛けている。)から連絡が入り、父の仕事の関係で、急に退院が3時に延びたと聞く。
私は、予定通り昼には故郷に着き、生まれて初めてバスで実家に帰った。今まではいつも母か父が駅まで車で迎えに来てくれていた。それが当たり前かのように・・。

一時でも早く母に会いたかったが、待つということができなくなった母は、私の顔を見れば「今すぐ帰る!」と騒ぐだろうと予想して、先に実家に帰った。
実家の冷蔵庫の中身を見て、やはり愕然とする。新しくない大玉キャベツが2つ、生姜が4袋。他のものは、ほとんど腐っている。肉も魚も何もない。賞味期限の切れたものばかり・・。
どういう食生活をしているのか想像ができない。
スーパーに行って、必要なものを買い揃えた。

仕事から戻った父を見た時、何かが変わったと感じた。生気が弱ったような・・。
父の運転で病院に向かう。ろくな安全確認なしで突然車線変更をする。
駐車禁止の病院の正面玄関前に車を停めて、車の鍵もかけずにさっさと下りて行ってしまう。
慌てて追いかける私が何を言っても「つべこべ言うな!」

病棟に着くと母は、ナースステーション(そこで監視されている。)で泣いていた。
「お母さん!私だよ。どうしたの?」
「だって泣けるんだもん!」母は、子どものように泣き続けている。
父は支払いを済ませると、挨拶もせずに車椅子の母を連れてエレベーターで下に行ってしまう。
(もともとせっかちで常識に欠けるところがある。)

私は、慌てて担当ナースに入院中の様子を訊いた。
尿意、便意はなし。
夜の危険行動はないが、オムツを外して投げることはある。
睡眠導入剤は半錠使用。
だが目を覚まして一人で独り言を言っている時が多い。
日中は、泣いていることが多いが、看護士に対して怒ることは、ほとんどない。(父や妹にはよく怒っていた。)
お礼を言い、慌てて父母を追いかけてエレベーターに乗った。

エレベーターが開いた瞬間、自分が見たものが信じられなかった。
そこには、車椅子の母が、一人で放置されていた。ブレーキもかけられていない。
「・・お父さんは・・?」
「コンビニにおにぎり買いに行ったよ」
何分か経った後、父は、コンビニの袋を下げて平然と戻って来た。
「どうして(転倒骨折の危険性の高い)お母さんを一人にしたの?!」
「お母さんが、おにぎりが食べたいって言ったんだぞ」
父は、不思議そうに言った。

デッドエンド(行き止まり。行き詰まり)だ。
すべて終わりだ・・と思った。
介護能力の高低の問題ではない。父には、既に判断能力がない。
初期の認知症だとは思っていたが、こんなことになっているなんて考えてもみなかった。

帰りの車の中で、私は、何も考えられなかった。
父は、母におにぎり2個を食べさせろと私に言い、私が制すると母が、怒った。
「食べたい時に食べたいものを食べさせればいいんだ!」と父も怒鳴る。
「お母さん、サンドイッチもあるぞ。食べるか?」父は嬉しそうに母に訊いた。


無事戻りました

今日、無事に戻りました。
やはり睡眠不足でフラフラではありますが・・。
(母は、相変わらず夜は、ほとんど寝ません。)

今回の6日間の(遠距離)介護は、どん底の気分からスタートしますが、好転していきますので、あまり心配なさらないで読み進めて下さい。
前回と同じように、やはり時間に沿って書いていこうと思っています。

どん底気分の時は、もうブログを書くのも止めようと思ったのですが、同じような体験、苦労をされていらっしゃる方も大勢いらっしゃるのではないかと思い、まだ続けていこうと思いました。

ただこれから書くことを万一悪用されてはいけないと思い、あえて詳しく書かない部分も出てくると思いますが、ご了承下さい。

酷暑、まだまだ続いています。
皆さんも、皆さんが介護されていらっしゃる方々も、どうぞお元気でいらっしゃいますように・・・!

しば




試しに始めてみました。ランキングというのは、ちょっと抵抗があるのですが
これをクリックして頂けるとどの記事に訪問の方が多いか等が分かるようです。
今後書く記事の参考にしたいと思っています。
クリック、どうぞよろしくお願いします。
しば

介護7日目(後編)家中にメモ マニュアル 介護の納得 別れ

1週間の遠距離介護を終え、今日の夕方には、私は自宅に戻る。
私がいなくなっても父がわかるように、あらゆるところにメモを貼付けた。
言っても必ず忘れることは、わかっていた。
(けれども後日、メモもまったく役立っていないことがわかる。)
<薬のませた?><ここに母の服。肌着を着せてから服を着せる><小さいタオル。顔や手を拭く>などなど。

朝起きてから夜寝るまで、母にして欲しいことの全ても書き出して(いわばマニュアル)ベッド脇に貼った。
(これもヘルパー講習と老人ホームで働いた体験が多いに役立った。)
すべてその通りにやるとは夢にも思わなかったが、せめてその半分でもやって欲しかった。
たまにでも読み返し「あぁ、こんなこともするんだ」と思い出して欲しかった。

寂しかった母のベッドの回りを有り合わせの包装紙で工作して少しだけ飾り付けた。
本当は母の好きな犬か猫か子どもの写真の特大ポスターを買ってきたかったが時間がなかった。

「納得いくまで介護してきてあげて」と言って送り出してくれた職場の人がいた。
「父も私も納得いくまで介護したい」と帰省前、妹が、言った。
私は、何一つ納得していなかった。納得など有り得ないと思った。
私が、家庭を捨ててここに留まり、母を最期までこの家で看取れば納得できるのだろうかと何度も考えた。
睡眠不足で全く回転しなくなった頭で考えると、それは1つの正しい選択肢に思えた。
でもそれは異常な考えなのだろう。病気になる前の母なら、決して望まなかっただろう。

あちこちの片付けもしていると母の古いメモが出てきた。
<ボケてまで生きる意味がどこにあるのか>
メモ用紙は変色していたので、祖父母(母の両親)がぼけた頃に書いたものなのかも知れない。
私も5月にせん妄(と思われる)状態の母を見た時、『これがもし自分なら死にたい・・』と思った。
でもそれは間違っているのだろう。どんなになろうと私たちは、母に生きていて欲しい。

ケアマネを頭から拒否していた父も頼りになる人だということをやっと理解するようになった。
勝手ばかり言っているのに嫌な顔一つせず、本当に親身になって考えてくれる素晴らしいケアマネだ。
妹が、ケアマネ、デイサービス、ショートの電話番号を大きく書いて電話の前に貼った。

母には、私が自宅に戻ることを何と言おうかと一日考えていた。
「行っちゃだめ!ずっとここにいて!」と号泣する可能性が一番高かった。
「ちょっと買い物に行ってくるね」と言って、そのまま消えるか?それも悲しい。

出発直前、妹が、「電車の時間、何時だっけ?」と口を滑らし、母が「何?!何の話?!」と顔色を変えた。
「お母さん、私、いったん○○に帰るね。またすぐ来るから待ってて」と目線を合わせて笑顔で言うと
「そう。じゃあ、夕方遅くには戻ってくるんだね。わかったよ」と笑った。
強く抱きしめると母ははしゃぎ、「お父さん!お父さん!早く!早く!○○(私)が、ハグしてくれるって~!」
「お父さんは、なしでしょ~」と妹が笑い、母も父も兄も私もみんなで笑った。



介護7日目(前編)通所拒否 宅配弁当

その夜、母は、1時間毎に起きて話を始めた。
「コロコロ(デイサービスを母はそう呼ぶ)には行かない」と繰り返し言う。
「私は、コロコロには行かない。理由は。私は、とても疲れやすい。毎日行くと疲れてしまう。だから時々休まないといけない・・・」しっかりした口調で延々と続ける。
「わかったよ。明日、○○さん(ケアマネ)に言おうね。今は、もう寝ようね」と言うが、寝る時間だということがどうしてもわからないようだった。

しかし朝9時、デイサービスのお迎えが来ると突然愛想を振りまいて(妹の夫だと思っているからか?)出掛けて行った。(直前まで「今日は行かないから」と言っていた。)
翌日から初めて行く予定のショートステイ(1泊)には「絶対に行かない!」ときっぱり言い続けている。
夜、一人になるのが恐いと言い「私の寂しい気持ちはどうしてくれるの?!」と迫る。
明日も無事に出掛けてくれるのだろうか?

今までも時々あったが、母は、ふと「MとA(私の子ども)、今日来る?」と私に訊いた。
「来ないよ。来たがってるけどね。今、大学の試験中だから」と答えると「そう」。
MとAにも早く会わせてあげたいが、今のこの家の混乱状態の中に介護も料理もできない二人が泊まりに来ても混乱と忙しさを増すだけのような気がする。迷う。

兄は、朝、テレビの「ゲゲゲの女房」をちらっと見て、泣きそうになっている。
「どうしたの?!」と訊くと「(水木しげる役の)手、ない。痛い。可哀想」と目を潤ませている。
兄の兄らしいところを久しぶりに見た気がした。
どうしても母の世話が優先になって、兄の世話は、最低限になっていた。
兄の世話だけでもすべてをきちんとしようと思ったら切りがない。
「もういいよ。無理だよ。しょうがないよ」と妹が言う。そう思う以外、今は、方法がない。

ケアマネの○○さんが、酷暑の中、突然様子を見に来て下さる。
私が帰った後のことが非常に不安だと現状を伝える。
差し当たって安くて美味しいという宅配弁当を勧められる。
私も以前、ネットで調べたが、そこは出てこなかった。家族で運営していてホームページがないそうだ。
母が去年、腕の転倒骨折で入院した時に他社を利用したのだが、父が「口に合わない」と言って止めてしまった。
「家事は一通り何でもできる」と言った父の言葉を鵜呑みにしていた○○さんは、父が、ごった煮の味噌汁以外何も作れないと知ると絶句していた。
父は、私が以前送った温めるだけの冷凍煮魚などの総菜もまったく手を付けていなかった。

3種類の宅配弁当のパンフレットを見ながら、父と妹と相談する。ネックは父だ。
父「500円もあればスーパーで何でも買えるぞ」しかし父は魚の天ぷらしか買わない。(あれも病気か?)
私「お母さんの健康のためには、栄養のバランスが大事でしょう?」
父「緑の野菜と魚(=天ぷら。父はすべて味噌汁に入れる)と飯を食っていれば何の問題もないだろう!」
妹が、とりあえず母だけ宅配弁当にして、父には気がすむまで天ぷら入り味噌汁を食べさせればいいと言う。
私もそれで妥協する。何十回言おうが、父の用意する食卓は変わらないのだ。

この日、母はとても機嫌良く帰ってきた。
「私が留守にするとこの家(の食卓)は、凄いこと(御馳走と品数)になるんだねぇ」と言い、私の作ったすべての料理を美味しそうに平らげた。
(母は1週間、本当に何でも良く食べてくれた。甘い物も好んで食べた。)
量さえ食べればどんどん元気になり認知症も回復して行くと信じているらしい父は嬉しそうにそれを見つめていた。
前夜、水羊羹を食べ終わった母に「アイスクリームも食べるか?」と訊く父だった。




介護6日目(後編)寿命 時計 出産の記憶

テレビのニュースでは「女性の平均寿命が86才になった」と伝えている。
『あと何年母は・・?』という思いを振り切るように「お母さん、まだ15年もあるよ~。ひ孫、見るまで長生きしようね!」と笑って言うと、無表情(症状)のまま「無理。長くは生きられないよ」と言った。
(レビー患者の平均余命は、発症後3~7年という記事を読んだ。)

父は、母が時計が読めないことを私が教えると、すぐに大きなデジタル時計を買ってきてベッドの前に取り付けた。
一番最初は、トンチンカンな読み方をしていたが、何回か試すと、正確な時間を言えるようになった。
ただ、数字は読めても、時間の感覚があるかどうかは怪しかった。時間と生活が結びつかないような感じだ。
母は、腕時計と指輪も欲しいと言った。50年はめていた結婚指輪を今年になってなくしたことを気にしているらしい。

夜からは急に調子が良くなり、表情も出て来た。
「毎日だと疲れるからコロコロは2週間くらい休むことにするね」と落ち着いて言う。
デイサービスのことを母は、コロコロと呼ぶ。本当は6文字のユニークな名前が付いているが、毎日何度聞いても、ベッドの前に書いて貼っても覚えられず、コロコロで定着した。
「じゃあ、ケアマネの○○さんと相談するね」と言うと納得している。実際には行ってもらわなければ困る。

「ねぇ、私が生まれた時のこと、教えて」と言うと、母は、目を輝かせて驚くほど詳細な話を始めた。
何もかも全てが初めて聞く話だった。朝生まれたということも初めて知った。

母は、昔、私が生まれた時のことを訊ねると、うるさそうに「難産で大変だったから覚えてない!」と言った。
生まれたのが朝か昼か夜かも覚えていないと言い、私の名前を選んだ理由もあやふやだった。

私は何才だったのだろう・・恐る恐る訊いたのを覚えている「お母さん、私が生まれた時、嬉しかった?」
母は、イライラしながら「子どもが生まれれば、親は嬉しいに決まってるでしょ」と投げ捨てるように言った。
兄のアルバムは1才になる前に1冊うまっているが、私の0才児の写真は1枚もない。
兄が生まれた時、嬉しくて嬉しくて旗を掲げて町中を走りたかったという話は、母から何度も聞いていた。

兄の言葉の遅れから初めて障害に気付いたと母は昔言っていた。
名古屋の大病院で検査をし、「重い知的障害で20才までは生きられない」と言われた時、兄と死のうと思った・・と私は小学校の頃、聞いた。
私は、その混乱の頃に生まれ、父も母も私の誕生や成長を喜ぶ心の余裕はなかったのだと自分で想像し納得したのは、私自身が出産、子育てをしてからだろうか。

「知らなかったなぁ。お母さん、私が、何を訊いても怒って”そんなの覚えてない!”って言ってたんだよ(笑)」
「そりゃあ悪かったねぇ。可哀想なことしちゃったね。忙しい時に限ってあんたが訊いてきたからねぇ」
「お母さん、私が生まれた時、嬉しかった?」
「嬉しかったよぉ!!!そりゃあ嬉しかったよ!!お兄ちゃんが変だって気付き始めた頃だったけどね・・・」
母は顔をくしゃくしゃにして、心から幸せそうに話した。

母の話は30分以上も続き、記憶はやがて混乱し始める。
新生児の妹のいる病室で私は夏休みの自由研究をしていたと言う。それは妹が7才で母が半年入院した時の話だ。
私が生まれた時の話ももしかしたら兄の時の記憶と混ざっているのかも知れない。
それでも私には、十分だった。
こんな歳になってから、母が認知症になってから与えられた十分過ぎる贈り物だった。









介護6日目(前編)タンスの混乱 父の認知症疑惑 母の怒りと悲しみ

次の夜、父は、「一度も起こされなかった。奇跡だ」と喜んでいた。
父の眠りが深くて、少し位の声では起きなかったのかも知れない。

日中、家中の押し入れやらタンスやらをチェックして母のTシャツや兄の夏服などを見つける。
どこもここも季節に関係なく色々なものが、混ざっている。
いったいどの位前から(1年以上?)母は、こんな状態になったのだろう。

母は、デイサービスに行っているのに、私は、何度もハッとしてベッドを見た。
『母のことを忘れていた!立っていないか?オムツを外していないか?一人で寂しがっていないか?』
そして空のベッドを見てほっとした。

妹と8月9月をどうしようかと話をするが、二人とも何も考えられない。
父には、これから毎晩母が朝まで寝るとは思えないと伝える。
急激に悪化する以前から毎晩3回はトイレに起きていたのだ。
私「今、通っているデイサービスは、緊急の時一晩預かってくれるんだから、倒れる前に上手に利用してね」
父「そうかぁ?!」
妹「何、それ?!私、もう10回はお父さんに言ったよ!」
私も既に何回か言った気がする。
私「お父さん、認知症だよ」私は、本気で言った。父は私の教えた何もかもを忘れる。
父「お前は、俺を病気だって言うのか!!!」怒鳴った父は怒って出掛けてしまった。
父も一度病院に連れて行かなければ行けないが、今は、対策が考えられない。

デイから帰った母は、車から降りるなり「お腹空いた。ご飯できてる?」と言う。
まだだと答えると「早くご飯作って!早くして!」と怒り出す。
すぐ作るから少し待ってと言うと「食べたいと思ったら、もう我慢ができないの!!」と震えながら怒っている。

私が急いで食事を作っていると、兄が私に「お母さん、汚い」と訴えに来る。
居間に行くと母がオムツに深く手を入れて何かしている。
父は、困ったような苦笑いをして黙って見ているだけだった。
父は、母が認知症だと理解していない(受け入れていない?)と思われることがよくある。
少なくとも何ができて何ができないかは、全くわかっていない。(刻々と変化することではあるが)

次に見ると、母はいつの間にか食卓に座って、私がさやから出しておいた枝豆を手で食べている。
「手、洗ったの?!」思わず父に叫ぶ。「食中毒になるよ!!」
父の衛生感覚を見ていると、それが本当に恐い。

食べたのかどうかよくわからないような慌ただしい雑然とした食事が終わった。
私は、母のよくわからない問いかけに対して、初めて笑顔で答えることができなかった。
母は、それを敏感に感じ取ったのだろう。不安げな顔になり、次々とおかしなことを言った。
介護者は、いつでも笑って接しなければいけないんだろう。笑顔が何よりの薬なんだろう。
でも介護者に精神的肉体的余裕がなければ、それも難しい。

片付けが終わって、やっとデイサービスの日誌を開く。
<・・・家族に迷惑をかけていて申し訳ないと言って泣かれました。・・・>







介護5日目(後編)介護の幸せ

母は、デイサービスでは、色々沢山話したようで送ってきた男性職員が「お母さん、粋ですね」と言う。
母は、その人のことを妹の夫だと思っていて、ある女性職員のことは、姪だと思っている。
母「みんな違うよって言うの。変だね」

ゴミの分別(私の住む地域より細かい。)ができない兄(重度知的障がい有)に時間をかけてゴミの種類を教える。
「無駄だよ」と妹も父も言うが、毎日ゴミを分け直すのも父のストレスになるだろう。
父は、文句も愚痴も言わないが、かなりストレスを溜め込んでいる。
母には絶対に怒鳴るなと私が言っているし、兄に怒鳴れば兄は収集がつかなくなる。
風呂や茶碗を洗いながら「○○(兄)のやつ、このくらい手伝ってみろって言うんだ!」と大声で一人でしゃべっている。
妹は父にゴミの分別を教えている。「スチール缶とアルミ缶は分けるんだからね。布は資源ゴミだよ」
父は、キョトンとしている。今までどうしていたのかと訊くと、出さずに倉庫に溜め込んであると言う。

母は、便のことがあったので、尿も拭けているのかどうか初めて確認してみた。
(母は、いつも拭いた後、その紙をトイレの床に捨てようとした。)
なぜそうなるのかはわからないが、おしりまでびしょびしょだった。
(母は、しっかり拭いたと言う。)
その時から、トイレの度に専用のおしり拭きで全体をよく拭くようにした。

母は、食後、抑肝散を飲ませようとすると初めて自分で薬の袋を持った。
「○○!(兄)○○!薬の時間だよ~!」兄の薬だと思っている。
「お兄ちゃんに飲ませてどうするの」と妹が吹き出し、私も父も笑った。

夜、母、父、妹、私の4人で(兄は9時前に寝る。)ソファーに座り、初めて皆でテレビを見る。
(母のベッドの位置からはテレビは見られないし、見たいとも言わなかった。)
たわいもない番組だが、父も妹も大笑いし、母も笑っていた。
母は、すぐウトウトしてしまうが、目覚めては、また皆と一緒に笑った。
4人でテレビを見て一緒に笑う日が来るなんて、想像もしていなかった。
このまま時が止まってしまえばいいのにと思った。

介護は、思った以上に大変だったが(特に、眠れないこと。)思った以上の充実感があるということも知った。
一日、母の世話をして、家事をするだけの毎日で、ブログを書くなど「何か生み出す」ということは何もないが、それでも何か精一杯仕事をしたという達成感のようなものがある。
家族5人が、これ程結束したことも過去にはなかった。
問題だらけの家族だが、決して不幸ではなく、むしろ幸福の近くにいる気がした。






介護5日目(前編)せん妄消失 リスパダールの副作用 お墓参り

夜、パジャマでは脱いでしまうことがわかったので、足首までの長さの綿のワンピース(ハワイ土産)を着せた。
(これは5夜目にしてやっとたどり着いた良いアイデアだった。)
リスパダールを医師に言われた通り2包(全部で1ml)飲ませた。
本当に眠るかどうか確認するためだ。
母は、眠りにつくまで何度もオムツに触ろうとして直接触れず「ここに穴を開けて」と言った。

夜中は、4回「トイレに行く」と言って私を起こした。せん妄は消えた。
一瞬迷ったが、危険だと思って「オムツを替えるからトイレは我慢してね」となだめた。
4回ともパッドがぐっしょり濡れていた。
4時から7時まではぐっすり眠った。

しかし朝、体の動きは退院初日より悪く、トイレでも立っていることができなかった。
(両手で手すりを掴んで、私も支えていた。)
リスパダールの副作用だと確信した。
母は、感情がないかのように無表情だったが「こんなんじゃ、もうだめだね」と何度も言った。
「お母さんが悪いんじゃない。薬のせいだよ。お母さんは何も悪くないよ」と繰り返し言ったが、反応はなかった。

9時、母をデイサービスに送り出し、5日振りに自由な時間が持てた。
妹にも一日休むように伝えたが、気になるので夕方来ると言う。
ずっと気になっていたお墓参りに行く。(伯父<母の兄>が3月に亡くなった。)
「ひいおばあちゃん(母の祖母)おじいちゃん、おばあちゃん(母の両親)おじさん、お母さんを助けてあげて」
と拝むと、突然、感情が爆発した。
あぁ、私は、泣きたかったのか・・と気付いた。
私は、強い負の感情を持つと心が麻痺して自分の感情がわからなくなる。
あまり健全ではないが、長年そうだから仕方がない。
5月に帰省した時も帰りの新幹線が走り始めると同時に、突然、涙が止まらなくなった。
悲しいのだとか、泣きたいのだとか、その時までまったく気が付かなかった。

お墓参りの帰りに伯母(母の兄の奥さん)の家に寄って1時間半ほど話をする。
小さい頃から一番世話になっている頼りになる優しい伯母だ。
伯父に急死されて少しうつ状態だというのに、私の話をじっくり聞いてくれた。
5年間自宅で寝たきりだった祖母の介護を「ただ静かに寝てるだけだったから楽だったよ。」と言う。
祖父には、夜中何度も起こされたと言った。
(祖父母とも晩年にはぼけた。)
伯母は、病院にもよく母を見舞ってくれて、その度に母の調子はとても良くなったと妹から聞いていた。

伯母に話を聞いてもらって、私は、心がずいぶん軽くなったのを感じた。
この日、帰省以来初めて1時間昼寝をした。



介護4日目(後編)母の本音 排便 風呂で失禁

母はデイサービスでは「冗談を言って皆を笑わせた」と日誌に書かれていたが(奇跡のような回復だ!)帰宅するととても不機嫌で、ずっとそばに付いていろと言う。
私は夕食の支度があったが、何度も何度も呼ばれて、台所と居間を往復し続けた。
(体に良く美味しい夕食作りには毎日全力を尽くしていた。母は、作ったもの全てを完食した。)

病院の待合室では、私が、おどけて
「お母さん、しっかりしてね。お母さんがしっかりしてくれないと、私、○○(私の自宅)に帰れないよ~」
と笑って言うと、母は、真面目な顔をして即答した。
「○○に帰す気なんてないもん。さらさらないよ。」
顔の筋肉も頭も凍り付いたような気がした。
後で妹に言うと、妹は苦笑しながら言った。
「病院でも毎日怒鳴ってたよ。”○○(私の名)はなんでここにいないの?!なんで○○(私の住む所)なんかに行っちゃったの?!”って」

この夜、トイレで初めて便が出る。(母は、長年ひどい便秘だ。)
ちゃんと自分で拭いたと言うので、確認のために拭き直してみる。
拭いたどころか軟便を塗り広げた状態で、3回拭いても拭き切れない。
見ると便座にも便がべっとり付いている。
父に支えてもらって拭こうと、父を呼ぶと「風呂だ!風呂に入れる!」と、嫌がる母を裸にして抱えて行った。
力任せの抱え方を見て「それじゃ腰を痛めるよ」と手伝おうとしたが「来るな!邪魔だ!慣れてるからいい!」
腰を痛めない介護の方法を知っているつもりの私でも既に腰痛は始まっていた。

この夜、初めて自宅に電話をし、夫と話す。少し気が楽になる。
まだたった4日しか経っていないのに、もう1ヶ月居るような気がする。

母の後、滝のような汗をかいた父が風呂に入り、しばらく経ってから私も入った。頭も体も重かった。
湯船に浸かり、顔を洗った。
臭い!
なぜこんなに臭いのか、しばらく理解できなかった。(母の尿は薬のせいか独特の強い悪臭がする。)
よく見れば、お湯の色も違う。(私は裸眼では何も見えない。)
風呂を入れ直す?そんな気力もなかった。頭がまったく回転せず、どうすればいいのかわからなかった。
もうどうでも良くなって、そのお湯で体も髪も洗った。
洗い終わった後、目の前にシャワーがあったことに初めて気付いた。

その夜は、母の横で寝る番だった。


介護4日目(前編)不眠 せん妄 介護指導 父の物忘れ

予想に反して、父はその夜もほとんど眠れなかったと言った。
一晩中、繰り返しパジャマの上着を脱いで半裸になってしまったと言う。
(そのパジャマはマジックテープ式で簡単に脱げた。父も着替えさせれば良かったのに)

これ以上母の不眠が続けば、父が(私も?もうよくわからなかった。)倒れると思い、あちこちの病院(精神科・神経内科)に電話をし(土曜日だったため多くは休診だった。)その1つに母を妹と連れて行った。
(この日も同じデイサービスに行ったが、事情を話して途中で連れ出した。)

単純に睡眠導入剤をもらえばいいと思っていたが、医師は予想外のことを言った。
「それは不眠ではなく、せん妄です。睡眠導入剤を使うと悪化しますよ。朝夕1包処方されているリスパダールを夜2包に変えて様子をみて下さい。それから主治医に診せた方がいい。」
私は、リスパダールのせいで歩行困難になっていると考えていること、退院してから自分の判断で半量(夜のみ)に減らしていることを伝えた。
「確かにリスパダールは副作用の多い薬ですが、眠らせるには有効です。(独り言)なぜ朝も処方したのかな・・」

せん妄という状態は、以前にもネットで色々調べたが、はっきりとはわからなかった。
支離滅裂なことをうわ言のように一日中話す母の状態がせん妄ではないかと5月の帰省時に主治医に訊いたが、違うと言われた。「せん妄の時に会話はできませんから」


最初の3日間は、無我夢中で介護をしていたが、この日から介護の方法1つ1つを父に教え始めた。
オムツの当て方、口腔ケア、トイレでの介助、薬の飲ませ方、腰を痛めない体位の変え方・・。数え上げれば限りなくある。
(ヘルパー資格取得のための講習と老人ホームで働いた経験はとても役に立っていた。)

案の定、父は、何一つまともに知らず、まともにできなかった。
そして教えたほとんどのことを翌日にはすっかり忘れ、もう一度やらせようとすると拒否した。
「もういい!その時になればちゃんとできる!今からつべこべ言うな!」
今しかないのに・・!(私の帰省は1週間だ。)
仕事では、なんでも自分なりの工夫をしようとする父は、オムツの当て方でも
「”慣れ”なんて言ってられるか!そうだ!腹にマジックで線を書けばいいんだ!」と本気で言う。

父は、毎日、鍵がない、財布がない、仕事のメモがないと一日中騒いでいた。
母の薬もこの日から父に任せてチェックしていたが、毎回飲ませ忘れていた。
「薬飲ませた?」というA4サイズのメモを父が毎日必ず見る場所3カ所に貼っておいたが効果なしだった。
睡眠不足だとかストレスによる一時的な記憶障害なんかではない!私はそう思い始めていた。

8月初旬にはグループホームに入所のはずだったのが、帰省してみると9月も在宅予定になっていた。
私「○○(妹)は、9月から仕事だよ。お父さん一人で全部やるんだよ。デイから帰る4時前には必ず家に居ないといけないし、その後も、仕事には行けないよ。そんなことできると思ってるの?」
父「俺は何でもできる。何の問題ない。心配するな」
父は、仕事の電話が入るとどんな重要な用事も食事も全て忘れて(無視して?)飛び出して行く人だ。
一昨日も夜10時半に仕事に出掛けた。
父「うるさい!断れない仕事ってものもあるんだ!1年に何回もない!」

東南アジア(新婚の頃2年住んだ。)では、よく現地の人から「何の問題ない」と言われるが、そう言われた時が一番問題があるという経験則をありありと思い浮かべていた。








介護3日目(後編)デイケアで激変

2つ目の大病院での兄の診療がやっと終わり、3時過ぎ、母のデイサービスへ様子を見に行く。
普通の一般家庭(大きな家)を改造してデイサービスと託児所を併設している。
子ども達が歩き回り、楽しそうな話し声やはじけるような笑い声で溢れている。
こんな家庭的な和やかな雰囲気の施設は、初めてみた。

母は、別人のように(それが以前の母だったのだが)生き生きと明るい表情で椅子に座って居た。
回りには、他に認知症と思われる方が3人、職員が2人、小学生の子どもが1人座って話をしていた。誰もが皆、楽しそうに笑っていた。
母の生き生きとした表情を見たのは、いったいどの位(何年?)振りだっただろう。
(常に暗い無表情でいるのも症状。人の目を見て話さないのも症状。)
死んだ家族と再会したかのような気持ちがして、胸が一杯になる。
良いデイケアと知って心の底からほっとする。帰省以来、初めて出て来た安心材料だ。

母がトイレに連れて行ってもらった時には、もっと驚いた。
「♪幸せは~歩いて来ない、だ~から歩いて行くんだよ~♪」の歌に合わせて、母の足が、10センチ位上がっている。家ではすり足以外できなかったのに。
職員に話すと、リズムを付けて、声をかけながら足をゆっくり高く上げさせると良いと言われた。

その日帰宅した母は、体の動きも見違えるように良くなっていた。
母がきちんと立てないために、汗をびっしょりかいて必死でしていたトイレ介助もまったく楽になる。
(母は、背は小柄だが小太りで、体重は50キロ以上ある。)
デイで受けた刺激が良かったのか、昨日の朝からリスパダールを減らした効果が早くも出たのか、もともとあった母の体調の波に乗ったのか、その全てなのか・・。原因はわからない。

母は、自分から歩いてみたいと言い、歩行器を使って長い廊下を自主的に2往復もした。
ゆっくりだが、しっかりとした足取りだった。
「歩かないとダメですよって言われたの?」と訊いたが、「別に言われてないよ」と答える。

その後、認知症ではないかのように普通に会話が成り立った。幻覚(幻視)も見えない。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、涙をこらえならが笑って話すのが大変だった。
夜10時過ぎまで色々楽しく話し続けた。
これで夜もぐっすり眠ってくれるだろうと思った。

「調子の良い時の母を見ると、施設に入れることなんて絶対に考えられない」と繰り返し言っていた妹の気持ちをこの身で実感する。この母のどこが異常かと思う。
妹は、逆に、心に余裕が出て客観視できるようになったのか、父や私を心配してか「早く特養(特別養護老人ホーム)に空きが出ればいいのにね」と言うようになる。

眠る頃、クーラーの効いた居間で母は、なぜか突然とても暑がった。
濡れたタオルで冷やしたり、氷を口に含ませたり、手足を冷やしたり、あらゆることをしたが「暑い、暑い」と訴えていた。
(翌日は、異常に寒がった。これはレビー小体型認知症の症状)
「もういいよ。ありがとね。あんたも疲れたでしょう?早く寝て。私は大丈夫だから」と母が言い、私は2階の寝室に上がった。
今夜は、父が、母の横に寝る番だ。

私は、眠れない日が続いていたが、なぜか、一日中眠気も疲れも全く感じなかった。
寝付いても2時間おきには目覚め、その度、階下の母の様子を見に行った。
寝ているとほっとし、オムツを外そうとしているとなだめた。
ベッド脇で死んだように寝入っている父が、ひどく小さく痩せて見えた。


介護3日目(前編) 夜中泣く母 兄の事故 

この夜、12時半から朝4時の間に10回程起こされる。
4時からは完全に目が覚めて、ずっと元気に大きな声でしゃべり続けていた。

起こし方は、色々だった。
「お母さん!お母さん!」と私を呼び、意味のわからない支離滅裂なことを言ってさめざめと泣いたり、
「居るの?そこに居るの?みんな私を置いてどこかに行っちゃう!恐いよ!」とオイオイ泣いたりした。
一人で苦しんでいる母が哀れで、抱きしめて「居るよ。ずっとここに居るよ。大丈夫だよ」と慰める。
オムツを外す「バリッ」という音でも何度も飛び起きた。
「(オムツが)気持ち悪い」というので4回位パッドを交換した。どれもぐっしょりだった。

4時からは、ソファーに座っている兄(重い知的障害がある。日中は福祉作業所にバスで通っている。夜9時前に寝て4時前に起きる習慣。)に向かって
「○○(兄の名)早く行かないとバス出ちゃうよ!」などと次々と指示を出し、兄と大喧嘩になる。
母には常に従順だった兄が、母に「うるさい」と言う言葉を生まれて初めて聞いた。
「あんたの面倒なんてもうみてやらない!」という母の言葉も、まるで未知の国の言葉のように新鮮で心底驚いた。
ずっと続いていることだが、母は、早朝の時間の感覚が、まったくない。
4時5時は、まだ寝ているべき時間だということが全く理解できない。
時計も読めない。

7時に朝食をとった後は、ストンと眠り、9時、本人は全く何も理解しないまま初めてのデイサービス(デイケア)に連れて行かれた。(バスで迎えに来てくれる。車椅子ででかける)

入院していた病院で「新しい環境で悪化するタイプ」と何度も言われていたので、この日は、私が、一日中付いて居て、母が戸惑わないようにさりげなくサポートするつもりでいた。
私は場所がわからないので、妹に運転して連れて行ってもらう予定だった。

ところが、さあ出発の時になって父の携帯に悪い知らせが入った。
「○○(兄)が倒れて怪我したらしい。悪いけど病院に行ってくれ」
妹の運転で二人で駆けつけた。
結論から言えば、縫うような傷もなく、頭の打撲もなく(精密検査をしろと言われて2つの病院に行った。)入れ歯が半分に折れて、歯が3本抜けた。
数滴の出血で大騒ぎになる兄が、鼻血で真っ赤になった作業服を見て、どれほどの恐怖を味わいパニックを起こしただろうと想像すると辛かった。ずっと手をつないで歩いた。
不思議なことに、歯がなくなったことは、夜、鏡を見て気が付いたようで「歯!ない!歯!ない!」と大騒ぎになった。偶然、その日から3日間いつも通っている歯医者が休業で、「歯・ない」状態が3日間続くことになった。
(私たち家族,<父以外か。>は、兄の大騒ぎには慣れているので、別に何でもない。)


介護2日目(後編) 拘束 減薬 本 施設見学

帰宅以来、母は、柵付きのベッドに入れられることを嫌がった。
すぐに「寝たい(横になりたい)」とは言うが、柵に拘束されるとイライラするようだ。
母「私は、自分で行きたい時に、行きたい所へ、自由に行きたいの!!」

しかし椅子やソファーに座らせている間は、常に見ていないと、一人で動き出して転倒骨折する危険が高い。
支えなければ立てないはずのに、見ていない時は、なぜか一人で立ててしまう。
「どこに行きたいの?一緒に行こうか」と声をかけると「私は、お風呂の掃除をしてくるから、あんたは料理してて」とか「車で銀行まで行ってくる」とか言う。

他に見てくれる人がいなければ、家事はもちろん、自分がトイレに行く短い間にも動けない母をベッドまで運び、安全のための柵をかけた。
(一人残しての買い物などは考えられない。
オムツを外す、柵を乗り越えて落下する、他にも想像もできない危険がありそうだ。)
そばに座って一緒に話をしていてあげればいいが、視界から人が消えると何度も何度も繰り返し呼んだ。
一人になると不安感で一杯なってしまうようだ。


朝、ベッドでオムツを代えた時、オムツただれを起こしていることも知ってショックを受ける。
一日でできることを知らなかった。薬を付けた。
母は、羞恥心も麻痺しているようで、抵抗なく(父にも。)世話をさせてくれる点は楽だ。


この朝から、私と妹の判断でリスパダールを半量にしてみる。
(いきなり全量は、危険と判断した。様子を見ながら徐々に減らすつもりだった。)
朝、夕、2回の処方(各0,5mg)を夕方だけに変えた。
常識的には、絶対に許されない行為だが、歩行困難は、リスパダールの副作用によるものと確信していた。

主治医は、リスパダールで歩行困難などありえないと言った。
薬剤師に強く言って調べてもらうと「本当だ。10%の人にそういう症状が出るって書いてありますねぇ。知らなかったなぁ・・」。
薬剤師は、また「抑肝散は気休めですよ。テレビの影響で皆、飲みたがりますけど、あんなの効きません」と断言したそうだ。
主治医も薬剤師もなぜそう言い切るのか、わかるように説明して欲しい。(私は、その場に不在)
母の幻覚(幻視)は、リスパダールでは変わらなかったが、抑肝散を飲み始めてから減り始めた。妄想話も減り、返答は往々にしておかしくなるが、それでも穏やかな会話が成立するようになった。


コメントでちゃわさんが勧めて下さった本認知症治療の28の満足 後悔しないためのベストの選択(河野和彦著)を初めて読んだ。
様々な種類の認知症について(その早期発見の方法や薬の処方なども)一般論より深く理解できる良い本だ。
驚いたことに父は、私が勧める前にその本を読み始めた。
仕事関係以外の本を父が読むのを生まれて初めて見た。

この著者が開業している名古屋フォレストクリニックに一度連れ行ってみないかと父と妹に相談し、すぐに電話で予約を入れる。2週間後の朝一番だけなら一人分空きがあると言われる。
父と妹が、母を連れて行ってくれると言う。


この日は、母と妹と私と3人でショートステイ(28~29日が初めて)先となる特別養護老人ホームの見学にも行く。
広く、とても清潔感のある美しい建物で外の景色も良いが、話し声、笑い声は聞こえず、そこに母を入所させることを想像するとどうしても胸が痛んだ。
車椅子で回った母は、そこがどこなのか、なぜ見学にきたのか、わからない様子だった。

夜はなるべく遅くまで起きているように(昼夜逆転を治すため)二人で色々な歌を歌ったり、昔話をしたりして過ごした。
言うことは、おかしいが、とにかく母とこうして再び会話ができることが嬉しかった。


介護2日目(前編) びしょ濡れ事件

朝5時。父が私の名前を叫ぶので慌てて居間に下りて行くと、すっかり動転している父とキョトンとした母がいた。
半裸の母のパジャマもシーツも掛け布団もびしょ濡れだった。
(母は毎晩信じられないくらい大量のオシッコをする。)
自分でパジャマのズボンを脱いで(あの動かない体でどうやって脱ぐのか想像できないが、母は病院でも時々想像もつかないことをした。)オムツを外したのだ。

病院でも毎日明け方にそうするのでつなぎのパジャマを着せられていた。
(それでも外せるはずのない複雑なボタンを外して脱いだという。
看護師も首をひねり「○○さんは、特別器用なんですね」と言ったそうだ。)
私は、母の自宅でそんな囚人の拘束服のようなものを着せる気は全くなかった。
夜中に何度かパッド(オムツの内側に付けるもの)を代えてやればいいだけのことだと思っていた。

ぐっしょり濡れたパッドは、父の顔の真横にあったという。
父は、パッドを投げつけられても熟睡していたわけだ。
夜中は、何度も何度も起こされて、ほとんど眠れなかったと言う。
「まぁ、いいけどな。それにしても人の顔にオムツ(パッド)を投げるなんてひどい奴だぞ(笑)」
すべての処理が終わって落ち着いた父は、笑いながらそう母に話しかけていた。
父が笑うと母もニコッとする。
何が起こったのか、何をしたのかは、母には、何もわからない様子だった。
それが救いだ。
母は、その日の午前中、起こしても起こしても眠り続けた。


この日、母の保険(被保険者は父と兄)の担当者、ショートステイに行く予定の特別養護老人ホームの職員、担当ケアマネが次々と来て、妹が、様々な事務処理(契約)を慣れた様子でテキパキとこなしてくれた。
本当にありがたい。
父は、そういった事務処理は、全て妹まかせだ。
私は、前夜あまり眠れず、頭がぼんやりしていた。
お茶を出したり、お客の話を聞きながら母の相手をしたりしていた。
(ケアマネとは話をした。)

母の体の動きの悪さは相変わらずで、トイレには行くが、行った時には、既にパッドはびっしょりだった。
そうなる前にとトイレに何度も誘うが、断られた。

母は、一日中無表情で、お見舞い金のお返し(20人程もいた)の心配ばかりしていた。
何度、父がやってくれていると言っても自分で銀行とデパートに行って手配をするのだと言ってきかなかった。
色々な話題で話しかけるが、すぐにその話に戻ってしまう。

昨日もだが、幻覚は、激減していた。
妄想話もあまり出ない。
時々意味のわからないことを言うが、「そうだねぇ」と相づちを打てば、長くは続かない。
ふと「お母さん、何才?」と訊いてみると「42才(実際は71才)だよ」と答えた。

庭には、一日中きれいな蝶々が来ていた。
出てみると小さなバッタや蝉の抜け殻がいくつも見つかる。
(虫は)変わらないんだなぁと思う。
しかしいつも美しく整えられていた植木は伸び放題で、たくさんのプランターの花は、ほとんどが枯れていた。
花が好きな母のために(動けない母の代わりに)父がせっせと植えた花だった。


追記(介護の1週間について)

1週間分を要約することができないので、1日目から書きました。
1日目は、母の身体状態も悪く、ちょっとハードな日でした。
でも母の状態が常に波打っているように、1週間の中で、状況は刻々と変わり、幸せな時間、楽しい時間も多々あったんです。
ずっと一日目のような状態が続いていた訳ではありません。
ですから、あまり心配せず、悲観的にならず、続きを待っていて下さい。

私は、夕べは久しぶりにぐっすり眠って、濃霧の中にいるような頭(睡眠不足が原因で、まったく回転せず、何も考えられない。)から大分復活しました。
大丈夫です。


退院(介護)1日目 イライラ 歩行困難 

35度近い暑さの中、駅から病院に急ぐ(徒歩)が、退院手続きは2時間位遅れていた。
先月もそうだったが、私の顔を見ると私と認識し「ああ来たの」という顔はするが、それ以上のことはわからない様子。
母は、「待つ」とか「我慢する」ということが、全くできなくなったようで、車椅子の上でイライラしていた。
「なんでダメなの?!やってられない!もう帰る!一人で帰るからほっといて!」と繰り返す。
気を紛らわせようと病室の外に連れ出すと余計怒った。
このイライラ状態は、もう何週間も続いていて妹や父を消耗させたらしい。
「立っちゃダメ」「オムツを外しちゃダメ」あれもダメ、これもダメと言われ続けた病院は、母には耐えられなかったようだ。

やっとのことで家に帰り着くとすぐに隣の家の○○さんが、果物を持って訪ねてくれる。
母の認知症はわかっているが、優しく沢山話しかけてくれ、母も嬉しそうにニコニコしている。
二人になった時、手みやげを渡し、「何かとお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と頼む。
今までもたまに様子を見に来てくれて、何度も助けられている。

母はその後、気持ちは落ち着くが、信じられないほど体の動きが悪い。
歩行器につかまり、二人がかりで支え、本人は懸命に歩こうとするが足が前に出ない。出て1センチだ。
体のバランスも悪く、私たちが全力で支えていなければ、すぐに倒れる体勢だ。
居間に置かれたベッドから数メートル先のトイレに行くのは、母にとってマラソンを走らされるに等しい。

1時期は歩行器で1人で歩けるまでに回復した母をこんな状態にしたのは誰だ!!と叫びたくなる。
母を抱きしめて「こんな苦しい思いまでしてトイレになんか行かなくていいよ」と言いたくなる。
『もういい。これこそ拷問だ』と思っている自分と『まだリハビリが必要なんだ。寝たきりにしちゃいけないんだ』と思う自分が闘っている。


母に夕食に何を食べたいか訊くと「餃子」と言う。
(後でわかったが、母は、餃子以外の料理の名前をほとんど覚えていない。
食べたいものは、どんなものでも作ってあげよう、1週間毎日飛び切り美味しいものを作ってあげようと意気込んでいたのだが・・)
食事中(何とか介助なし)も常に無表情(これは症状)無口(食事中のみ)だが、最初の一口を食べて「おいしいねぇ!」と目を丸くして見せた。
だがどのおかずも全部混ぜて犬のエサのようにして食べるのに驚く。
止めようとしても「これでいいの!」と拒否する。

妹から聞いた話だが、食後、私も妹(無職になり毎日日中通で来ている)も家事をしている間、父は、ベッドサイドに行って黙って母の手を握りしめていたそうだ。

夜は、父と私が1日交代で母の横に寝ることにした。
初日は、父の希望で父が。
そして翌朝、5時、父の私を呼ぶ叫び声で飛び起きることになる。


27日に戻りました

無事に帰って来ました。
帰宅すると珍しく夫も子どもたち(大学生)も揃っていて、3人の顔を見たら、ピンと張りつめていたものが、久しぶりにゆるんでいくのを感じました。
ここが私の家なのだと思いました。
実家にいる間、『私さえずっとここに居続けることができれば、母を最期まで実家で介護できるのに・・。そういう選択肢だってあるはずのに・・』と繰り返し、繰り返し、思っていました。
睡眠不足のせいか、疲れなのか、ストレスなのか、(そのいずれも自分ではほとんど感じないのですが)私の頭は、あまりうまく回転しなくなっています。

1週間は、とても濃い時間でしたよ。
1ヶ月以上居たような気がします。
どうだったかと言えば、(客観的に見れば)「大変」としか言いようがないのでしょうが、1週間でも母の世話ができて嬉しかったです。
辛いとか、苦しいとか、嫌だとかは、一度も思いませんでした。
たった1週間ですからね。

要領よく様子をまとめられない気がするので、21日からの様子を徐々に書いていく予定です。
まずは、帰宅のご報告まで・・。
プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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