母との会話(2014年秋)

久しぶりに母(要介護5)を訪ねました。相変わらずとても穏やかです。
ただ9割方正常に話していた過去10ヶ月と比べると悪化。話の6〜7割に妄想幻視の話が混ざり、私の言葉を中々聞き取れず会話がスムーズにいかない時もありました。

今までと違うのは、しっかりした顔つき目つきで、そうなっていたことです。
(今まで、言動がトンチンカンになる時は、大抵、顔つき別人のように生気が抜け、目もどんよりしていました。レビー小体型認知症特有の「認知の変動」と呼ばれます。)
美しく輝く目で、会話の途中に突然、黙り込むと、何が起こっているのかと困惑します。

それでも「何か(幻視が)見えて、困ることはない?」と訊くと
「何が幻で、何が本物かわからないから、見えているかどうかもわからない」
「調子はどう?」と訊くと
「頭が悪くなった」。理由を訊くと「人の言うことがわからない」と答えました。

母は、紅葉が好きなので、京都の紅葉の写真集を持って行って見せると感動
「は〜!息をのむ美しさって、こういうのを言うんだねぇ…!」
目を輝かせながら、長い間見入っていました。
「きれいだねぇ…!あれ?どうしてここ(写真の中)に熊がいるの?
「熊?…う〜ん。京都のお寺に、熊は、いなんじゃないかなぁ〜」
「いるよ。京都にだって、熊はいるよ」(きっぱり)

「あんた、さっき、お兄さんとそこで会った?」
「お兄さん?…亡くなった○○おじさんのこと?」
「え?!亡くなった?!お兄さん…死んだの…?!」(絶句し目を赤くする)
(私は、予想外の反応に、どう言葉をかけていいか迷っている。)
「…どうしよう…。私、お葬式にも行かなかった…」(涙声で狼狽する)
「行ったよ。ちゃんと供養したから大丈夫だよ」
(しばらくそんな会話が続く。母は非常にショックを受けていました。
 私は、最近、人の生死は問題にならないと思っていると話しました。)
「何十年も会ってなくて、これからも、多分一生会わない友達も沢山いる。
死んじゃったけど、繰り返し、ずっと思い出して、毎年拝んでる人達も沢山いる。
その人達は、私の中では、ずっと生きてる。生きてる人より、ちゃんと生きてる。
だから生きてるか、死んでるかなんて、関係ないんだなって思うよ。そう思わない?」
「そうだね」(きっぱりと言って、微笑みました。)

帰る日の母の一発ギャグ。
私「今日は、私、○○に帰るからね。また来るからね」
「え〜〜〜〜〜〜〜、ショ〜〜〜ック!」
私が笑い転げて「もう一回」と言うと、アンコールに応えてくれました。
(母は若い頃から、いつもこんな風におどけて場を和ませる人でした。)

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5種類の認知症 種類別 本人と家族の体験談(しばの母も)

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紅葉(去年、公園で撮影したもの。紅葉の名所ではないです。)
写真の上をクリックすると拡大します。

最近の母

母が急激に悪化してから4年以上になる。特別養護老人ホームに入って3年近く。
最近、再び要介護5になった。余程調子の悪い時に面接したのだろうと想像する。

母は、すっかり穏やかになって、もう突然怒り出すことが(私の前では)まったくない。
発作のように不安に襲われて、取り乱すこともなくなった。
母は、ただ静かに微笑みながら、いつまでも楽しく私との会話を楽しむ。
調子が良ければ、話の内容は、健康な頃と変わらない。

身内にあった祝い事を喜び、眼鏡をかけて、写真の1枚1枚を熱心にながめる。
「○○(名前)、幸せそうで良かったねぇ」と嬉しそうに見つめている。

その祝い事で、私が、昔、母からもらったものを人からとても誉められたと伝える。
「結婚した時、母が、持たせてくれたんです」
「そうですか。素晴らしいお母様ですねぇ」
そんな会話をしたのだと話す。
自分のためには、何も買わず、贅沢とは無縁の母だった。
感謝を伝えると「もう、止めて」と言って、涙を流している。

母は、にこやかで、しっかりしているけれど、命のエネルギーのようなものが小さくなった気がした。
声も更に小さくなり、むせないが、食べる量が減った。お菓子も求めない。
なんとなく体型も違う。
耳と肩の距離が縮まった気がして、首の付け根(背)を触ったら石のように固かった。
揉むと柔らかくなり「気持ちが良い」と喜んだ。
この固まり(パーキンソン症状の固縮か?)が徐々に広がって、やがて喉まで固めてしまうのだろうかと思うと怖くなった。

あまり目立たなかった短期記憶障害も確かに出て来た。
すべてではないが、新しい記憶が、時々きれいに消えていることに驚かされる。
母は、過去4年で一番穏やかだ。でも母の病気は、進行している。

穏やかな母を見ていたら、『これなら自宅で看られるじゃないか!』と思った。
『私の家に連れて帰りたい!』と、ふいに、強烈に思った。
(ただひとり、4年間、自宅介護を切望し続けてきたのが、父だった。)

私の家に連れて行くことは、現実的に、無理だ。
母から父(毎日母に会いに行く。)と兄を引き離すことになる。親しい親戚も。
母を家で看るなら、私が、私の家族と別居して実家に住み込むしかない。

私は、堪え切れなくなった。
何年もの間、一度も言えなかった言葉を、気が付けば口にしていた。

「お母さん、幸せ?」
(家族と離れて、一人きり、施設にいて、こんな生活で幸せ?!)
「幸せだよ」
母は、即答した。健康な時と同じ声で、同じ笑顔で。
我の強い子供に、やさしく諭すように。

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2014年2月の母「私、頭が変。怒り出すと止まらなくなる。怒りたくないのに」
2013年2月の母「可哀想かどうかなんて本人にしかわからないことだよ」
2012年6月の母「私だって、まだ人の役に立ちたいんだよ!」
若年性レビー小体型認知症だった母(幻視を幻視と気づかなかった)
母自身が語っていた幻視の見え方(人に隠してもいた)
5種類の認知症別 本人と家族の体験談集(母の語った症状なども)

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額紫陽花(ガクアジサイ)

母の涙の記憶

<これは、先日の「母の記事」への追記です。>

母の涙を見ていたとき、古い記憶が、よみがえりました。

私が、高校に入学した頃に読んで感動し、母に読んで聞かせた本の一節があります。
山崎朋子著「サンダカン八番娼館」(1975年)という本です。
幼くして娼婦としてマレーシアに売られ、過酷な人生を送った女性を描いています。
(大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、後に優れた映画にもなりました。)

私が、母に読んだのは、その女性が、著者(山崎朋子)に語った言葉でした。


  「—けどな、おまえ、人にはその人その人の都合ちゅうもんがある。
 
   話して良かことなら、わざわざ訊かんでも自分から話しとるじゃろうし、
  
   当人が話さんのは、話せんわけがあるからじゃ。

   おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」

               (文春文庫 P.242「さらば天草」の章から)


「良い言葉だね」と笑って言ってくれるとばかり思っていたのですが、母の反応は、違いました。母は、口をぎゅっと結び、目を真っ赤にして聞いていたのでした。
それは、母という人、母の人生に、触れたと感じた瞬間でした。


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スノーポール
公園の花壇の花が、みんな一斉に朝日を向いていました。
公園の西側の道から見ると、みんなこんな風に輝いていました。

歩行困難な母のトイレ介助

母の一時帰宅に合わせて電話。
久しぶりに母と電話で話す。
「昨日はありがとうねぇ!あんたの作ってくれたお弁当のおいしかったこと!」
と妄想(?)から始まるが、双方向の会話はしっかり成立するので驚く。
「来週から1週間帰るよ」と伝えると
「駅まで車で迎えに行くからね・・あ・・運転したら危ないって言ってたっけ?」
(3月、皆で何度止めても「運転を止めたら買い物にも行けなくなる」と聞く耳を持たなかった。)

それでも私が、母と会話らしい会話をできたのは、3月以来だ。
これくらいしっかりしていれば自宅でも介護できるのでは?という思いが、突然、沸き上がる。
父や妹の日々の迷いが、実感できる。

妹に訊くと、今日は、頭はずいぶんしっかりしているという。
(それでもずっと妄想話は、話し続けているらしい。)
泣いたり怒ったりの感情失禁もここ数日間ないと言う。
(薬の効果だろうか?)

でも体が、動かない。
手すりをの使い方が理解できなくなっているので「この手でここを掴んで」と一歩一歩手取り足取り指示を出す。
すぐにひっくり返りそうになるのでずっと支える。
妹「トイレに行って帰ってきたら、もうお互いヘトヘトだよ」
(ポータブルトイレもあるのだが、妹は、母の運動、リハビリのためにトイレに連れて行った。)

リハビリ担当者の話では、もっと良くなるはずではなかったのか?
ちゃわさんのコメントにある「リスパダールの副作用」なのだろうか?
遠距離にいると何もわからない。主治医に色々訊きたい。

病院を出発する直前にトイレで失敗して、ズボンを便で汚してしまったそうだ。
妹「それをお父さんったら、私に<洗っといてくれ>って言うんだよ!ほんとにあれで介護する気あるのかな!」
経験がないので、何をどうしたらいいのかわからないのかも知れない。
でもそれならそれで、学ばなければ・・。
ヘルパー2級の資格取得のために毎週講習に通っていた時、妻の介護目的に来ていた男性がいた。
自宅で介護するなら、その位の姿勢、準備がなければと思う。
単純そうな車椅子の使い方1つでも色々な注意事項はあるのだ。
「その時になればちゃんとやるし、ちゃんとできる!」と父は怒っていたけれど。

子ども達が赤ちゃんだった頃、夫が、「ウンチだけは、どうしても無理だ」と言って、一度もウンチの付いたオムツを替えなかったことを思い出す。
当時、海外に住んでいて、時間的にも余裕があったせいで積極的に育児に関わっていた夫ですらそうだ。
男性には、どこか甘え(逃げ)がある。例外もいるのだろうけれど・・。

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認知症になる前の母 

認知症になる前の母は、どんな人だったか・・。
ここ数日考え続けているが、知っていることの少なさに、愕然とする。
母は、日々、何を喜び、何を悲しんでいたのか。
18才までしか一緒に暮らさなかった私は、母の断片しか知らない。或は、覚えていない。
(だが私と同居している私の息子たちもまた私の断片しか知らないのだろうとも思う。)

母は、明るく社交的で、人の輪の中心にいて、いつもおどけて皆を笑わせていた。
誰からも慕われる人だった。
反面、昔から時々ふさぎ込んで鬱状態にもなっていた。
(甲状腺の症状なのだろうと思っていた。パーキンソンでも認知症でもそうなる。)

生活は、厳しく切り詰めながら、ひたすら貯金をし(兄と3人分の老後の資金を貯めようとしたのだろう)しかしここぞという時には、どんと大金を出す太っ腹でもあった。

20才で自営業の父と見合い結婚をし、父と共に、土日もなく朝早くから夜遅くまで働き続けた。
34才で甲状腺の病(当時は癌と誤診された)を患って半年以上入院し、それを機に父が店をたたんだ。
再び、今度は兄のために、3人で家でできる仕事を始めるまでの数年間は、初めてゆったりとした生活をし、趣味で始めた皮細工に熱中したり、パンを焼いたりして、楽しそうにしていた。

色々な人に頼られる反面、私が幼稚園の頃から高校を卒業するまで「お兄ちゃん(私の兄)を頼むね」と言い続けていた。
明るい笑顔の影で、何だかいつも歯をくいしばって生きているように(子どもの私には)見えた。
障害児を持つ母親は、多かれ少なかれ、皆、そうなのかもしれないと思う。

ヤクザに因縁をつけられて大喧嘩をしたり、飼い犬の死に号泣したり・・。
思い出すことは、色々あるけれど、やはりそれは、母の断片でしかないのだと思う。

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一転、穏やかになった母

母は一昨日見舞いに行った妹を笑顔で握手して見送ったという。
先のことは、本当にわからないのだと思う。
心に広がる安堵感の深さに、我ながら驚く。
明日のことは、わからないにしても・・・。

昨日は、再び、短時間(4時間強)だけ一時帰宅を試したという。
(看護師が退院に備えて、環境の変化に適応できるよう、一時帰宅を勧めたという。)
今回は、頭がはっきりしている時間が長く、しばらくは、落ち着いて穏やかに過ごしていたという。

しかしやがて「私は病院には行かない!病院で話を付けて来て」と言い始めた。
父が、怒鳴らず、怒らず説得したがだめ。
妹が、根気強く説得すると、目に涙を浮かべて「わかった」と言い、おとなしく病院に戻ったという。
3月以降、私が帰省した時には、説得して理解できた時は一度もなかったので、驚く。
父も妹も母の調子の良さには驚いたようだ。
「このくらい穏やかなら、何とか自宅でもやっていけそうだと思った」と妹。
妹にのびた髪を切ってもらい、足を洗ってもらい(指の間の垢が常にひどいようだ。)、むくんだ足をマッサージしてもらい、母は、どんなに心安らいだだろう。

帰宅後に通うことになるデイサービスについても「とっても良い所だよ」と初めて伝えたそうだ。
普通の家に、赤ちゃんから小学生までの子ども、お年寄り、がんの末期患者まで、様々な人たちがいるのだそうだ。
障害者も受け入れているらしい。
私も理想的なあり方だと思う。
子ども好きの母が、幻覚(幻視)ではない本当の子どもたちと触れ合えば、きっと良い効果が出ると妹は期待をしている。

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母の一時帰宅

毎日「家に帰る!」と言い張り、泣いたり怒ったり大騒ぎする母のために、一時帰宅が許された。
一度家に帰れば、気も晴れて、落ち着くのではないかと、妹も看護師も思ったようだ。
私は、一度家に帰れば、今度は「病院には帰らない!」と暴れるのではないかと心配していた。
父も妹もそれは覚悟していたが、家に帰ればきっと精神的に落ち着くと信じていた。

父は前日の夜中まで家中に手すりを付けて受け入れ準備をした。
(既に家中に手すりはあったが、さらに隙間なく両側に取り付けたようだ。
本当はケアマネを通して、業者に付けてもらわなければ介護保険が使えないのだが、気の短い父は、それを待っていることができず、さっさと自分でやってしまった。)

しかしその手すりが使われることはなかった。
母は、自力ではほとんどまったく歩けず、立ち上がることすらできなかったそうだ。
(骨折入院する前の数週間と同じ状態。)
リハビリ室では、両脇の手すりにつかまって、かなり歩けると聞いていたのに。

認知症の状態も悪かったらしい。
家に帰ってきた喜びを感じている様子はなかった。
2度オムツに大量の便をしながら、本人は全く気がつかない。
しかしそれを笑顔で世話した妹には、
「悪いね。悪いね。ごめんね。ごめんね」
とずっと言い続けていたという。
「私、だめだね・・だめだね・・」
と繰り返す母は、しょげ返って、静かに病院に帰った。

妹は、げっそり疲れたようだ。
父は、妹が買い物から戻ってくると母を怒鳴っていたらしい。
運悪く兄も精神的に調子が悪く、爆発して叫び続け(普段から時々そういうことがある。)それを聞いた母は、自分の頭を叩き始めたという。
母も父も妹も、笑って過ごせる穏やかな時間を期待していたのに・・・。

「病院ではわりとちゃんと食べれてたのに、レストランでは全然だめ。犬みたいに食べる」と妹は、ため息をつく。
父は、食べ方には全く触れず「一人前、全部食べたぞ!あれだけ食欲があれば、きっと良くなっていくと思うんだ。(私、すぐには返事ができず沈黙)なぁ・・・そう思うしかないだろ・・」

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この夢から覚めたい

母は相変わらず、正気と感情失禁(怒ったり泣いたり、感情が激しく振れる)を行ったり来たりしている。
幻覚、妄想も変わらないよう。
同室の人や廊下ですれ違う人、看護師に意味のわからないことを話しかけることもよくある。
私も帰省した時、見た。
社交的で明るかった母が、知らない人によく話しかけていた元気な頃と同じ口調だった。
妹が、何を言われても母の言葉を受容していると比較的落ち着いているとは言うが、それは本当に忍耐の必要なことだ。

母が、正気の時、言ったそうだ。
「早く家に帰って、この夢から覚めたい・・!」

「認知症になったら施設に入れるのが一番。本人は何もわからないんだから」
「ボケた人は楽よ。みんな忘れて。何もわからないんだし。大変なのは家族よ」
過去にも、母が認知症になってからも、そう言う人は時々いる。
でも現実はそうではないと思う。
何もわからなくなって、言葉も失って、感情すらないだろうと思われていた祖母(母の母)が、ある日突然
「世話かけて悪いね。でも、もうそう長いことではないと思うから」
と母にはっきり言ったことがあった。

終わりのない悪夢の中に投げ込まれて、それでも人のある部分は、正気を保っている。
その苦しみに、心が崩壊することもなく・・。



人の態度に敏感な母

2日間(6月18、19日)帰省して母の様子をみた。
認知症の状態は、一緒にいる短い間にも刻々と変わっていった。
でもどんな状態になっても母は、常に心穏やかでない。

どこかに行くことになっているが、父や兄にその時間を伝えていないとひどく慌てていたり、頭がはっきりしてきた時には、私たち兄弟のことを深刻に心配している。
「ああ、それならもう解決したみたいよ」
と言っても、騙されるものかという顔をしている。

あまり反応せずぼーっとしている時もあれば、食べ物のことで怒ってお菓子を床に投げつけたりもする。
ティッシュをパンだと言って食べようとしたりもした。
幻覚にも相変わらず声をかけ続ける。

自分が入院していることは、よくわかっていないが、正確に人の状況を把握していて驚かされる時がある。
私が、自宅介護が可能かどうか見極めようと思いながら話をしていると
「何を観察してるの?」と言い、2日目に睡眠不足で頭痛を抱えて行くと
「疲れてるんだね」と言う。
何が何だかわからない会話の合間にだ。

妹の精神状態にも敏感に反応して「来たくないんだね」と言って驚かすと言う。
誰からも笑顔も言葉ももらえず、ナースステーションに一日置かれている間、母は、なぜそこに居るのかはわからなくても、スタッフたちの冷ややかさは、ひしひしと感じているのだろうと思う。
私や妹が感じるのと同じように。

頭がはっきりした短い時間、私は、意を決して母に訊いた。
「退院したら何をしたい?」
「庭に花を植えたいねぇ」と母は答えた。
私は、自宅介護が困難なことを噛み砕いて説明した。
「Yおばさん(在特別養護老人ホーム)の居る所、わかる?そういう所に行くの、お母さん、どう思う?」
叫び声を上げそうな自分を抑えて、訊いた。
しばらく考えて、母は言った。
「お父さんがいいって言うならいいよ」

でもその直後から、会話は成立しなくなった。
だから正確な理解に基づいた答えだったのかどうかは確かめられない。
それでもその一言は、父や妹にとって大きかった。
二人とも母の唯一最大の願いは、家に帰ることだと信じていたから。

動くな

調子の悪い日が続いているらしい。
毎日リハビリ室に行っては「動け!動け!」と言われ、病室に戻ると「動くな!動くな!」と言われているのだと、親切な看護師の一人が言ったそうだ。
一人で車椅子から立ち上がろうとしたり、ベッドから出てトイレに行こうとしたりして、その度、騒ぎになるらしい。

今日は、来る看護師、来る看護師に「夕べはご迷惑をお掛けしました」と母が謝っていたという。
何をしたのかは、不明。
でも病院のつなぎのパジャマを着せられて、ベッドの柵もベルトで補強してあったという。

迷惑をかけたことなんて、忘れてしまえばいいのに・・と思う。
アルツハイマーは、忘れることで知られているが、母の場合、記憶障害は、目立たない。
何度も同じことを訊くということは、一度もない。
だから余計、認知症の早期発見ができなかった。

5月に帰省して見舞いに行った時は、症状である幻覚(常に色々なものが見え、全て現実だと思っている。)と妄想の話をエンドレスで話し続けていた。
夢の話を聞いているようで支離滅裂だ。
「今朝は、おじさん(故人。母の兄)と一緒に船に乗って島に行って、おじいちゃん(故人。母の父)の形見分けをしてね・・あっ、可愛い女の子(幻覚)!ねえ、あの子にお菓子買ってきてやって。○○(飼い猫の名。幻覚)、こっちおいで。ああ、お祭り(幻覚)が始まったみたいだね。○○(私の兄。幻覚)、どうしたの?なんで泣いてるの?」
といった話を一日中しゃべり続ける。

看護師には「ここに長く居候(いそうろう)するのは申し訳ないんで、S町の実家(母が結婚するまで住んでいた所)に帰りたいと思います」と言った。
そういう母を自分の目で実際に見て、私は、諦めがついた。
(でもその後、母の頭がはっきりする時も出て来た。私はまだ見ていないが)

支離滅裂で会話が成立しない母を数日見続けると妹や父も冷水を浴びせられたようになるようだ。

歩けた

父がリハビリを覗いて見ると、なんとU字型の歩行器につかまって何メートルも歩いていたとか。
ついこの前までは、つかまっても立つことすらできなかったのに。
何がどう変化してそんな急速に進歩したのかは、わからないけれど、とにかく電話の父の声は、とても明るいし、私も本当にうれしくなる。
看護師が口を揃えて無理だと言う自宅介護だって、もしかしたら出来るんじゃないかという希望がふくらんでくる。
体が動く時は、頭も動くようで、会話もちゃんとできたと言う。

母の病気は、体調が、日々(時間によっても)刻々と変化するのが特徴。
良かったり、悪かったりの差が激しい。
体調が悪い時は、石のように動けない。
頭の回転も止まり、会話もできない。
表情も生気もなくなる。
でも体調が良くなると、ヨタヨタだが、動ける。
ボケていないかのように会話ができる。
顔つきも別人のようだ。

5月中旬に私が帰省して訪ねた時は、体調が良い状態の日は、一日もなかったが、(だからもうこれ以上良くなることはないのだと覚悟をした。)このごろ体調の良い日が時々あるらしい。
父も妹も調子の良い母を見ると、退院しさえすれば、家に帰りさえすれば、何とかやっていける位、母の状態が回復するのではないかと思っている。
私だってそう思いたい。



不潔行為(弄便・ろうべん)

情緒不安定になって泣き止まないということが、初めて起こった翌日。
病院から「便こねをするので、つなぎのパジャマを3枚買って下さい。」と言われたと妹から聞く。
母は、看護師から叱られたのだろう。
すっかりしょげ返ってめそめそと泣き続けていたと言う。

「なんで触っちゃったの?」と妹が訊くと「だって気持ち悪かったんだもん」と答えたという。
私が以前読んだ本の中にも「弄便は、理由なくするわけではない。オムツの中が気持ち悪いので何とかしようと触る。手が汚れるので、きれいにしようとシーツや布団で拭く」と書いてあった。

母は、妹の介助でトイレに行くと(本当は看護師を呼ばなくてはいけない。)ちゃんと排便することができたという。
いつもそばにいて尿意や便意のたびにトイレ(orポータブルトイレ)に連れていく介護者さえいれば、母は、オムツなどせずに済むし、弄便などしない。
しかし、父も妹も仕事をしている。
いや、例え、仕事をしていなかったとしても(父が土日だけでも仕事を完全にやめたとしても)それを日々続けていくことは、どれほど大変なことだろう。
気が短く、細かいことに気が回らない(気が付かない)父に、それが可能だろうか。

父も妹も母の回復に強く期待している。
自宅介護を望んでいる。
その望みを突然揺るがす1日だった。

追記 精一杯冷静にはしているが、この日は、私も動揺していた。
わーっと叫んで、家中のガラスを叩き割りたい・・そんな衝動が、何度も浮かんでは消えた。



tag : 便こね 弄便 不潔行為

突然、情緒不安定になる

父から「今日は今までの中で一番調子が良かったぞ!」と弾んだ声で電話があった直後。
妹からの電話。
母が、夕方、泣いて電話してきたと言う。
看護師が「不安定になっているようなので病院に来て欲しい」と言うので飛んで行く(30分かかる。)と、カバンがなくなったと激しく泣いているという。
カバンなんて最初からないのだと、大丈夫だと優しく話しかけているうちに段々落ち着き、泣き止んだそうだ。
こんなことは、初めて。
これが続けば家族の負担は・・。

母は、3月から突然、要支援2から要介護4へと激変していった。
ほんの1ヶ月ほどの間にだ。
毎日のように、あれができなくなり、これができなくなり、失禁するようになり、歩けなくなり・・・。
携帯も、まずメールが打てなくなり、次に読めなくなり、掛けられなくなり、電話に出ることもできなくなった。
本当に、毎日、急な坂を転がり落ちていくようだった。
あの時のように、想像もしていなかったことが、これからも日々起こっていくのだろうか・・・?



退院後についてケアマネと相談

妹との電話。
病院の看護士からも言われているが、ケアマネも現在の状態では、自宅介護は無理だと言う。
しかし父も妹も施設入所には抵抗がある。
リハビリによって、もっと体が動くようになるのではないか、自宅に帰ればボケも改善されるのではないか、という思いがある。
何より本人が、家に帰りたがっているという。

ケアマネは、ひとまず週5日のショートステイ(土日だけ自宅に帰る)を選択し、それが無理だと判断した段階で、老人保健施設に、という。
そのためにすぐにでも老人保健施設の見学に行って、予約を入れておかなければいけないと言う。
特別養護老人ホームの予約も絶対に必要だと強く言われる。

3ヶ月前までは、一度も考えたこともなかったことが、現実として目の前に現れる。
母は、このまま要介護4のままなのか?
もう歩けるようにはならないのか?
現実のこととは思えない。



プロフィール

<しば>

Author:<しば>
私は認知症について希望を持てる情報を集め、共有している一介護家族です。医療・福祉の従事者ではありません。

特定の医師・治療法等へのこだわり、信仰する宗教はありません。
認知症に関連するビジネスもしていません。
掲載する情報は正確・公正であるよう努めています。

このブログ内の記事は、出典さえ書いて頂ければ、自由にコピーして資料等として使って頂いて構いません。リンクもご自由に。

’13年5月から「レビー小体型認知症介護家族おしゃべり会」(全国に広がる家族会)公式サイトに「しば記者デスク」「体験記」というコーナーを頂き記事を連載中。(こちらの記事は会に著作権があります。)

ツイッター:しば@703shiba

*レビー小体型認知症の症状やチェック方法は、カテゴリの一番上「症状チェック」を。


母 '05パーキンソン病と診断。’10.3月要支援2→要介護4へ激変。5月レビーと診断。2度の転倒骨折入院の後、自宅介護が困難に。8月末グループホーム入所。’11年3月に圧迫骨折で寝たきりに。7月特養入所・要介護5に認定。'12年要介護4に回復。’14年なぜか要介護5になるが穏やかで普通に会話が可能。
S13(1938)年生まれ。

父 ’10年9月ピック病(前頭側頭型認知症)と診断。
昭和2桁生まれ。

私 ’60年代生の女性。300km離れた所に住む。日々の介護はきょうだいに頼り’10年から月1回、’12年から1〜2ヶ月に1回帰省。

好きなこと:読むこと・書くこと・草花の写真を撮ること等々。

*記事に付けた花の写真は私が撮影したものです。

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